千の天使がバスケットボールする

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『ベッピーノの百歩』

2005-08-28 22:59:08 | Movie
1978年5月9日、シチリア島の小さな町、チニシで一人の青年の遺体が発見された。正確に言うと、遺体は粉砕されて飛び散り、その姿らしきものははなかった。何故ならば、殴られ気を失った青年はダイナマイトを体にいくつも巻きつけられ、線路に横たえられたからだ。けれども警察は、「自殺」と断定した。

シチリヤの風と光りが舞う”ファミリー”が集う会食のテーブルで、少年ジュゼット(=ベッピーノ)・インパスタートは、詩を朗読する。賢い少年は、両親の自慢であり、叔父のお気に入りでもある。その文学的才能が、やがて違うカタチで発揮されるとは、この場にいた誰もが予想していなかっただろう。なにしろ父はベッピーノをボスであり、この地でマフィアの頂点にたつターノのようになることを期待していたのである。

ある日、大好きだった叔父が自動車とともに仕組まれた爆発事故でこの世を去った。ベッピーノは、共産主義者の画家の家を訪問し、叔父の肖像画を描いてくれるように頼むのだが、断られる。画家の「被害者も加害者も同じ穴のムジナ」。その言葉を48年生まれのベッピーノ(ルイジ・ロ・カーショ)が青年になって理解する頃、世の中は若者を中心に左翼化、保守的な価値観を破壊する政治の嵐が吹き荒れる。ベッピーノも反政府活動へとのめりこんでいく。
新聞で権力者を叩き、家族の写真まで公開してマフィアを糾弾する。そんなベッピーノを伝統的価値観をもつ父は、激しく嫌悪する。この時代の父である彼にとっては、息子が共産主義に被れることは、同性愛者になることと同じくらい許されざるべき”恥”なのである。家を出て、自前のラジオ局を開設するようになると、ベッピーノの鋭い説法は、毒をたっぷり盛り込んだユーモアをふりかけ、益々激しくなっていく。そんな緊張感の高まるなか、父親が暗殺される。

この映画は実在したジュゼット(=ベッピーノ)・インパスタートを主人公に、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナが監督した作品である。マルコ・トゥリオ・ジョルダーナは、1980年『Maledetti viamer(呪われた者たちを愛す)』という学生運動世代のテロリストの末路を描いた作品でデビュー。その後、『パゾリーニ、イタリアの犯罪』でもパゾリーニ暗殺事件を題材に扱った作品など、権力の腐敗を追求する社会派である。

ベッピーノの葬式に、友人は誰ひとり参列にこなかった。何故、彼らはこの場に現れなかったのか。その答えは、ベッピーノの短い生涯での活動の正しさと勇気を証明している。

ベッピーノを演じたルイジ・ロ・カーショは、国立演技学校出身でずっと舞台で活躍していて、本作品がはじめての映画デビューになる。映画は実際チニシで撮影された。ルイジが街頭演説で批判をしている場面を撮影中、その対象の当人が新聞片手に道を歩いていた。ルイジはその時に、「映画は虚構の世界だが、何かを信じて死をも辞さない覚悟に、戦慄を覚えた。」とインタビューで語っている。またいかにもイタリアのお袋ともいうべき貫禄のある母親役のルチア・サルドが良い味を出している。ベッピーノのこども時代は夫に尽くす女盛りの妻、老いてはただ息子の身を案じる母親役を時の流れとともに存在感たっぷりに見事に演じている。

尚、ベッピーノの死後、友人たちはジュゼット・インパスタート=シチリア資料研究所を設立し、マフィア撲滅運動を続け、19年後、ようやく暗殺の犯人としてターノ・バダルメンティが起訴される。
監督インタビュー


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2 コメント

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その世界の闇 (ペトロニウス)
2005-09-01 07:46:49
どの社会にも闇の部分があります。イタリアの闇は、凄まじいですよね。古く伝統ある社会ほど、そういった闇は深く広い。
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闇は深い (樹衣子)
2005-09-02 22:26:59
>どの社会にも闇の部分があります

この闇は、このようなマフィアだったり、ヨーロッパの大富豪だったり、政治の舞台だったり、或る時は司法の場だったり、国を問わず、さまざまなところにあります。理性ではコントロールできない人の弱さかもしれません。古くて伝統ある社会とは、結局風とおしが悪いのでしょう。



また、そのような”ファミリー”の末端でしか生きられない人も、確かにいるのです。以前ブログにも書いたのですが、「友情」 -君が友を誇りに思えるように  西部邁著の最後に自殺する友人が、そうです。

ベッピーノが、ここまでマフィアを憎み徹底的に弾劾したのは、左翼運動が世界的に活発になった時代背景もありますが、自分も「所詮同じ穴のムジナ」(画家に言われたことばがそのまま自分にかえる)という意識に対する、猛烈な拒絶反応もあったのではないかと推察します。

タイトルの「ベッピーノの百歩」の”百歩”とは、自分の家から歩いて百歩のところに、ボスのターノの家があるのです。

そして力で息子を押さえつけようとする父への反発。

さらに小さな田舎町の閉塞感、闇の権力者と表の権力者が裏で手を結び、私腹をこやしていることへの嫌悪感、そういったことも拍車をかけたのかもしれません。



この映画は、朝日新聞主宰「イタリア映画祭」で、最も人気が高かったそうです。
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