仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

出雲ゼミ旅行3:神の御財

2008-08-14 12:37:28 | 生きる犬韜
10日(日)、『歴史評論』9月号が発売になった。この号から「歴史学とサブカルチャー」という、極めて歴評らしくないお題で隔月連載を受け持っている。第1回目は「歴史学をめぐるサブカルチャーの現状」と題し、ゲームやアニメの問題を総論的にまとめた。ぼくと付き合いのある猛者たち、本職?の方々からすれば、「何を言ってるの」的に浅薄な内容かも知れないが、まあ歴評でこの話題を書いたということ自体に意味を見出していただきたい。ぼくに白羽の矢を立てたのが成功かどうかは措くとして、編集委員会の英断に敬意を表したい(読者のなかには、猛烈な批判を繰り出す人もいるのではないか? ま、それほどの内容でもないから大丈夫か...)。次回は10/10発売の11月号で、守り人シリーズを取り上げる予定。
また、ここに書くのが遅くなったが、6月には刊行の遅れていた近畿大学民俗学研究所編『民俗文化』20号も刊行された。かなり苦労して執筆した、供犠論研究会第1論集『狩猟と供犠の文化誌』の書評が掲載されている。尊敬する大先輩に対してのものなので、どう受けとめていただけるか不安で仕方なかったのだが、先日、中村生雄さんら何人かの方々からお礼のお言葉を頂戴した。ほっと胸をなで下ろしているところである。精神衛生上よくないので「もう書評は勘弁」と思っていたら、先日『歴史学研究』からある論集に関して依頼があり、きちんと取り組まねばならないと思っていた本だっただけに引き受けざるをえなかった。〆切をを今年度中まで延ばしてもらったのだが、また胃の痛いことになりそうだ。


さて出雲。4日(月)は鰐淵寺を後にして、たくさんの青銅器がまとまって発掘された神庭荒神谷へ。青銅器専門の立派な博物館があり、その見学を予定して移動したのだが、けっきょく寺に長居しすぎて開館時間に間に合わなかった(去年も平泉で似たようなことがあったなあ)。しかし、遺構の様子はみられるというので、2000年前の種子から育てたというたくさんの蓮の間を抜けて、丘陵斜面に復原された写真のような情況を確認。ここから350本余りの銅剣が出たわけである。弥生の青銅器埋納については、贈与説・奉献説などが有力だが、確固たる通説は提示されていない。出雲古代歴史博物館では、同遺跡の埋納祭祀を復原した魅力的なジオラマが展示されており、夜間に数名のシャーマンが静かに青銅器を埋め納めてゆく様子が描かれているが、それもひとつの仮説でしかない。周囲の景観に注意したが、山地部から伸びる幾つかの舌状地形が作る谷の奥まったところに位置しており、遠景には幾つかの山々が取り囲むようにみえる(弥生期からどの程度の地形の変化があったのかは分からないが、珍しく円錐形の山も幾つかみえた。後日奉納山からみた眺望についても書こうと思っているが、「八重垣」の問題からすると、山々に囲まれているという景観は、出雲の聖地認識においてけっこう重要かも知れない)。近くに湧水点があるような気配もあったが、よく分からなかった。
それにしても、この「神庭荒神谷」といい「加茂岩倉」といい、出雲で神関連の地名が残るところには、弥生期まで遡るような記憶が埋まっていることが多い。もちろん、それは一貫して連続する記憶ではなく、断続的に想起され変成されてくるものだろう。しかし、弥生期以降の祭祀関連遺構付近に、後代にも宗教関係の施設が造営されることは少なくない(「石山寺縁起」には石山における宝鐸の出現が描かれるが、周辺からは多くの銅鐸が発掘されており、奇岩の林立する同地が弥生以来の祭場であった可能性を示唆する)。自然環境と人間の心性との関係を考えるうえで、非常に興味深い現象である。
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