仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

とりとめもなく9.11

2006-09-12 01:26:32 | 書物の文韜
サイード著『人文学と批評の使命―デモクラシーのために―』

岩波書店

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今年も、9.11がやって来ました。
近年、災害や大事件を日付で記憶する方法が流行で、例えば1.17など被災者の新たな〈戦争体験〉のように機能していますが、9.11についてはまだ位置づけが定まっていません。あの同時多発テロによって何が始まったのか、アフガニスタン侵攻・イラク戦争を経た先に本当は何が待っているのか、未だ世界の誰も想像することができないからです。いまや退陣を待つだけの小泉首相は、これまで以上に無責任な(すなわち後継内閣へ後始末を押し付ける)言動を繰り返していますが、アメリカやイギリスが世界秩序崩壊の責任を問われるなら、彼らに真っ先に賛成し支持を表明した日本はどうなるのか。後継内閣は、当時の小泉首相の決断の是非を問う責任があるでしょう(あの3人にそれだけの気概があるとは思えませんが)。辞めれば何もかも終わり、ということにはならないはずです。個人的には、コトバの力を空虚なものにした(論理的な言説による意志疎通の信頼を破壊した)責任をこそ追及したいところです。

9.11以降の国家的情報戦はメディア・リテラシーへの注意を喚起しましたが、思い起こせば、ブルデューは早くからその重要性を訴えていた知識人のひとりでした。恐らくは9.11五周年に合わせて出版されたであろう、上記のサイードの遺著にも、ブルデューの言説が多く援用されています。とくに『世界の悲惨』の英訳、『世界の重さ』からが多いようですね。同書は、臨床的方法を用いてボトムラインにいる人々の意識を変えてゆく(客観化の道具を与え、ハビトゥスの構築過程を暴露してゆく)実践的な書物ですが、内容的にもメディア・リテラシーの領域を含むものです。しかし、新保守主義批判のさなかに亡くなっていったサイード、ソンタグ、デリダの言説は、アメリカの攻撃的ナショナリズムを鎮静化することができたのかどうかを考えると、少々暗澹たる気分になります。先日、社会史の泰斗である阿部謹也さんが亡くなりましたが、あらゆるものを〈ブーム〉にしてしまう日本では、彼らの名前さえ聞く機会が少なくなっています。購買力のあるデリダやサイードの著作は着実に翻訳されていますが、ブルデューなど「もはや売れるかどうか分からないので刊行を見合わせている」そうです。批判の力と自制の力は、客観化の能力のなかに宿る。今後の教育においても考えてゆかねばならないことです。

映画『September 11』でショーン・ペンが監督したパートでは、貿易センタービルの崩壊によってもたらされた陽光が、孤独な老人を救済する物語が描かれていました。アメリカ社会が最も閉鎖的・攻撃的になっていた時期で、よくあのような作品を完成・公開できたものです。第2次大戦中に『風とともに去りぬ』を撮っていた国ですから、そういう意味では懐の深さを感じますけどね(戦後の日本公開でこの映画を観た父と母は、「ああ、こんな国と戦争したって勝てるわけがない」と本気で思ったそうです)。

ところで、たったいま出版社に勤めている友人のI氏から入った情報によると、続群書類従完成会が潰れてしまったようです。出版業界でも過酷な情況が続いていますね。そろそろ課程博士論文の出版ラッシュは見直したほうがいいでしょう。個人も出版社も学界も、誰も得をしないのですから。
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3 Comments

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〈ブーム〉反省。 (Tojo)
2006-09-13 22:29:56
TBありがとうございます。よしのぼりです。

「あらゆるものを〈ブーム〉」化する姿勢は、僕のように分別がつかず、なんでもアクチュアルだと思って乗っかってしまう人間がいるからかもしれません。メイドカフェの話なんて特にそうだと思う(?)と、恥ずかしい限りです。



ただ大学の学生身分として感じるのは、授業において現在起こっている社会状況が、学生側が勉強する内容と殆ど結びつかないことが問題だと常々思います。例えば僕自身は所属する大学の授業などで、ソンダクやデリダが亡くなられたということ、そしてその残した影響力などは一切耳にしませんでした。学問や研究が時代拘束を帯びるという基本的な認識が、研究方法の勉強とは関係ないという点から切り離されている現況で「批判の力と自制の力」をどう涵養していくのか…、講義やゼミを受ける学生側としても大きな問題だと思っています。

(僕も含めて)学生の購買力にも、期待がもてる…そうなればよいのですが。



Blog同様、目を覆いたくなるような記述ですいません。引き続きよろしくお願いをいたします。
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送る側の教育論 (ほうじょう)
2006-09-14 21:28:13
コメントありがとうございます。



講義に疑問がある場合は、どんどん教員へ向けて発信しましょう。ま、送り手の側としては心情的に嫌ですし、学校に発生する権力の問題もあるので、生産的な意見交換が行われるかどうかは分かりませんが…。いずれにしろ、高い学費を払っている学生には、講義の方針や方法論について、教員に問う権利があります。定年後に勉強に来られている方々など、「毎日いくら払って講義を受けている」という感覚が強いですから、そのへんはシビアに斬り込まれますね。教員の側もかなり緊張して対応しています。とすると、教員/学生間に働く権力は、かなりの割合で年齢秩序の権力と重なり、双方のベクトルが正対した場合には教員のそれが打ち消される、といえるかも知れません(あくまで日本の場合)。



しかし、講義の内容が学生の現実と結びつかない…というのはどうでしょう。とうぜん教員の側にも責任はありますが、学問を現実を認識する/現実に対処するツールとして使いこなせるかどうかは、行使する主体にかかっているのではないでしょうか。講義には、学生の学問を完成する力はなく、単にその発展へ向けて何らかの契機を作ることしかできません。それをどう育ててゆくかは学生さん自身であり、教員はできる限りそのサポートを行わねばならない、ということになります。



ただし。ご存知のように、1単位の前提となる学生の自助努力は、1時間の講義につき1時間の予習・1時間の復習ですからね。



http://blog.tatsuru.com/archives/000897.php
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ぬるま湯 (Tojo)
2006-09-15 00:44:11
ご指摘恐れ入ります。



自分で受身であってはならない、研究を志す気概を持って戦わねばならないと主張し、以前から北條さんからもご指摘をうけつつも、いざ上記のように記してみると、基本的な「主体」の問題を欠如させ学生身分という甘さ・ぬるま湯に浸かっていた…ということを痛感します。

何のために研究や勉強をするのか、基本的な態度をもう一度考えてみたいと思います。



至らないコメントの数々、ご無礼をお許しください。
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