仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

恭頌新禧:一年を振り返る

2009-01-01 14:14:59 | 生きる犬韜
31日(水)は、例年どおり除夜会である。次兄夫婦も里帰りしてきて、一家総出での準備となった。22:00から勤行、22:30から鐘が撞き始まるが、最初のうちはまばらだった参拝客も、紅白歌合戦が終わる頃になると山門から境内の外へまで長蛇の列ができる。鐘楼の前では大きな焚き火が二つ焚かれ、甘酒の振る舞いもあるが、やはり寒い。行事があると何かにつけてお世話になっている仏教壮年会の人たちが、撞くスピードを調節してくださっているので、0:00ちょうどに108発目が打たれるようになっている。あとはお詣りされる方の自由に400近くまで撞かれてゆき、本堂では修正会が勤まる。何度も繰り返されてきた風景で、やはりこの行事がないと一年が終わったという気がしない。その合間に次兄から、日本社会学界におけるブルデュー研究の現状を聞いた。田辺繁治さんはじめ、人類学ではその実践面に注目が集まっているが、当の社会学の方ではプラチックが抜け落ち、構造による規制面ばかりが強調されているようだ。

昨年は、自分にとってどんな一年だったろうか。勤務校ではたくさんの仕事を任されるようになり、授業もそれなりに工夫しつつ、毎年新しい題材を勉強して行っている。シンポジウムのパネリストも2度務めたし、学会報告や研究会報告も数回こなした。『歴史家の散歩道』と『親鸞門流の世界』に論文を書いたし、『歴史評論』で「歴史学とサブカルチャー」なる連載も始めた。供犠論研究会の大変な論集を、書評させていただいたことも感慨深い。しかし、やはり非常勤講師と自坊の法務員で食べていた頃に比べると、「自分が納得ゆくまで取り組めた」という実感に乏しい。勤務校は職場としては最高なのだが、やはりどこかでストレスが蓄積されていて、以前のように集中力・持続力が発揮できないのだ。処理しきれていない原稿、作業が山積されていて、自責の念ばかりが強くなってゆく。今年は、どこかでこの悪循環を断ち切らねばならないだろう。
しかし、初めて中国へ渡って、納西族の祭祀の調査に参加できたのは何よりの経験だった。民俗学や人類学の調査というには、あまりに段取りを他に依存しすぎていたが、それでもフィールドに立てたことは自分を客観視する材料をさまざまに与えてくれた。むろんそれを必要以上に感受するつもりはないが、大事にはしてゆきたいと考えている。

今年は、調査に誘ってくださった文学の方々と、東巴経典に関する研究会を始めることになるだろう。来年度の院ゼミでは、『法苑珠林』の講読を中心にしつつ東アジアの宗教全般を捉えてゆきたいので、六朝期の儒・仏・道の交流はもちろん、現代の東巴教の分析も併せて行うつもりである。とくに羊の骨を用いた卜占については、あらためて現地調査する必要性を感じる。あとはとにかく溜まっている原稿を片付けること、秦氏に関する書き下ろしの単行本も、そろそろ書き上げねばならないだろう(年賀状で早速催促された)。科研費取って、伐採抵抗伝承の全国調査もしたいなあ(これは、まず申請書を書く暇があればだけど…)。
小説が書きたいとか、映画を撮りたいとか、夢はたくさんあるけれども、まあ需要のあるところから手を着けてゆくしかない。

関係の皆さま、本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
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