宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

統合意識の形成

2011年12月11日 | 精神世界を語る
 
2011年10月28日にコルマン・インデックスのマヤ暦が終了して以来、早いもので、もう1ヶ月以上が過ぎた。やはり、確実に何かが変わってきている。

このとき、「統合意識が形成される」というのが、コルマン博士の予測の骨子だった。これから、知覚が拡大した人類には、一種のテレパシー能力が発達してくる。バラバラだった人類が、「統合意識」によって結び付けられ、ひとつの巨大な意識と化していくという。

どうやら、統合意識の形成は、着実に始まったようだ。まだ参加している人が少ないので、規模は小さい。気がつかない人のほうが、圧倒的に多い。

やはり、地球人類の全員が、いきなり意識を進化させるというのは無理がある。最初のうちは、参加できる人だけが加わるしかない。大半の人は蚊帳の外になるわけだが、だんだん参加者が増えていくことだろう。そうなると、統合意識が大きく成長し、より多くの人に存在を感知されるようになっていく。
  
統合意識の形成に参加している人たちには、いくつもの特徴があるという。ひとつは、原因不明の「至福感」に満たされるということ。もちろん、常時接続状態になるのは難しいのだが、統合意識と接続している間は、その場の状況によらず、至福感に満たされてくる。

その一方では、体調の不良を訴える人も続出しているらしい。風邪のような症状、微熱が出る、眠い、腰が痛い、歯が痛い、ふらつく・・・といった症状だという。

筆者には、どちらも心当たりがある。「至福感」というのは、しばしば起きている。昼でも夜でも、なんだか気分が良くなってきて、すぐ眠くなる。その一方では、過去に治療した歯が一斉にシクシク痛み始めて、ビックリしてしまったことがあった。これにはカナリ焦ったのだが、しばらくすると治まった。そういうことが、実際に起きている。
 
統合意識は、ポジティブな意識だ。これに巻き込まれた人は、ネガティブな考えが起きなくなってくるという。まあ、これまた常時接続状態というわけにもいかないので、まったくネガティブな考えが起きないというのも無理があるけど、ネガティブな思考が減ってくるのは確かだろう。

まだまだ、この先の段階があるらしい。対象物に意識を向けると、波動を心で感じ取れるようになるという。それによって、善し悪しが分かってくるみたい。なんだか、船井会長が大好きな、「オーリングテスト」みたいだ(笑)。オーリングテストの場合は、指に力が入るかどうかによって善し悪しを判断するのだが、この場合は、波動を心で直接、感じ取るようになるみたい。これについては、統合意識の形成が進んだ先の段階なので、まだこれからの話になる。
 
コルマン博士によれば、人々は至福感に満たされ、「この一瞬」に意識を集中して生きるようになるという。まさしく、ヴィパッサナー瞑想の世界だ。ヴィパッサナー瞑想が、やけにスンナリと理解できたし、妙にうまく行ってるな?・・・と不思議だったのだが、これはやはり、時代の風が背中を押してくれていたようだ。
 
こればっかりは、「はい、これが統合意識です」という具合に、目の前に出してみせるわけにもいかないのだが(笑)。
   
もちろん、結論を出すのは、まだ早い。まだまだ、先は長い・・・。
  

ソフトランディング

2011年12月11日 | 精神世界を語る

筆者は、かつて金融機関に勤務して、不良債権の対応その他に追われてた。その後はコンサルタント業に転じたものの、結局そこでもやってたのは、資金繰りに困った企業や、過大な債務を抱えた人の相談業務だった。意図してそうしたわけではないのだが、今の世の中では、自然とそうなってしまう。

このような経験をしたおかげで、「地球とは、お金で苦労するところなのだ」というイメージが、筆者には強く刷り込まれた。好きでそうなったわけではない。なんとも皮肉なことだ。

この先、「お金がなくても困らない世界」が実現した暁には、そこはもはや、地球とは呼べない。何か、別の名前をつけなきゃいけなくなる。とりあえず、「こっくり星」という名前を思いついた。う~ん、響きがいまひとつパッとしないか・・・。

