与謝野晶子と「スペイン風邪」 社会不安の根本を問う
今野 寿美
こんの・すみ 歌人。1952年生まれ。りとむ短歌会編集人。歌集に『世紀末の桃』(現代短歌女流賞)、『龍笛』(葛原妙子賞)、『かへり水』(日本歌人クラブ賞)。著書に『24のキーワードで読む与謝野晶子』ほか多数
新型コロナウイルス感染拡大の脅威に、ほぼ100年前の「スペイン風邪」の世界的流行が結びつけて語られ始めたころからだろうか。その国内での流行による惨状と政府の無策ぶりを批判した与謝野晶子の論評が話題となった。
帽子をかぶった与謝野晶子(文化学院蔵)
はがゆい政府 貧富差を突く
大正期の晶子は女性の自立をうながすなど社会評論を数多く手がけ、評論集の刊行も相次いでいた。スペイン風邪に最初に触れた「感冒の床から」は単行本には未収録で、初出は「横浜貿易新報」大正7(1918)年11月10日である。もどかしい政府の施策や、解熱剤の投与をめぐっても貧富の差から生ずる不合理を突くなど、いま読んでも社会不安の根本を問う姿勢が濃厚にうかがえる。
その先鋭的な明快さは以降も晶子の筆致に一貫していて、それだけ反体制的な印象を受けるが、スペイン風邪をめぐる晶子の主張をたどると、何より母の立場、心情から学校、社会での衛生管理の徹底を切に望んでいたことがよくわかる。
密集を禁じて休業の提言も
防御意識もなまなかでない。「死の恐怖」(『女人創造』)にあるように、家族ともども予防注射を進んで「幾回も」受け、うがいを励行し、危ないとなればこどもに学校を欠席させることさえためらわなかった。
「折折の感想」(『激動の中を行く』)においても「都市の衛生設備の不完全」を悲しみ、それにもまして学校の教室に「防寒の設備」がなく、手洗いやうがいを励行させる「工夫」もないと嘆いている。それがため四男を「断然休学させて」しまったというのだ。「文部省はかう云ふ実際の学校衛生に全く冷淡」だと添えることも忘れていない。
スペイン風邪流行の不安が広がったころ、人びとの密集を禁じて休校、休業を要請するといった抑止策を提言(「感冒の床から」)していたことを知ると、現代のわれわれにせよ、迷走ぎみの施策に振り回されてばかりもいられない気になる。
11人の子の母 たいした胆力
スペイン風邪の流行は大正7年から2年つづいたとされる。大正8年に晶子は満40歳で六女を産み、他家に養育をゆだねた女の子3人を含め、11人の子の母となった。こどもが病めば看取りながら歌に詠むことも多かったが、恐怖の風邪をめぐっては、その歌が残されていない。同時代の斎藤茂吉が、自身の罹患を含めて歌に詠んでいる(『つゆじも』)のとは対照的である。
この姿勢は、歌に詠む情の世界とは別の晶子の精神に基づいていたということになろうか。それにしても、たいした胆力だ。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年8月11日付掲載
100年前にスペイン風邪が流行した際、与謝野晶子は解熱剤の投与でも貧富の格差がでると指摘。また、人びとの密集を禁じて休校、休業を要請するといった抑止策など先進的な提言もしている。
さすがだと言いたい。
今野 寿美
こんの・すみ 歌人。1952年生まれ。りとむ短歌会編集人。歌集に『世紀末の桃』(現代短歌女流賞)、『龍笛』(葛原妙子賞)、『かへり水』(日本歌人クラブ賞)。著書に『24のキーワードで読む与謝野晶子』ほか多数
新型コロナウイルス感染拡大の脅威に、ほぼ100年前の「スペイン風邪」の世界的流行が結びつけて語られ始めたころからだろうか。その国内での流行による惨状と政府の無策ぶりを批判した与謝野晶子の論評が話題となった。
帽子をかぶった与謝野晶子(文化学院蔵)
はがゆい政府 貧富差を突く
大正期の晶子は女性の自立をうながすなど社会評論を数多く手がけ、評論集の刊行も相次いでいた。スペイン風邪に最初に触れた「感冒の床から」は単行本には未収録で、初出は「横浜貿易新報」大正7(1918)年11月10日である。もどかしい政府の施策や、解熱剤の投与をめぐっても貧富の差から生ずる不合理を突くなど、いま読んでも社会不安の根本を問う姿勢が濃厚にうかがえる。
その先鋭的な明快さは以降も晶子の筆致に一貫していて、それだけ反体制的な印象を受けるが、スペイン風邪をめぐる晶子の主張をたどると、何より母の立場、心情から学校、社会での衛生管理の徹底を切に望んでいたことがよくわかる。
密集を禁じて休業の提言も
防御意識もなまなかでない。「死の恐怖」(『女人創造』)にあるように、家族ともども予防注射を進んで「幾回も」受け、うがいを励行し、危ないとなればこどもに学校を欠席させることさえためらわなかった。
「折折の感想」(『激動の中を行く』)においても「都市の衛生設備の不完全」を悲しみ、それにもまして学校の教室に「防寒の設備」がなく、手洗いやうがいを励行させる「工夫」もないと嘆いている。それがため四男を「断然休学させて」しまったというのだ。「文部省はかう云ふ実際の学校衛生に全く冷淡」だと添えることも忘れていない。
スペイン風邪流行の不安が広がったころ、人びとの密集を禁じて休校、休業を要請するといった抑止策を提言(「感冒の床から」)していたことを知ると、現代のわれわれにせよ、迷走ぎみの施策に振り回されてばかりもいられない気になる。
11人の子の母 たいした胆力
スペイン風邪の流行は大正7年から2年つづいたとされる。大正8年に晶子は満40歳で六女を産み、他家に養育をゆだねた女の子3人を含め、11人の子の母となった。こどもが病めば看取りながら歌に詠むことも多かったが、恐怖の風邪をめぐっては、その歌が残されていない。同時代の斎藤茂吉が、自身の罹患を含めて歌に詠んでいる(『つゆじも』)のとは対照的である。
この姿勢は、歌に詠む情の世界とは別の晶子の精神に基づいていたということになろうか。それにしても、たいした胆力だ。
「しんぶん赤旗」日刊紙 2020年8月11日付掲載
100年前にスペイン風邪が流行した際、与謝野晶子は解熱剤の投与でも貧富の格差がでると指摘。また、人びとの密集を禁じて休校、休業を要請するといった抑止策など先進的な提言もしている。
さすがだと言いたい。
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