仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

〈生涯学習〉に思うこと

2006-09-07 23:14:13 | 議論の豹韜
今日の「生涯学習概論」をもって、1ヶ月以上にわたって参加した早稲田の学芸員講習が、本当に終了しました。お世話になった皆さん、先生方、本当にありがとうございました。縁があったらまたお会いしましょう。

古市将樹先生の「生涯学習概論」は、主に「生涯学習」という概念が成立するまでの日本教育史でしたが、詰まらなくなってしまいがちな内容を情熱で聞かせた、という感じでしたね。しかし、現在の「生涯学習」が抱えている諸問題にはほとんど踏み込んでおらず、内容が面白かっただけに残念でした(また、〈つながり〉を大切に考えるなら、もう少しインタラクティヴな試みを行って、社会人学級であることを活かした方がよかったのではないでしょうか)。
生まれてから死ぬまでの全生涯をカバーする概念とはいえ、現実的に〈生涯学習〉とは〈高齢者学習〉です。それゆえに生じてくる様々な問題がある。そのなかでいちばん深刻なのは、やはり「死をどのように受けとめてゆくか」でしょう。高齢者の方々の勉学意欲が若い学生たちとまったく違うのは、学問への姿勢が主体的であるかいなかということ以上に、学生が無意識に未来を前提に生きているのに対し、高齢者の方々は死と向かい合っているからです。自分の命が明日終わるかも知れないのは誰でも同じことですが、高齢者の方々にとってはより深刻な問題です。そうした人々を前に、私たちには何ができるのか。とくに、コミュニティ・センターなどに関わっていると、同じ参加者と長期にわたってお付き合いしてゆくことになります。当然、去年までいらっしゃった方が今年はみえない、先月までお元気だった方が突然亡くなられたなど、見慣れたお顔が次々と消えてゆくという事態に遭遇する。学問はすべて志半ばで終わるものですが、実際に、「今度はあれをやりましょう」「これはずっと続けてゆきたいですね」と語られていた言葉が虚しいものとなるのはやりきれません。皆さん、長い人生のなかで〈人の死をのりこえる方法〉は体得されてきていますので、必要以上に湿っぽくなったりはしませんが、死を自らのものと感じつつ学問に向かってゆくというのは大変なことです。
実は、今日の午前中も、ある学習グループの仲間のご葬儀に参列してきました。4年にわたって講師を務めてきた豊田地区センターの〈日本史の会〉の、最古参にあたる男性です。父の歴史教室にも参加されていて、パワフルに勉強されていた方でした。今月末の例会でどのように話を始めるか、今から言葉を探しています。

ところで、『銀河鉄道の夜』が実写映画化されるらしいですね。現代風にアレンジして、ジョバンニは女優の谷村美月が演じるとか(どちらかというと、カムパネルラの方が女性っぽい気がしますが、作品の透明性を高めるための配慮でしょうね)。どういう作品になるか興味ありますが、いま製作発表して、10月21日には公開という〈突貫工事〉はどうかと思いますね。
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2 Comments

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むずかしいよねぇ (みなくち)
2006-09-09 23:29:12
ボクも大学のオープンカレッジで経験があります。確かに〈生涯学習〉は〈高齢者学習〉であることが多いですね(中には高齢者と呼ぶのは失礼な方もいますが)。

ただ、ボクはオープンカレッジでしかも最長で10週でしたので、受講生との関係はほうじょうさんの様に濃密ではありませんでした。なので、受講生の葬儀に立ち会うなんて経験はありません。

それにボクはほうじょうさんほど、死に関わることはないので、講義期間中に彼らが「死と向かい合っている」ということを感じたことはありません。今思い返してみると、むしろみなさん受講中は死について忘れているようにみえたような気がします。あくまでも気がするだけですが。でも、ボクは生涯学習の場は、それでもいいかも、とも思っていたりします。現実で死に向き合っているとき、ほんの一瞬でも忘れられる空間があれば。それを提供するのが我々の役目の一つかもしれないし。もちろん、それはボクが受講生よりも遙かに若いということが大きな要因であって、孫のような人に教えられているということも、彼らにとっては何か思うところがあったりするのかもしれませんね。

とりとめがなくなりましたが、まあ、いずれにせよ、生涯学習の場は、どこでやるか(大学か地域か)・講師の年齢・受講者の年齢や出自などなど、様々な点で大学などよりも〈ケース・バイ・ケース〉となることは間違いないと思います。これが生涯学習の面白いところでもあり、難しいところでもある。講師の力量が思いっきり試される場であると思いますね。
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地域の問題 (ほうじょう)
2006-09-11 16:23:05
オープン・カレッジはほとんどの場合一回性の結合ですが、コミュニティ・センターの場合は半永久的な繋がりになっていきますからね。でも、ぼくだって講義の最中に、「あ、この人たちは死を認識しているな」と分かるわけではない。終了後の飲み会などで、「あとどれくらい続けられるか」という話を伺うことがあるだけです。ぼくの経験では、東京中野のグループと年1回で10年ほど、地元栄区のグループと月1回で4年ほどのお付き合いがあります。前者は毎年メンバーに変動がありますし、後者はいま転換期で、「体調を崩したので続けられない」という方々が70代くらいで出始めています。彼らとどういう学問を共有しうるか、講義の内容についても常に試行を続けています。

また、僧侶として地元を歩いている際にも、地域の高齢化は切実な問題として感じますね。栄区なんて、人口の推移と高齢者の割合を併せて考えれば、過疎化が進んでいるようなものです。宗教や学問をホスピスのなかでいかに活かせるか、自分の地域における責任とは何なのか。空虚なグローバル化と未来志向を謳い続けてきた大学も、最近はようやく地域に目を向けはじめ、J大でも千代田区との協同作業などを進めています。まだ住民の方々の顔はみえてきませんが、これから我々に何ができるのかは常に考えてゆかねばならないと思います。
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