と言っても、そんな苦労は、もう長く続かないのではないかと感じているのも事実。「昔は、そんな世の中だったのだ・・・」という昔話になる日が遠くないのは、ヒシヒシと感じられる。

お爺さんが、孫に「昔は、東京大空襲で大変だったんだよ・・・」というような、戦争の苦労話をするのと同じだ。遠からず、「昔は、金融や経済が大変なことになったんだよ・・・」というのが、単なる昔話になるだろう。

それにしても、「世界経済が破綻すれば、バラ色の世の中になる」という意見は、イカガなものか。それは、シャレにならない苦境を意味している。それのどこがバラ色なのか、さっぱり分からない。

経済の破綻や、戦争と革命は、地球人類の歴史には珍しくもなんともない。「またか」という感じ。人類は、それには慣れっこだ。それをキッカケに、「ショックで意識が覚醒する」というようなことは、まず期待できない。

どちらかと言えば、「平和と繁栄」の方が、大半の地球人類にとっては、よほど新鮮な経験になるだろう。「地球にも、こんなに平和で繁栄することはあるんだな」というオドロキ。それは、人類に計り知れない精神的刺激をもたらすに違いない。

ましてや、「天変地異」に至っては論外だ。

地殻変動や気候異変を引き起こして、生物を生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込むのは、地球環境が進化を促進するときの常套手段だった。

例えば、魚がノンビリ泳いでいたら、気候変動で海が干上がってしまった。魚は、水が引いた後の干潟で、生き残ろうと必死でジタバタあがく。回りの魚たちが次々と息絶えていく中、ヒレの筋肉を発達させて泥沼を這っていった者のみが、かろうじて生き残って陸地で進化する。そういうのが、地球の進化の歴史で繰り返されてきたパターン。

地球というのは、そういうサバイバル競争を煽ることによって進化を促進するという、なんともキツいところだったのだ。でも、もう、そういう時代ではない。いまや人類の意識は、自然な流れで急速に変容している。

政治的な問題に、それがハッキリと表れている。

今は、中東の独裁者たちがバタバタと倒れている真っ最中。リビアに続いて、シリアも内戦状態に突入した。独裁政権は、年内ももたないのではないか。一番、保守的で変わりそうにない地域だっただけに、ビックリだ。それも、秋になって柿が落ちるように、自然崩壊でパタパタッと潰れてる感じ。

こうなると、古い支配体制をいまだ温存している国と言えば中国だろう。先日の国際会議でも、南沙諸島に対する中国の侵略行為に、ゴウゴウたる非難が巻き起こっていた。日本の尖閣諸島問題がすっかりカスんでしまうほど、東南アジア諸国は怒っている。

この地球最後の帝国も、熟しきった柿のようにポトッと落ちてくれれば、世界が平和になるのだが(笑)。

まあ、それも時間の問題だろう。もちろん、中国や中東だけが古い体制なのではない。日本や欧米も、大きく変わるだろう。

人類の意識の変容は、すでに始まっている。それは、必ずや地球環境の変容を引き起こすはずだ。今よりもずっとマシな世界に向かって、自然な流れでソフトランディングする道は、もう見えてきた・・・。

幸福度の高い社会

2011年12月10日 | お金が要らない世界

 
先日、ブータン国王夫妻が来日して、改めて「国民の幸福度」が話題になった。ブータンといえば、「幸福度」だ。世界でも貧しい部類に属する国で、「今の生活に満足していますか?」という世論調査に、国民の6割が「満足している」、3割が「まあ満足している」と回答し、合計で9割に達した。
 
この国は、老子の理想とする国に似ている。人口は70万人しかいない。ヒマラヤ山脈の高地にあり、年中、霧や雲に覆い隠されている秘境。しかも、旅行者や移住者の入国を厳しく制限して、鎖国に近い体制にしている。国民の約半数は、教育を受けておらず文字が読めない。ほとんどが農民だ。
 
