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仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

もろもろ終わる:夏季休暇が始まる

2008-07-30 19:39:29 | 議論の豹韜
春学期のもろもろが終わろうとしている。責任者になっていた委員会関係の業務が極めて繁忙で、先週の土日などは赤坂のホテル、そして勤務校の研究室へ泊まり込み徹夜で作業するはめに陥った。その徹夜明けの夕方が、また首都大オープン・ユニバーシティの最終日であったわけで、もうかなり朦朧としながら上半期最後の講義をやり終えた。内容は日本古代における地獄・極楽の定着と展開で、勤務校の特講でかけたものの特別バージョンである。六道絵や山越阿弥陀図をプロジェクターでスクリーンに映し、まさに絵解き状態で、厭離穢土・欣求浄土の境地?を開陳。遅くまで付き合っていただいた皆さんも、それなりにお腹いっぱいになっていただけたのではなかろうか。

ところで、この日も他の講師メンバーと打ち上げの飲み会に興じていたところ、猪股ときわさんから興味深い示唆をいただいた。聖衆来迎寺蔵『六道絵』の黒縄地獄幅に、獄卒が人間たちを大工道具で切り刻んでいる場面がある。加須屋誠さんらによって、『春日権現験記絵』からの道具、構図の借用が指摘されている箇所である。これを猪股さんは、「木樵や木工の道具で伐られているのは、大工さんじゃないか」というのだ。つまり、樹木を痛めつけてきた匠が、地獄で同じ責め苦を受けているというわけである。この視点は面白い。立証できるかどうかは分からないが、多方面への発想を刺激してくれるアイディアである。ちょうど6月に公刊した論文で、天台宗の固執した草木発心修行成仏論と良源との関係を指摘したところだ。六道絵のテキストである『往生要集』を著した源信は、良源の高弟にほかならない。樹木に注目する良源の伝統が、源信と浄土教を介して六道絵にまで流れ込んでいないとも限らない。極楽浄土はあくまで有情のゆくべき場所で、樹木の往生はまるで視野に入っておらず、そういう意味で、浄土教は樹木の生命を排除することによって成り立つと考えていた。もしかしたら、地獄を追究してゆくことで新たな観点が得られるかもしれない。またひとつ調べるべきネタが増えた。ありがたいことである。
※ 写真は、特講でお世話になった中央公論美術出版の『国宝六道絵』。写真がすばらしく、プロジェクターでのアップにもとてもよく耐えてくれる。

今日明日で準備をして、土曜は大山誠一さんの『日本書紀』を読む会。3月に出た『アリーナ』の合評会である。3日(日)は、なんとか午前中に金沢文庫の特別展最終日をみて(ずーっと行きたかったのだが、結局今になってしまった。この夏、時間があれば〈ないだろうけど〉『澄憲集』など読み込みたいものよ)、夜からサンライズ出雲で一路米子へ。6日(水)までゼミ旅行、この間、夜にはレポートのコピーを持ち込んで読まねばなるまい。7日(木)からは採点と原稿とお盆、17日(日)から雲南行きである。ちょっと忙しないな。
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2 Comments

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いやほんとにお疲れさまでした (イノ)
2008-08-01 09:06:11
24時間近く(それ以上?)寝ていない状態で地獄を絵解き。凄まじきかな、ですが、どことなく嬉々としているご様子もあり・・・うかがうほうは極楽でございました。ありがとうございます。
霊異記では、エンラ王の前でたちが、「こいつは我らをナマスにした!だから今こいつをナマスにしたい!と訴えます」。目には目を、みたいですが、そうではなくて、ほうじょうさんがおっしゃったように、現世があの世とセットであることで、あの世(地獄)は、網の目のように張り巡らされた現世の非対称な関係を対称的な関係へと解いてゆく働きをしていたのではないでしょうか。
大工さんのような「職人」たちのあの世での落とし前(?)のつけ方、興味深いです
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ことしも/今後とも (ほうじょう)
2008-08-01 12:39:50
今年も、いろいろな刺激をいただきました。こちらこそ、御礼申し上げます。この刺激や、飲み会の議論での広がりなどを、何か形にできるシステムがあるといいですね。ちょっと考えてみます。ま、最終的には、支えるメンバーのやる気次第というところですが。

大工のゆく地獄があるかどうか。親鸞の著作などを読んでいると、「屠膾之類」などという言葉は出てきて、地獄に堕ちるべき狩猟者や者が救済されなければならないという意識は濃厚なんですが、木樵や大工の話は出てこないんですよね。しかし、樹木婚姻譚の展開をみていると、伐採=殺害というイメージは、近世まで確実に続いている。その継続や変質を具体的に明らかにしたいところですが、浄土や地獄は、今までにない視点を提供してくれそうです。またそれが、「浄土/地獄の日本化」という大命題へ肉迫する手がかりも与えてくれるのではないか、という気がしています。

今後ともどうぞよろしくお願いします。
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