少年時代のダンテス・ダイジは、なぜか絶望しきっていた。
>春も深まり、すごしやすい季節になったが、当時17歳の私は、身も心も闇そのものといった感じだった。とにかく、全身心が重苦しく、倦怠と不安のかたまりだった。満たされない欲望と孤独感は、私から一切のものに対する関心と気力を奪っていた。
ダイジは、小学生の頃からまったく学校に適応できず、何度も自殺を図っていた。
>私はよく自殺を考えた。自殺についての思いは、小学校のものごころついた頃からあった。小学校の頃、私の唯一の願いは眠っている間に死んでしまうことだった。
学校をサボっては、座禅ばかり組んでいたダイジ。やがて、高校を中退してしまった。もはや、自殺する気力もなくなり、まるっきり堕落した無気力生活に入る。今でいう、「ニート」というやつだ。
先日、失業して求職中の友人が、「俺は、ニート生活を送っているよ」と言ってたが、筆者はそれを言下に否定した。「もしも就職先やバイト先を探しているのなら、それはニートとは言えない。『資格を目指して勉強』とか、そういうことをやっているのなら、それもニートとは言えない。要するに、仕事をしようとか、勉強しようとか、そういう意欲があるうちはニートではない」という話をしたところ、友人は絶句したが、「そうか、俺はニートじゃないんだな」と妙に納得していた。
またまた話は脱線したけど、少年時代のダンテス・ダイジは、そういう完全ニート生活を送ってた。一日中ゴロゴロしてテレビばかり見ていたが、テレビの内容を見る気力はないので、しまいにはチャンネルをガチャガチャ回すだけになった。
ダンテス・ダイジは、よほど集団生活にナジメなかったのだろう。こういう人を見ると、「よほど学校生活がつらくて苦しいんだろうな?」と思う人が多いんだけど、必ずしも、そうとは限らない。特別に嫌なことがあるわけでもないのに、ナチュラルに人生に嫌気が差している人というのは、いるものなのだ。しかも、それでいて、暗くて陰気なヒトかって言ったら、これまた、そうでもなかったり。生前のダンテス•ダイジも、さぞかし愉快なヒトだっただろうことが、いろんなエピソードから伝わってくる。普通の健全な感覚の人には、ちょっと理解を超える話かもしれないが・・・。
いい例が、古代インドのお釈迦さまだろう。王家の跡継ぎで、美男で、秀才で、お城で何不自由ない生活を送っていたにもかかわらず(•••ただし、ちょっと病弱だったんじゃないかとは言われている)、城の外で人が死んでいたり、病気の人が苦しんでいたり、老人がヨボヨボとつらそうに歩いていたり、赤ちゃんが大声で泣いているのを見てるうちに、この世で生きていくのがマジで嫌になってしまった。そういう人もいる。イマ風な言い方をすれば、自分の人生がどうのという以前に、この地球の物質環境そのものに嫌気が差したのだ。
それはともかく、無気力にゴロゴロして、チャンネルをガチャガチャ回していたダイジ少年に、転機が訪れた。テレビで、つまらない洋画の番組をやっていた。それは、ローマ時代のキリスト教徒の殉教をテーマにしたものだった。とはいっても、重厚で深遠な内容の作品だったわけではなく、むしろ軽薄なドラマだったという。それでも、ダイジ少年に、落雷のようなショックを与える場面はやってきた。
>やがて、場面はあるキリスト者の殉教のところへ来た。そのキリスト者は殉教される直前にこう言う。
>「それでも、私は神を愛する」と。
>その映画もその演技もその筋書きも、何もかも見え透いていて、つまらないものだった。しかし、その場面で語られた「愛」という言葉が、異様なほど、私の中に響いてきたのだった。
>その「愛」という言葉が、私の心に入ってくると同時に、「人間は絶対的に救われない、人間のみではない、一切万物は絶対的に救われないのだ」という想念が、私の中に浮かび上がってきた。
>それは、胸が突き破れるような悲しみだった。
こうして、究極の絶望に到達したダイジ少年。しかし、そこに突然、突破口が開けた。絶望の果てに、突如として歓喜がやってきたという。
>私と世界を含む万物万象は、決定的に絶望しきっている。その時、万物万象を包む愛が開かれた。
>それは、信じられぬ愛であり歓喜であった。
絶望こそが、この地球で生きるものの宿命。そこからは逃れられない。一部の人はその絶望を直視しているが、その他の人々は目を背け、何か他のことで気を紛らわしているだけなのだ。そこに気づけば、吹っ切れる。もう恐れるものは何もない。
そんな絶望的な生を送る万象万物に、神の愛は太陽のごとく、惜しみなく降り注いでいる・・・。
意外なことをキッカケにして、神の愛に目覚めたダンテス・ダイジ。絶望が転じて歓喜となり、至福の境地に到達した。それは「一ヶ月くらい続いて、やがて薄れていったが、以前と違う感じは残った」という。
これを見て連想したのは、「現代のスピリチュアル・リーダー」こと、エックハルト・トールだ。エックハルト・トールも、20代の頃に、絶望しきって家でゴロゴロ寝ていたところ、神秘体験が起きて、絶望が転じて歓喜となり、至福の境地に到達したという。それは「何ヶ月か続いて、やがて薄れていったが、以前と違う感じは残った」というようなことをトールも書いていた。
それから、ダンテス・ダイジの求道の旅は始まった。
まずは老子道体現者である伊福部隆彦先生の、「無為隆彦詩集」を愛読することから始まったらしい。この「伊福部無為隆彦老古仏」は、禅の指導を受けた木村虎山老師や、インドでクンダリニー・ヨーガを授けてくれたババジ大師とともに、ダイジの「3大師匠」に挙げられている。日本の禅、中国の老荘、インドのヨーガとくれば、まさに「東洋思想の三冠王」といったところか。
それにしても、「無為隆彦」。ダイジが詩をたくさん書き残しているのは、どうもこの人の影響みたい。伊福部隆彦の「永遠」という詩が、まるごと引用されている。
>永遠
>永遠とは、時間ではない
>時間を超越した時である
>そこにはもう空間もない
>物もない
>すべてが「如」だけになって
>それが私たちに永遠を語りかける
>この「如」の甚深微妙
>古人はその横顔を見て
>これを神と言った
ダイジは、この詩を何度も音読し、深く影響を受けたという。この伊福部隆彦という人は、老子の思想をベースにして、自由に詩を書いている。そういえば、エックハルト・トールも、「老子」を影響を受けた思想のひとつに挙げていた。トランスパーソナル心理学のケン•ウィルバーも、老子を読んで人生観が激変した。
筆者にとっても、老子は長年の愛読書のひとつで、もともと老荘思想についても、もっと語るつもりでいた。欧米に発するスピリチュアリズムの流れと、アジアに発する東洋思想の流れは、両方とも日本が終着駅。「精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ」には、両方とも存分に流れ込んでいる。こう見えても、本当は、深遠かつ気宇壮大なブログだったのだ•••(笑)。
それはともかく、禅とクンダリニー•ヨーガを極めたダンテス•ダイジでさえ、その求道の出発点が老荘思想だったということに、ちょっとビックリ。老古仏•伊福部無為隆彦←この人に要注目だ!?
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ネットで調べるとダイジは生長の家の神想観も修行していたようですが、著者略歴の「古神道の大要を体得する。」との記述はこのことを指すのでしょうか。
大本系の神道を学んだから、天照ではなく、スサノオを重視していたのでしょう。