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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

「第五福竜丸事件」とは何だったか② 「被害者は私を最後に」

2024-01-12 07:11:53 | 平和・憲法・歴史問題について
「第五福竜丸事件」とは何だったか② 「被害者は私を最後に」
米軍の水爆実験で被災してから2週間後の1954年3月14日、遠洋マグロ漁船・第五福竜丸は静岡県焼津市の母港・焼津港に帰港しました。
この日は日曜日でしたが、焼けただれて黒くなった乗組員たちの顔に驚いた船主の西川角市さんに促されて、23人全員が焼津協立病院で診察を受けました。当直の大井俊亮医師は「原爆症の疑いあり」と診断。症状の重い2人が翌15日、甲板で集めた白い粉闘強い放射能を帯びた「死の灰」を持って上京し、東大付属病院に入院しました。焼津に残った21人は2週間の入院ののち、全員東京に移送され、5人が東大付属病院に、16人が国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター病院)に入院しました。

全国に衝撃走る
「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」。16日付朝刊で報じられると、全国に衝撃が走りました。厚生省(当時)は調査団を焼津に派遣。第五福竜丸の船体や漁具、積み荷のマグロなどから強い放射能が検出され、マグロは廃棄処分となりました。
厚生省公衆衛生局は18日から塩釜、東京、三崎、清水、焼津の5港を指定して魚の放射能検査の実施を指示。5月からはほかの13港でも検査が行われ、検査が打ち切られた同年末までに、廃棄された汚染魚は485・7トンに及びました。「放射能マグロ」「原子マグロ」と恐れられて魚が売れなくなり、魚価が長期にわたって暴落。水産業や飲食店業に大打撃を与えました。
水産庁は5月、水産講習所の俊鶻丸(しゅんこつまる)をビキニ海域の調査のために派遣。深刻な海洋汚染が判明し、2年後の第2次調査では放射性微粒子による大気汚染もわかりました。
水爆実験によって汚染された大気は気流に乗って日本へと飛来しました。54年の春から初夏にかけて、強い放射能の混じった雨が日本中で観測され、農作物や牧草などが汚染されたことも、国民を不安に陥れました。
広島、長崎に続く3度目の核被害を受けて、議会や市民が原水爆禁止に向けて動き始めます。3月18日、三崎港のある神奈川県三崎町(現在の三浦市南西部)議会は原爆使用禁止の決議を行い、焼津市議会は3月23日に原水爆実験禁止を、同27日に原子力兵器使用禁止を決議しました。4月、衆参両院は「実験禁止、原子兵器禁止」を含む決議を満場一致で採択しました。
各地で市民による自発的、自然発生的な署名運動が始められ、8月には署名を集計する原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成。翌55年8月に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催され、署名数は3238万2104人に達しました。
「死の灰」を浴び、深刻な急性放射能症に侵された第五福竜丸の乗組員の容体は楽観を許しませんでした。23人のうち22人は1年2カ月間の入院ののち、翌55年5月に退院しますが、最年長だった無線長の久保山愛吉さんは54年9月23日、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残して息を引き取りました。40歳でした。


久保山愛吉さんの死去を伝える「アカハタ」1954年9月25日付

日米「政治決着」
久保山さんの死によって、原水爆禁止の世論と米国に補償を求める声はいっそう高まりました。ビキニ事件の早期決着をねらった日米両政府は55年1月、「法律上の責任の問題と関係なく慰謝料として」米国が200万ドル(7億2000万円)を支払うことで「政治決着」しました。全国の漁業被害額25億円にも届きませんでした。
第五福竜丸の乗組員に支払われた「見舞金」は一人あたり約200万円。第五福竜丸以外の船の乗組員は70年たっても補償もなく放置されたままです。
(この章おわり)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2024年1月11日付掲載


ビキニ被ばく事件で、一気に原水爆禁止の運動が盛り上がったのですね。1964年4月には、衆参両院は「実験禁止、原子兵器禁止」を含む決議を満場一致で採択って、なんて健全な国会だったのしょか。
核兵器禁止条約が発効したもとでも、いまだに全世界に核兵器が。何としても廃絶の実現を。

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