今週もけっこうフルに活動した。定例の会議のほかに、サークルからの助成金申請を審査する課外活動検討小委員会(職責で委員長。昨年の『もののけ姫』シンポでご一緒した田中治彦さんも委員である)があり、ホフマンホールのサークル用小会議室(いわゆる部室)の使用許可証手交も行った。木曜は東奔西走で、午前中に鎌倉へ出て生涯学習の講義を行い、午後に大学へ戻って夕方の上南戦慰労会に出席した。その間何とか授業の準備をし、土曜も上智史学会の例会へ参加。ようやく一息ついた…といいたいところだが、来週はプレゼミ・院ゼミでも自分で報告をしなければならないので、今日の日曜も時間を無駄にできないのだ。そろそろ7月末の講演の準備を本格化し、単行本執筆もまとめにかからねばならないのだが、…うーむ、やはり時間がない。
ところで、最近責任をもって実現したいと思うのは、標題に掲げた雑誌の刊行である。何年か前から某出版社より、「そろそろ『環境と心性の文化史』の第2弾はどうですか」と提案されており、環境/文化研を起ち上げたのも「そのうちに論集を」という気持ちがあったためである。しかし経験からいって、論集の発刊は必ずしも此界の議論を活発化するに至らず、類書の山のなかへ埋もれて長期間発掘されない場合もあまたある。また環境/文化研も、メンバーの高職化や各地への就職移転に伴い半ば空洞化してしまっており、常連は昔からの仲間のみとなっていて、議論の拡大・発展に欠ける点は否めない。この分野の研究に社会の注目を集め、さらなる「同志」を獲得してゆくためには、持続的なアピールを可能にする雑誌の発刊が理想的ではないかと思うのである。しかしそれが、精神的・身体的・金銭的・時間的にいかに大変であるかは、『研究と資料』『紀尾井史学』『GYRATIVA』『上智史学』などの刊行に従事してきて、身に沁みてよく分かっている。今回は、関心のある出版社を巻き込みたいと考えているので、事務的な部分は楽になるだろうが、果たしてちゃんと売れるのかという問題は極めて大きい(『GYRATIVA』などはかなり「持ち出し」でやっていた)。昨年の中村生雄さんの追悼シンポで、赤坂憲雄さんから、「『季刊 東北学』の編集・発刊は本当に辛かった。終了したあと、ぼくは空っぽになってしまっていた。やはり研究者がやるべき仕事ではなかったのかもしれない」というお話を伺ったときは、非常に身につまされる思いがした。しかし、例えば発刊を年1回とし、4人程度の専攻分野の異なる世話人(例えば、哲学・倫理学・宗教学、生態学、人類学・民俗学、文学・地理学・歴史学など)が順番で責任編集を担うようにすれば、負担は大きく軽減できるし視野も内容も豊かになるのではないかと思う。価格は1500~2000円程度におさえて、学生にも「年1回なら買ってもいいかな」と「錯覚」してもらえるようにする。何より、ぼくらが学生時代に受けた数々の書物(『叢書 史層を掘る』、『ルプレザンタシオン』、初期の『環』など)からの恩恵を、いまの若者たちへ返したいのだ。
それにしても、いまのような「持ち時間」ではどうしようもないか。大きな約束ごとを全部片付けてからということかな。
※ 写真は、田口ランディさんの新作。面白いことは分かっているが、いま時間がなくて読めないのがつらい。しかし、考えていることが近いような気がするのは、それこそ気のせいだろうか。向こう様には失礼かな。この目前の現実自体が、アルカナシカ。しかし、たとえそれがコトバでしかなくとも、存在することを信じて語るとしよう。
ところで、最近責任をもって実現したいと思うのは、標題に掲げた雑誌の刊行である。何年か前から某出版社より、「そろそろ『環境と心性の文化史』の第2弾はどうですか」と提案されており、環境/文化研を起ち上げたのも「そのうちに論集を」という気持ちがあったためである。しかし経験からいって、論集の発刊は必ずしも此界の議論を活発化するに至らず、類書の山のなかへ埋もれて長期間発掘されない場合もあまたある。また環境/文化研も、メンバーの高職化や各地への就職移転に伴い半ば空洞化してしまっており、常連は昔からの仲間のみとなっていて、議論の拡大・発展に欠ける点は否めない。この分野の研究に社会の注目を集め、さらなる「同志」を獲得してゆくためには、持続的なアピールを可能にする雑誌の発刊が理想的ではないかと思うのである。しかしそれが、精神的・身体的・金銭的・時間的にいかに大変であるかは、『研究と資料』『紀尾井史学』『GYRATIVA』『上智史学』などの刊行に従事してきて、身に沁みてよく分かっている。今回は、関心のある出版社を巻き込みたいと考えているので、事務的な部分は楽になるだろうが、果たしてちゃんと売れるのかという問題は極めて大きい(『GYRATIVA』などはかなり「持ち出し」でやっていた)。昨年の中村生雄さんの追悼シンポで、赤坂憲雄さんから、「『季刊 東北学』の編集・発刊は本当に辛かった。終了したあと、ぼくは空っぽになってしまっていた。やはり研究者がやるべき仕事ではなかったのかもしれない」というお話を伺ったときは、非常に身につまされる思いがした。しかし、例えば発刊を年1回とし、4人程度の専攻分野の異なる世話人(例えば、哲学・倫理学・宗教学、生態学、人類学・民俗学、文学・地理学・歴史学など)が順番で責任編集を担うようにすれば、負担は大きく軽減できるし視野も内容も豊かになるのではないかと思う。価格は1500~2000円程度におさえて、学生にも「年1回なら買ってもいいかな」と「錯覚」してもらえるようにする。何より、ぼくらが学生時代に受けた数々の書物(『叢書 史層を掘る』、『ルプレザンタシオン』、初期の『環』など)からの恩恵を、いまの若者たちへ返したいのだ。
それにしても、いまのような「持ち時間」ではどうしようもないか。大きな約束ごとを全部片付けてからということかな。
※ 写真は、田口ランディさんの新作。面白いことは分かっているが、いま時間がなくて読めないのがつらい。しかし、考えていることが近いような気がするのは、それこそ気のせいだろうか。向こう様には失礼かな。この目前の現実自体が、アルカナシカ。しかし、たとえそれがコトバでしかなくとも、存在することを信じて語るとしよう。