ただし、「幸福度が高い」というのは、ブータンの中でも、主に地方の農村の話。ある調査結果によると、都市部で調査すれば、様子はカナリ違うみたいだ。「幸福度」は5割を下回っている。鎖国体制のブータンだけど都会では、なぜか学校の授業を、すべて公用語の英語でやっている。海外に留学した経験のある人も多い。情報量が多い都市の住民は、自分たちの置かれた状況をよく知っている。こうなると、幸福度はグッと低下する。やはり、「知らぬが仏」という言葉のとおりなのか・・・。
 
ブータンに比べて、日本人の幸福度は低い。「今の生活に満足していますか?」という質問に、「満足している」という回答は、わずか一割だった。もっとも、日本の調査でも、「まあまあ満足している」という人も含めれば、「満足」が5割を超えている。その点、日本人の「不幸」ぶりは誇張されている。
 
それにしたって、アンケート結果からすれば、日本人はあまり幸福そうではない。ここで昔なら、「お金があって豊かでも、心は不幸な日本。お金がなくて貧しくても、心は幸福なブータン」という、オナジミの二項対立図式が登場するところなのだが(笑)、残念ながら、今の日本はそういう状況ではない。今の日本では、お金がなくて困っている人が多い。こんな世の中で「お金があって豊かでも・・・」というような話をしても、「ハァ?」という反応が返ってくる恐れがある。

それにしたって、狭い自給自足の農村社会で、外界の事情を知らない無知で無欲な村人たちの満足度が、目立って高いのは事実。同じブータンの国内でさえ、都市部と比べて農村部の満足度が高いことに、それがハッキリと表れている。老子の「小国寡民」は、やっぱり昔も今も真理なのだ。

でも、この先もそれが理想像であり続けるかと言えば、それはどうだろう。
 
やっぱり、「高い意識を持った人々による、理想の共同社会」というのが、次のステップとして見えてくるんじゃなかろうか。つまり、「無知で無欲な村人たちによる、幸福度の高い社会」から、プレイヤーを入れかえて、「高度に進歩した文明人による、幸福度の高い社会」を目指す。いつまでも、「次善」を目標にしてるわけにはいかない。「最善」を目指さなくてどうする・・・というわけだ。
 
そうなると、老子の「小国寡民」からは離れてくる。今度は、ヘーゲル大先生が登場する番だろう。それは、ヘーゲルが唱えた理想の市民社会、「人倫の共同体」に似てくる。

これは、今までの地球人類の意識レベルでは空理空論にとどまっていたが、意識進化の時代を迎えた今は、現実問題として再浮上してもおかしくない。

(続く)
  


老子の養生法

2011年12月09日 | 東洋思想
 
「行間を読め」という言葉があるが、老子の場合、その行間には「気功」が流れている。たとえば、
 
>ここをもって聖人の治むるや、その心を虚しくして、その腹を満たし、その志を弱くして、その骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、かの智者をして敢えて為さざらしむ。
 
・・・という、古来から有名な一節がある。寥赤陽氏という気功の専門家によると、ここは従来、このように解釈されてきた。
 
>だから、聖人の政治は、民衆の頭脳を無知にさせ、同時に、腹いっぱい食わせなければならない。民衆の志をなくして、ただ働かせるだけで筋骨ばかり発達させる。常に民衆を無知無欲にさせておく。こうすれば、頭の良い人がいても反乱を起こせない。
 
ここは、老子の「愚民政策」と呼ばれ、どうも評判の悪いところ。たしかに、民衆はバカで志が低くて、腹いっぱい食べて筋骨モリモリで、ひたすら黙々と働いていればいい・・・というのだから、まるでどこかの独裁国家みたいだ。文化大革命の頃の中国では、「老子」は奴隷を支配する古い支配階級の代弁者とされ、階級闘争のシンボルとして槍玉に上がっていたという。
 
