きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

日航123便事故 30年目の夏② “妹の分まで懸命に”

2015-08-14 12:27:45 | 公共交通・安全について
日航123便事故 30年目の夏② “妹の分まで懸命に”

鷲尾龍妙さん(60)=大津市

娘につなぐ
西国三十三所第13番札所で、平安時代の女流作家、紫式部が『源氏物語』を書いた、ゆかりの寺として知られる真言宗石山寺(大津市)。その副座主、鷲尾龍妙さん(60)は、1985年の日本航空123便墜落事故で、妹の能仁千延子(のうにん・ちえこ)さん=当時(22)=を失いました。龍妙さんはこの30年間、僧侶として千延子さんら犠牲者の冥福を祈り、「妹の分まで」と懸命に生きてきました。
龍妙さん、千延子さん姉妹は、徳島県阿南市の道浄寺に生まれました。千延子さんは就職先の東京から帰省するところでの事故。気丈だった祖母=当時(79)=が大声で泣いていました。
「両親や祖母が悲しむ姿を見るのはつらい。私は、しっかりと生きなくては」すでに石山寺へ嫁ぐことが決まっていた龍妙さんは、この時から30年、この思いを胸に抱き続けてきました。
「妹の存在は、常に支えになってきました。つらいことがあっても、妹や犠牲者のみなさんに比べたらと自分を奮い立たせてきました」



鷲尾龍妙さん(左)と千賀子さん=5日、大津市の石山寺

520本の桜育つ
事故後、母親の怜子さん(85)から石山寺に贈られた、事故の犠牲者数と同じ520本の桜の苗木は元気に育ち、3月には境内をピンク色に染め上げます。
日航機事故の他の遺族や、JR福知山線脱線事故(2005年)の遺族らも訪れ、言葉少なに涙ぐみながら桜の花を見つめました。
龍妙さんには、事故の2年後に産んだ一人娘の千賀子さん(28)=石山寺責任役員=がいます。「千賀子」の名は、夫で石山寺座主の遍隆さん(69)が、千延子さんと自身の母親、美賀子さん(故人)から1字ずつ取り、つけました。それは龍妙さんにとってうれしいことでした。
「千延子さんが生きられなかった分、私が生きていくのかなと思ったりします」(千賀子さん)
龍妙さんは、千賀子さんと事故のことを話すことはあまりありませんでしたが、子どものころの千賀子さんに、「もし自分が死んだら、千延子の写真をひつぎに入れて」と話したことがありました。

「傾聴活動」を
「母は、深い悲しみの中で私を育ててくれたんだなと。私は僧侶として、心のケアに関わりたいと思い、学んでいます。事故のことをもっと知っていきたい」と話す千賀子さん。東日本大震災の被災者や病気の終末期の患者らの話をじっくりと聞く「傾聴活動」に取り組んでいます。
事故後、石山寺の生活で精いっぱいの年月が矢のように過ぎていったという龍妙さん。2013年からは新石山寺保育園の園長も務めています。
「帽子がうまくかぶれない3歳の女の子に教えてあげたら、次の時には『こうでしょ?』とやってみせてくれて。子どもたちがこたえてくれる、成長を見られるのが幸せです」
家族を突然失った悲しみは癒えることはないと語る龍妙さん。
「私は妹に顔向けできる生き方ができているのかなと、よく思います」
千賀子さんは語ります。
「私から見たら、十分過ぎるくらい頑張っている。真面目過ぎるところがあるけど、自慢の母です」
龍妙さんは涙をそっとぬぐい、ほほ笑みました。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2015年8月10日付掲載


僧侶の一家の人生もズタズタにしてしまった日航ジャンボ機墜落事故。
改めて、空の安全と遺族のケアが求められます。

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