日韓の歴史をたどる⑤ 王后殺害事件 国権回復恐れ勢力拡大狙った日本
金文子
キム・ムンジャ 1951年生まれ。朝鮮史研究者。奈良女子大学文学部卒。著書に『朝鮮王妃殺害と日本人』『日露戦争と大韓帝国』
日清戦争の結果、1895年(明治28)4月に日清講和条約が締結され、清国は巨額の賠償金に加え、台湾と遼東半島の割譲を強いられた。これに対し、独・仏・露から干渉が入り、日本は遼東半島を放棄した。これより日本は三国の干渉が朝鮮問題に及ぶことを恐れ露骨な侵略政策を控えた。朝鮮では国権回復の動きが高まり、日本はその背後にロシアがいると考えた。
そうしたなか、95年10月8日の早朝、朝鮮の王宮景福宮内で、国王高宗の后・閔(みん)氏が殺害され、遺体が焼かれる凄惨な事件が起こった。翌年3月に英文雑誌に掲載された調査報告書には、日本軍が国王の寝殿乾清宮を取り囲み、日本刀を振りかざした集団が何をしたのか生々しく記録されている。ソウル駐在領事・内田定槌(さだつち)が日本語に訳し、外務次官・原敬に報告したものの一部を紹介しよう。
「抜剣の儘国王陛下の御居間に乱入し、後宮を捜索して手当次第に宮女を引っ捕え其頭髪を攫み(つかみ)、或は之を引ずり回し、或は之を打ち擲(なぐ)りながら、王后陛下の御所在を究問せり…かくて壮士等は…王后陛下が或る一隅の室内に匿れ居り給ひしを発見し、直ちに之を捉え…之を斬り斃(たお)したり…陛下の玉体は、戸板に載せ絹布を以て之を纏(まと)ひ庭園に取り出したりしが、間もなく日本壮士の指図により更に付近の小林中に持ち運び、之に薪を積み石油を注ぎ火を放って之を焼き棄てたり」(「韓国王妃殺害一件」2巻)
内田領事作成の王后殺害現場の図(部分)。原敬に宛てて報告したもの。王后が襲われた場所、焼き捨てられた地点などが数字で示されている(明治28年12月21日付機密第51号書簡)
王后殺害事件を引き起こした三浦梧楼
朝鮮人同士の権力争い偽装
この事件の前年7月、日清戦争開戦直前にも、日本軍が景福宮を占領して国王を虜にしたことがあった。日本軍は王宮から撤退後も王宮前に駐屯を続け京城守備隊と称した。再び王宮に侵入して王后を殺害したのは、この京城守備隊だった。しかもこれを朝鮮人同士の権力争いに偽装するため、国王の実父大院君を無理やり引き込んだ。真夜中の殺害計画が夜明けまで遅れ、多数の西洋人が目撃したのは、大院君が抵抗したからである。
ひと月前に着任したばかりの駐韓公使・三浦梧楼(ごろう)は、外務大臣西園寺公望への電信で日本人の関与を認め、自分が「黙視」したと告白した。さらに<日本人は殺害等の乱暴は一つもしなかったという証明書を朝鮮政府から取っておいた。大院君にも、随行の朝鮮人に日本服を着せて日本人を装わせたと言わせる。この二点は外国人に対し「水掛論」に持ち込む考えである>と、偽装計画まで報告している。(『日本外交文書』)
内田領事は「歴史上古今未曽有の凶悪事件」と外務大臣に報告したが、外務次官あて私信には自ら隠蔽(いんぺい)工作に奔走していることを書いている。<日本人の関与は多数の西洋人が目撃しており、もはや隠せない。公使館員、領事館員、守備隊については、外国人の間でもまだ判然としていないので、今なら隠蔽できる。彼ら以外で二、三十名ほど処罰して済ませる>と。(『原敬関係文書』)
慌てた日本政府と大本営は、三浦公使をはじめ関係者を本国に召喚し、56人を収監したが、3カ月後には全員を無罪放免した。
本国の訓令に忠実にうごく
この事件は愚かな軍人三浦梧楼の暴走と見られてきたが、決してそんな単純な事件ではない。三浦は公使着任後、大本営の川上操六参謀次長と通信し、事件の3日前には朝鮮駐屯軍の指揮権を獲得していた。(「密大日記」)
三浦の部下、書記官の杉村溶は『在韓苦心録』を書き、自ら首謀者だったと認めた。そしてその目的は「宮中に於ける魯国(ロシア)党(其首領は無論王妃と認めたり)を抑制して日本党の勢力を恢復(かいふく)せんとするに在り」と明言した。杉村は事件の2カ月前、西園寺外相に王后の政権掌握を報告し、傍観すべきか、親日政権の成立に尽力すべきか、訓令を求めていた。西園寺の回答は、親日政権の成立に「内密に精々尽力せらるべし」であった(『日本外交文書』)。三浦も杉村も本国の訓令に忠実に動いたのである。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年7月24日付掲載
朝鮮の国王の后・閔妃(みんぴ)の殺害は、日本の朝鮮支配を進めていくうえであまりにも有名な事件。
日本政府は、首謀者の三浦公使を無罪放免していることからも、最初から計画的だったこと。
金文子