ところが、気功の養生家たちにとっては、上記の一文がカナリ違う意味に見えてくる。
 
深呼吸して、リラックスして座る。これは、「静坐」と呼ばれる気功の基本ポーズだ。静坐をすれば、頭からさまざまな雑念がなくなって心が静かになり、お腹に「気」のエネルギーが充実してくる。「その心を虚しくして、その腹を満たし」というのは、そういうことを意味している。
 
次に、欲望をなくして、やたらに精気を浪費しなくなれば、下腹の丹田(たんでん)と呼ばれるところに「気」がたくわえられてくる。そうすると、歯が抜けたり、骨がモロくなったりしない。そういう老化が早く進むのは、精気をむやみに使いきってしまうのが原因だからだ。「その志を弱くして、その骨を強くし」というのは、そういうことを意味している。
 
こうなると、上記の文の前半は、聖人が自分自身の身を修めるための養生の秘訣。そして、後半の「常に民衆を無知無欲にしておき、知者に勝手な行動を起こさせない」というのは、「自分の身を修めるのと同じように、世の中を治めるのだ」という主旨になる。

つまり、「自分自身の頭をカラッポにして欲望をなくす。それと同じように、民衆も無知無欲にするのだ」ということ。

そうすると、どうなるのか。自然治癒力が回復するのである。上記の一節は、次のように続く。

>無為を為せば、すなわち治まらざる無し。
 
>「何もしない」ということをすれば、何事も治まらないことがない。

つまり、老子の「無為自然」というのは、気功の養生法を実践することによる「自然治癒力」を意味している。薬を飲んだり、ましてや切開手術などはせず、自然治癒力によって健康になる。それを、自分の身体だけでなく、世の中にも同じように適用しようと言うのだ。そうすれば、何事も治まらないことがない。自分も、世の中も・・・。

老子は、古来から「力強いお言葉が並んでる割に、何が言いたいのか、イマイチよく分からない古典」という定評がある。でも、気功に通じた人々は、このように理解してきた。たしかに、言われてみれば、その通り。
  
この「静坐」というのは、単に心身をリラックスさせて、自然体になるのが目的。インド伝来の座禅と異なり、「思考を止めて精神統一する」というようなことは目指していない。一見、似てるけど、目的がまるきり異なる。
  
気功では、この心身リラックス状態が基本。ここから体内に「気」を巡らせていく。

>これを身に修むれば、その徳はすなわち真。これを家に修むれば、その徳はすなわち余りあり。これを郷に修むれば、その徳はすなわち長し。これを国に修むれば、その徳はすなわち豊かなり。これを天下に修むれば、その徳はすなわち普し(あまねし)。・・・われ、何をもって天下の然るを知るや。これをもってなり。

ここでいう「これ」というのは、「道」(タオ)を指しているのだが、基本はそれを「身に修める」こと、つまり、気功の養生法をマスターして自分の身体を健康にすることにある。老子によれば、天下を治めるのも、同じ要領で行けばいい。気功によって心身をリラックスさせ、体内に良い気をめぐらせて健康に長生きする。それと同じように世の中を治めれば、自然にうまくいく。
 
無為を為せば、すなわち治まらざる無し・・・。
 

気功パワー

2011年12月08日 | 東洋思想
  
道教の関係者は、たいてい老子を創始者として位置づけている。老子は、道教では「太上老君」と呼ばれ、完全に神様あつかいだ。

もっとも、専門家に言わせれば、道教は民間の信仰から発達したものであって、老荘思想との直接の関係はないらしい。確かに、事実はその通りなのだろう。でも、基本的な精神がとてもよく似ているから、老荘思想を道教の祖とすることに、感覚的な違和感がない。
 
その道教と、気功には切っても切れない関係がある。

気功と言えば、筆者の脳裏に浮かぶのは、中国の武侠ドラマだ。武侠ドラマというのは、中国によくある時代劇の一種。修行鍛錬で超人的な武術を身に付けた武芸者が、内功(※)を駆使して、超絶の武芸を披露する。

