ビキニ被災70年 今に続く運動① 全国に広がった署名
1954年3月の米国の水爆実験による被災「ビキニ事件」を契機に、広島、長崎、ビキニと3度の核被害を受けた日本国民は、全国各地で原水爆禁止を求める署名運動に立ち上がり、瞬く間に国民運動へと発展しました。
妨害はね返して
1945年8月6日広島、同9日長崎の被爆後、占領軍はプレスコード(言論統制)を布告し、言論を厳しく統制。原爆被害は隠され、被爆者は国の援護もなく放置され続けていました。
「占領政策違反」を口実にしたさまざまな抑圧や妨害をはね返しながら、被爆の実相普及や原爆禁止のたたかいが続けられました。
第2次世界大戦直後から始まった東西冷戦によって両陣営の核開発競争が激化。これに対して世界では、49年から平和擁護世界大会が開かれました。50年3月に平和擁護世界大会第3回常任委員会が呼びかけた、原子兵器の無条件使用禁止などを要求するストックホルム・アピール署名運動には、全世界から5億、占領下の日本でも639万人の署名が寄せられました。
52年4月、サンフランシスコ平和条約の発効で直接占領が終わり、言論統制が解かれてからは、被爆の実相が広く知られるようになりました。
原水爆禁止署名運動全国協議会の署名集約。1月13日現在で2173万5587人の署名が集まりました=1955年1月、東京・杉並公民館(第五福竜丸平和協会提供)
最初に魚屋さん
54年3月、静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の被ばくが新聞で報道されると、ラジオや新聞は毎日のように第五福竜丸の被災状況や乗組員の容態、各地での放射能の検出状況などを伝えました。魚が売れなくなり、人びとは放射能雨に不安を募らせました。
東京都杉並区では、苦境にあえぐ魚屋さんがいち早く立ち上がりました。水爆禁止に向けた署名運動が杉並魚商組合に提案され、3月29日、杉並魚商水爆被害対策協議会を結成。杉並婦人団体協議会も続きました。区議会は4月17日、陳情書や署名、区民の陳述を受けて水爆実験禁止決議を全会一致で可決しました。
5月9日には水爆禁止署名運動杉並協議会を結成。「あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動」として「人類の生命と幸福を守る」との理念を記した「杉並アピール」を掲げて運動が進められ、7月までに当時の区民の7割にあたる27万人余の署名が集まりました。
全国各地に広がった署名を集計し、「署名にあらわれた日本国民の総意を内外に訴え、原水爆禁止に関する世界の世論を確立する」ことを目的に8月、原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成されました。9月23日、第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが急性放射能症で亡くなると、「三たび許すまじ原爆を」との世論と運動はいっそう高まりました。
10月、全協は「久保山さん追悼―原水爆禁止の集い」を開催。これに先立つ世話人会で、広島の代表が「被爆10周年の来年、広島で世界大会を開く」ことを提案しました。
12月に署名は2000万人を突破。全協の代表は鳩山一郎首相と会見して協力を要請し、首相は賛意を表しました。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月12日付掲載
全国各地に広がった署名を集計し、「署名にあらわれた日本国民の総意を内外に訴え、原水爆禁止に関する世界の世論を確立する」ことを目的に、1954年8月、原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成。9月23日、第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが急性放射能症で亡くなると、「三たび許すまじ原爆を」との世論と運動はいっそう高まる。
10月、全協は「久保山さん追悼―原水爆禁止の集い」を開催。これに先立つ世話人会で、広島の代表が「被爆10周年の来年、広島で世界大会を開く」ことを提案。
1954年3月の米国の水爆実験による被災「ビキニ事件」を契機に、広島、長崎、ビキニと3度の核被害を受けた日本国民は、全国各地で原水爆禁止を求める署名運動に立ち上がり、瞬く間に国民運動へと発展しました。
妨害はね返して
1945年8月6日広島、同9日長崎の被爆後、占領軍はプレスコード(言論統制)を布告し、言論を厳しく統制。原爆被害は隠され、被爆者は国の援護もなく放置され続けていました。
「占領政策違反」を口実にしたさまざまな抑圧や妨害をはね返しながら、被爆の実相普及や原爆禁止のたたかいが続けられました。
第2次世界大戦直後から始まった東西冷戦によって両陣営の核開発競争が激化。これに対して世界では、49年から平和擁護世界大会が開かれました。50年3月に平和擁護世界大会第3回常任委員会が呼びかけた、原子兵器の無条件使用禁止などを要求するストックホルム・アピール署名運動には、全世界から5億、占領下の日本でも639万人の署名が寄せられました。
52年4月、サンフランシスコ平和条約の発効で直接占領が終わり、言論統制が解かれてからは、被爆の実相が広く知られるようになりました。
原水爆禁止署名運動全国協議会の署名集約。1月13日現在で2173万5587人の署名が集まりました=1955年1月、東京・杉並公民館(第五福竜丸平和協会提供)
最初に魚屋さん
54年3月、静岡県焼津港所属の遠洋マグロ漁船・第五福竜丸の被ばくが新聞で報道されると、ラジオや新聞は毎日のように第五福竜丸の被災状況や乗組員の容態、各地での放射能の検出状況などを伝えました。魚が売れなくなり、人びとは放射能雨に不安を募らせました。
東京都杉並区では、苦境にあえぐ魚屋さんがいち早く立ち上がりました。水爆禁止に向けた署名運動が杉並魚商組合に提案され、3月29日、杉並魚商水爆被害対策協議会を結成。杉並婦人団体協議会も続きました。区議会は4月17日、陳情書や署名、区民の陳述を受けて水爆実験禁止決議を全会一致で可決しました。
5月9日には水爆禁止署名運動杉並協議会を結成。「あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動」として「人類の生命と幸福を守る」との理念を記した「杉並アピール」を掲げて運動が進められ、7月までに当時の区民の7割にあたる27万人余の署名が集まりました。
全国各地に広がった署名を集計し、「署名にあらわれた日本国民の総意を内外に訴え、原水爆禁止に関する世界の世論を確立する」ことを目的に8月、原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成されました。9月23日、第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが急性放射能症で亡くなると、「三たび許すまじ原爆を」との世論と運動はいっそう高まりました。
10月、全協は「久保山さん追悼―原水爆禁止の集い」を開催。これに先立つ世話人会で、広島の代表が「被爆10周年の来年、広島で世界大会を開く」ことを提案しました。
12月に署名は2000万人を突破。全協の代表は鳩山一郎首相と会見して協力を要請し、首相は賛意を表しました。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月12日付掲載
全国各地に広がった署名を集計し、「署名にあらわれた日本国民の総意を内外に訴え、原水爆禁止に関する世界の世論を確立する」ことを目的に、1954年8月、原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成。9月23日、第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さんが急性放射能症で亡くなると、「三たび許すまじ原爆を」との世論と運動はいっそう高まる。
10月、全協は「久保山さん追悼―原水爆禁止の集い」を開催。これに先立つ世話人会で、広島の代表が「被爆10周年の来年、広島で世界大会を開く」ことを提案。
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