キム・ムンジャ 1951年生まれ。朝鮮史研究者。奈良女子大学文学部卒。著書に『朝鮮王妃殺害と日本人』『日露戦争と大韓帝国』
日清戦争の結果、1895年(明治28)4月に日清講和条約が締結され、清国は巨額の賠償金に加え、台湾と遼東半島の割譲を強いられた。これに対し、独・仏・露から干渉が入り、日本は遼東半島を放棄した。これより日本は三国の干渉が朝鮮問題に及ぶことを恐れ露骨な侵略政策を控えた。朝鮮では国権回復の動きが高まり、日本はその背後にロシアがいると考えた。
そうしたなか、95年10月8日の早朝、朝鮮の王宮景福宮内で、国王高宗の后・閔(みん)氏が殺害され、遺体が焼かれる凄惨な事件が起こった。翌年3月に英文雑誌に掲載された調査報告書には、日本軍が国王の寝殿乾清宮を取り囲み、日本刀を振りかざした集団が何をしたのか生々しく記録されている。ソウル駐在領事・内田定槌(さだつち)が日本語に訳し、外務次官・原敬に報告したものの一部を紹介しよう。
「抜剣の儘国王陛下の御居間に乱入し、後宮を捜索して手当次第に宮女を引っ捕え其頭髪を攫み(つかみ)、或は之を引ずり回し、或は之を打ち擲(なぐ)りながら、王后陛下の御所在を究問せり…かくて壮士等は…王后陛下が或る一隅の室内に匿れ居り給ひしを発見し、直ちに之を捉え…之を斬り斃(たお)したり…陛下の玉体は、戸板に載せ絹布を以て之を纏(まと)ひ庭園に取り出したりしが、間もなく日本壮士の指図により更に付近の小林中に持ち運び、之に薪を積み石油を注ぎ火を放って之を焼き棄てたり」(「韓国王妃殺害一件」2巻)
内田領事作成の王后殺害現場の図(部分)。原敬に宛てて報告したもの。王后が襲われた場所、焼き捨てられた地点などが数字で示されている(明治28年12月21日付機密第51号書簡)
王后殺害事件を引き起こした三浦梧楼
朝鮮人同士の権力争い偽装
この事件の前年7月、日清戦争開戦直前にも、日本軍が景福宮を占領して国王を虜にしたことがあった。日本軍は王宮から撤退後も王宮前に駐屯を続け京城守備隊と称した。再び王宮に侵入して王后を殺害したのは、この京城守備隊だった。しかもこれを朝鮮人同士の権力争いに偽装するため、国王の実父大院君を無理やり引き込んだ。真夜中の殺害計画が夜明けまで遅れ、多数の西洋人が目撃したのは、大院君が抵抗したからである。
ひと月前に着任したばかりの駐韓公使・三浦梧楼(ごろう)は、外務大臣西園寺公望への電信で日本人の関与を認め、自分が「黙視」したと告白した。さらに<日本人は殺害等の乱暴は一つもしなかったという証明書を朝鮮政府から取っておいた。大院君にも、随行の朝鮮人に日本服を着せて日本人を装わせたと言わせる。この二点は外国人に対し「水掛論」に持ち込む考えである>と、偽装計画まで報告している。(『日本外交文書』)
内田領事は「歴史上古今未曽有の凶悪事件」と外務大臣に報告したが、外務次官あて私信には自ら隠蔽(いんぺい)工作に奔走していることを書いている。<日本人の関与は多数の西洋人が目撃しており、もはや隠せない。公使館員、領事館員、守備隊については、外国人の間でもまだ判然としていないので、今なら隠蔽できる。彼ら以外で二、三十名ほど処罰して済ませる>と。(『原敬関係文書』)
慌てた日本政府と大本営は、三浦公使をはじめ関係者を本国に召喚し、56人を収監したが、3カ月後には全員を無罪放免した。
本国の訓令に忠実にうごく
この事件は愚かな軍人三浦梧楼の暴走と見られてきたが、決してそんな単純な事件ではない。三浦は公使着任後、大本営の川上操六参謀次長と通信し、事件の3日前には朝鮮駐屯軍の指揮権を獲得していた。(「密大日記」)
三浦の部下、書記官の杉村溶は『在韓苦心録』を書き、自ら首謀者だったと認めた。そしてその目的は「宮中に於ける魯国(ロシア)党(其首領は無論王妃と認めたり)を抑制して日本党の勢力を恢復(かいふく)せんとするに在り」と明言した。杉村は事件の2カ月前、西園寺外相に王后の政権掌握を報告し、傍観すべきか、親日政権の成立に尽力すべきか、訓令を求めていた。西園寺の回答は、親日政権の成立に「内密に精々尽力せらるべし」であった(『日本外交文書』)。三浦も杉村も本国の訓令に忠実に動いたのである。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年7月24日付掲載
朝鮮の国王の后・閔妃(みんぴ)の殺害は、日本の朝鮮支配を進めていくうえであまりにも有名な事件。
日本政府は、首謀者の三浦公使を無罪放免していることからも、最初から計画的だったこと。
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