「キエ~ッ!」と瓦を叩き割ったりするのは序の口もいいところで、武侠ドラマの凄腕は、内功で空を飛んだり、橋を吹っ飛ばして渡れなくしたり、大波を起こして船をひっくり返したり・・・、とにかくハチャメチャな絶技を繰り出す。「一騎当千」なんて生易しいものではない。場合によっては、一人で軍隊を丸ごと叩き潰せる。
  
それも、笑う場面ではまったくない。ストーリーは極めてシリアスそのものなのに、トンデモない絶技の連続なのだ。武侠ドラマにハマると、寝食を忘れて熱中する恐れがあるから、それなりの覚悟をしておかなきゃいけない。
 
でも、気功の専門家に言わせれば、武芸者の絶技は、本来の気功ではない。本当は、体内のエネルギーをうまく巡らし、体が本来的に持っている蘇生の力を活用する養生法なのだという。

もっとも、これまた、敵に毒物を飲まされてグッタリした武侠ドラマの武芸者が、内功を体内に巡らせながら、時間をかけて蘇生していくシーンですっかりオナジミなのだが・・・。
 
養生法というのは、まさにその通りで、道教が理想とするのは「不老長生」。かつて、これを「あの世で永遠の生命を得るというのが、老子の真意だったのです」と解説している新興宗教の本を見たことがあるのだが、そういう意味ではない。ここでいう「不老長生」ってのは、気功を巡らせて養生することにより、この世で長く生きることを意味する。あくまでも、「この世」で不老不死になるのが目標なのであって、「あの世」への関心はゼロだ。世俗を離れて、いつまでも飄々と生きている、仙人になるのが道教の理想。

まさしく、気功こそは、東洋の神秘そのものだ。気功の関係者に言わせれば、この気功による養生法を知らずして、老子を真に理解することはできないという。これは、実に納得できる話だ。なんとなくピンとこない初期仏教の思想が、ヴィパッサナー瞑想をやってみて、初めてピンとくるのと同じ。

「体内に気を巡らして養生し、不老長生の仙人を目指す」というのが、老子の全編をつらぬく隠れたテーマだと言われれば、ハタと思い当たるものがある。

老子は、古来から「簡潔明瞭だけど、何が言いたいのか分からない古典」として知られてきた。「英語訳を読んで、始めて理解できた」と言われるゆえん。老子がよく分からなかったのは、気功による養生法を知らなかったせいだ・・・というのには、説得力がある。




※内功・・・体内の気功パワーのこと。これに対して、剣術や掌法などの通常の武術が外功と呼ばれる。

老子

2011年12月08日 | 東洋思想

トランスパーソナル心理学は、スピリチュアリズムや東洋思想を取り入れた、「意識進化」の心理学。その代表格の1人であるケン・ウィルバーは、学生の頃、とても優秀な理系学生で、いつも飲んで騒ぐ明るい好青年だったらしい。そんなウィルバーがある日、一冊の本を読んで、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。その後、ウィルバーは精神的な葛藤に入ってウツ状態となり、いつも半日くらい思想書を読みふける日々を送ったという。その一冊の本とは、「老子」だったそうな・・・。

東洋思想という、次元の異なる世界との出会いは、ウィルバーの住む世界をひっくり返してしまった。それにしても、老子は、これほどの影響を欧米の知識人に及ぼしている。あの「現代のスピリチュアル・リーダー」ことエックハルト・トールも、愛読書のひとつに「老子」を挙げていた。

「日本は、選ばれた特別な地なのです」と唱える人は少なくない。その理由に挙げられることが多いのが、「東洋思想と西洋思想が流れ込み、融合する地だから」というもの。二千年に及ぶ、神道・仏教・儒教・道教・・・の歴史と伝統の厚み。それに加えて、すべてを翻訳しつくす勢いで浸透した、西洋哲学。たしかに、日本にはあらゆる思想が流れ込んでいる。もちろん欧米でも、知識人なら東洋思想をよく知っているから侮れない。もっとも、こちらが西洋哲学を知ってる度合いに比べてどうか・・・と思うと、やはり相当な地の利があるのは確実だ。本ブログも、そんな日本にいるから書ける内容には違いない。
 
