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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

戦後75年 日本の香港占領② 移住強制 相次ぐ餓死

2020-08-18 08:06:32 | 国際政治
戦後75年 日本の香港占領② 移住強制 相次ぐ餓死
1941年12月に香港を陥落させた日本は、42年2月20日に香港占領総督部を発足させ、占領政策を本格的に開始しました。

口減らし策
当時、香港には統計上は140万人が居住していました。しかし日本の中国侵略から逃れてきた戦争難民も含めると実際は200万人以上が暮らしていたとされます。
これだけの人数に食料を供給することはできないとして、日本は香港の人口を60万人ほどに減らす政策を進めます。「人口疎散政策」と呼ばれ、当局が食料と路銀を支給して、隣接する広東省からそれぞれの故郷に返すものと、「強制疎散」がありました。強制疎散は「乞食(こじき)狩り」と呼ばれ、憲兵隊が路上にいた難民を無理やり拘束し、数十人を船に乗せて、無人島などに遺棄するという乱暴なものでした。
またすでに日本が占領していた中国・海南島で鉄鉱石などを採掘するために、香港の若者が集められました。計2万人以上が海南島に渡ったとされます。



香港の港から故郷に帰る香港住民(『香港日佔時期』〈三聯書店有限公司〉から)

米は配給制
ジャーナリストの和仁廉夫さんの聞き取り調査で、香港陥落当時17歳だった崔能(さい・どう)さんが募集に応じて海南島で働いた経験を語っています。崔さんはまだ少年だったために簡単な仕事で済んだが、栄養失調や重労働に耐えられずに自殺した人が多くいたと回想しています。
香港住民の食料事情は日に日に悪化していきました。米は配給制でしたが、44年4月からは軍政協力者のみに限定されるようになりました。
43年2月に、山林の木を伐採することが禁止され、庶民には燃料のまきが手に入らなくなり、炊事が困難になりました。
こうした中、路上の難民の餓死が続き、毎日のように死体回収車が稼働していたという証言もあります。和仁さんが聞き取りをした盧佩英(ろ・はいえい)さんは「軍政が開始されて1年もたつと、たちまち食料は欠乏し始めた」と証言。香港住民は、木の皮や落花生の殻など何でも食べていたと話しています。ネズミや昆虫、人肉を食べていたという証言もあります。
香港住民と実際に接触し、支配していたのは憲兵隊でした。香港住民が日本兵に対しておじぎをしなかったり、家の前がきれいに掃除できていなかったりすれば、憲兵から殴打されました。和仁さんが聞き取りをした馬桂英さんは当時、夫が材木を盗んだという無実の罪を着せられ、憲兵に連行されました。夫は3日後、海の近くで機関銃で処刑され、そのまま海に落とされたといいます。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年8月15日付掲載


後から香港に来た日本人が、自分たちの食料を確保するために、もともと住んでいた香港の人たちや戦争難民を追い出す追い出すなんて無慈悲なことをしたんですね。
中国・海南島で鉄鉱石などを採掘ための強制労働も。

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