老子の英語訳は、欧米で広く普及している。英語は、良くも悪くも“YES,NO”の世界で、明快なのが特徴だ。だから、老子も、英訳すると妙に歯切れよく、分かりやすいものになる。タオイストの加賀祥造氏も、「英語訳を読んだおかげで、老子が理解できた」と語っていた。でも、漢文に長いこと慣れ親しんできている者にとっては、なんだか違和感がある。「アラビア語でないコーランは、コーランではない」というのと同じで、漢文でない老子は、なんだか老子という気がしない。

>柔弱は剛強に勝つ。魚は淵より脱すべからず。国の利器は、もって人に示すべからず。

やっぱり、これでこそ老子だ。まったく、「剛強」そのものと化して空母やミサイルなどの「国の利器」をひけらかしている、今の中国政府にこそ聞かせたい言葉。
 
老子は、非戦論者だ。でも、絶対に戦争はダメだというわけではない。「戦争は、できる限り避けるべきだが、どうしても仕方がないときは、なるべく早く終わらせるべきだ」というような考え方をしている。「孫子」も、同じ考え方をしている。それが、現実主義というものだろう。戦後日本の空想的な反戦平和論とは、似て非なるものだ。
 
もっとも、中東の独裁国家もバタバタ倒れている今、本当に戦争が起きない世界は、すぐそこまで近づいてきているのだが・・・。
  
 
 

南無阿弥陀仏

2011年12月04日 | こっくり亭日記

上野の東京国立博物館(東博)に、「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展を見に行った。

筆者は東博が大好きで、東洋美術をちょくちょく見に行っている。もっとも、最近は行ってなかった。たまには見ないと、忘れてしまう。

東洋美術は、マイナーでもないけど、大人気というほどでもなく、いつも落ち着いている。今回は特に、同じ公園内にある国立西洋美術館で、ゴヤ展をやっている。ゴヤの人気の影で、東博はさぞかしヒッソリ静かだろうと思っていたのだが、甘かった。会場内は、いつになく超満員。おそらく、大半が東洋美術ファンではなく、浄土真宗系の信者諸氏と思われる。いつもながら、信者パワーは熱い。アセンション時代とはいえ、既存宗教の勢力はやはり侮れない・・・。

展示物の量には圧倒された。2時間でも見尽せないほど多い。親鸞直筆、蓮如直筆・・・といった古文書が山ほどあるのには驚いた。「日本には、おびただしい古文書が残っており、世界にも稀な宝庫なのだ」と、かつて国文科の学者が言ってたが、ホントにそのとおり。大陸諸国では、戦争と革命が多すぎて、これだけの保全はとても無理だ。

唯円直筆の「歎異抄」の古文書や、親鸞が中国の経典を書写して朱でカキコミしたりしてるのを見ると、鎌倉時代がダイレクトに迫ってくる。これほど、歴史と伝統が一直線に現代まで流れ込んでいる国は他にないだろう。

そしてやっぱり、仏像や仏画が美しい。個人的には、中国の浄土教の宗祖、善導が椅子に座っている像が目に止まった。

善導は、唐の高僧で、いつも念仏を唱えていた。法然は、善導が書いた「観経疏」(かんぎょうしょ)を読んで「これだ!」と思い、念仏に目覚めた。しかも、夢に善導が出てきて、念仏や浄土のことをいろいろ教えてくれたという。これは、筆者の夢に宇宙人が出てくるようなものか(笑)。

法然が師と崇めたおかげで、善導は、中国よりも日本でずっと有名になった。三国志と同じく、日本でのあまりの人気ぶりに中国人がビックリで、「そんなにスゴいのか」と逆に見直されているほど。

筆者は、中国の歴史ドラマが好きで、ちょくちょく見ている。歴史ドラマには、坊さんがよく出てくる。坊さんが武芸の達人なのは、武侠ヒーローにアリガチな設定だ。少林寺の僧には、特に凄腕が多い。世の中で、じっとしていても内功で相手を吹っ飛ばせるのは、少林寺の僧くらいしかいないだろう。
 
中国の坊さんは、二言目には合掌して「阿弥陀仏」(アーミーターフォー)と唱える。超人的な武芸を誇る禅僧が、悪い奴らをボコボコに叩きのめして合掌し、「アーミーターフォー」。仲間が死んでも、合掌して「アーミーターフォー」。個人的には、これが気になっていた。「禅僧なのに、なんで念仏?」というのが疑問だったのだ。
 
中国では、日本と異なり、浄土教がメジャーな勢力にはならなかった。その代わり、禅宗に吸収される形となり、禅僧が念仏を唱えるようになったらしい。これは「念仏禅」と呼ばれる。
 
中国に入って、仏教はずいぶん変わってしまった。とはいうものの、禅も念仏も、元はと言えば、インド人の坊さんが海を渡って中国を訪れ、仏典を翻訳しつつ、「こんな具合にやるんだよ」と中国人に教えたものだ。変化したといっても、まったくの別モノになってしまったわけではないから、その点は安心していいみたい。
 
善人なほもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。

善人でさえ極楽往生できるのに、どうして悪人ができないことがあろうか。・・・という言葉は、法然が言い出して、親鸞が広めたおかげで、すっかり有名になった。

ここでいう「悪人」というのは、「悪い奴」とか、ましてや「犯罪者」という意味ではない。日々の生活に追われて、仏道修行どころではない、世間一般の俗人のことだ。縁なき衆生も、ひたすらに阿弥陀仏を信じ、一心に念仏を唱えていれば、救われる。

絵伝(文字通り、絵だけで表された伝記)を見ると、四国に流罪になった法然が、途中に立ち寄った島で教えを説いていた。稀代の高僧の説法を聴いて、島人たちは大喜び。極楽浄土の教えには、筆者も吸い込まれてしまいそうだ。
 
農民たちが山でアクセク働いている向こうでは、山の間から巨大な阿弥陀仏が姿を表した。どうやら、阿弥陀様が救いに来てくれたようだ。ありがたや。合掌・・・。
  
 

                        

ついに、人工肉の時代が来たか?

2011年12月03日 | こっくり亭日記


WIRED JP


生物は、いろんな細胞からできている。筋肉の細胞、肝臓の細胞、脳神経の細胞・・・みんな、形も機能も異なる。

一見バラバラだけど、そんな細胞は、バラバラに分かれる前はみんな「幹細胞」だった。

例えていえば、生まれたての赤チャンはまっさらな白紙状態だけど、成長するにつれて、サラリーマンや学者・スポーツマン・水商売・漫画家・・・その他の専門に分かれていくようなものだ。それに合わせて、まったく違うタイプの個性になってゆく。そこが人間界の不思議なところ。

それと同じように、幹細胞も最初はみんな同じなんだけど、成長するにつれて、だんだん専門的な細胞に分かれていく。形も機能もまったく違うので、途中で変えるのは無理。人間よりもツブシがきかない。

そんな幹細胞を育てれば、いろんな細胞が作れるんじゃないかと期待されている。皮膚の細胞を作れれば、シワシワな皮膚も若い皮膚に取り替えてピンと張るだろう。事故で手足がなくなった人も、手足を再生できるかもしれない。夢が広がる分野だ。

オランダの研究者が、そんな幹細胞から、人工肉を作る研究をしているらしい。幹細胞を育てて、筋肉や脂肪の細胞にする。できた肉を食用にする計画だ。

要するに、家畜を育てる代わりに、工場で細胞培養して、肉を作るのである。

実現すれば、牛や豚を育てて、して肉にするという、人類が太古の昔からやってきた食生活が変わる。これなら、肉食を続けても、動物愛護主義者だって文句は言えまい。牛や豚も、ノンビリと草を食べていられる。

ただし、問題はコスト。開発された世界初の「人工合成による食肉」は、

>ハンバーガーのパティ大を作成するだけで約25万ユーロ(約2,600万円)かかると推定されている。

というから、安くはない。2600万円のハンバーガーは、さすがに誰も食べないだろう。

さらに、味も問題だ。

ホンモノの肉は、筋線維が合わさってひとつのまとまった組織になっている。「筋肉は、使えば使うほど太くなる」と言われるように、牛や豚が歩き回って筋肉を使うことにより、自然に筋線維が発達する。さらに、ビールを飲んで太らせれば、脂肪がからまって美味しい霜降り肉になる。脂肪だけでなく、血液も肉の味を左右する重要な要素だ。

それに比べて、開発された人工肉は、まだまだ単純で貧弱な組織でしかない。味を改善するには、さらにコストがかかるだろう。

それにしても、動物の体はうまくできている。各組織は、エネルギー源、塩分、ミネラル、ホルモンその他が組み合わさった環境に置かれ、細胞同士が互いに連絡を取り合って共生している。筋肉の細胞も、こうした有形無形の支援を受けているから、健康に生きていられる。本当に、絶妙なシステムだ。さすがに、五億年もかけて進化してきただけのことはある。それを人工的にマネするのは、本当に難しい。

しかも、研究チームは、細胞を培養するための栄養分として、天然のタンパク質源を利用した。それは、解体処理の際に出た家畜の血清だという。これを使わずに、人工のたんぱく質を使えば、コストはもっとかかるらしい。

それにしたって、やはり大きな前進だ。「科学がどんなに発達したところで、葉っぱ一枚作ることはできない」という言い方が昔からされてきたが、このような技術が進歩すれば、葉っぱだって作れるようになるだろう。

人類が古来から抱えてきた多くの問題を、解決する可能性を秘めた技術だ。もちろん、それはそれで、また別の問題が発生しそうだけど・・・。



いよいよ、宇宙空間への観光旅行が始まる

2011年12月02日 | こっくり亭日記


クラブ・ツーリズム
 
2011年10月、イギリス人のリチャード・ブランソン氏が率いるヴァージン・グループが、アメリカのニューメキシコ州に建設していた「宇宙基地」が、いよいよ完成した。2011年末から2012年初に予定される、宇宙への観光旅行の第一号に向けて、着々と準備が進んでいる。

宇宙への観光旅行といっても、月や火星まで行くわけではない。地球の100km上空までスペースプレインで浮上し、そこで4分間、無重力状態を楽しむ。機内でフワーッと浮かび上がり、丸い窓から、青い地球を見る・・・。そして、地球に帰ってくるだけ。

それでも、人類にとって大きな一歩と言える。というのも、地球の100km上空まで行って無重力状態を体験した人というのは、まだ累計で500人もいないらしいのだ。ヴァージン・グループの予定では、最初の一年だけでも宇宙旅行者が過去の累計を超える見込だという。

費用は、ざっと20万ドル。今は円高ドル安なので、1500~1600万円くらいだ。これを高いと見るか安いと見るかは、人それぞれ。おカネというのは、あるトコロにはあるものなので、持てる人にとってはポンと出せる金額だろう。こんなことなら筆者も、せっせとカネ儲けに励んでおけばよかったか・・・(笑)。

とはいうものの、大画面テレビその他と同じで、何事も最初は高価なものだ。だんだん、安くなってくるから心配いらない。そのうち、誰でも行けるようになるだろう。
 
スペースシップは、大型ジャンボジェット機2台にはさまれたような形で、滑走路から離陸する。途中で切り離されて、単独で宇宙空間に飛び出す。客席は6人乗りで、乗務員が2名。目的地である地上100km地点で、シートベルトを外し、無重力で機体に浮遊することになる。たった4分間とはいえ、窓から見える青い地球が、最高の眺めなのは間違いない。
 
筆者もイマジネーションの領域では、いつも宇宙空間に飛び出しているのだが、物理的に実体験するのは、また格別なものがあるはずだ(笑)。そのうち、行ってみたいものだ・・・。


※画像はウィキペディア「ヴァージン・ギャラクティック」より