以前のブログに、「どうも日常がループ化して感性が鈍化している、どうにかせねば…」といったようなことを書いたが、先週は、ふだんとはまったく異なる動きをした1週間だった。
まず30日(月)は、いつものように朝9:00からの学生センター・ミーティングに始まり、授業を経て、18:00から儀礼研究会の第4回例会。報告は、水口幹記君による「弘仁の『日本書紀』講書をめぐって」であった。近年の講書研究が、中世日本紀・中世神話に代表されるように『書紀』のなかでも「神話」にしか注目せず、しかも各時期における講書の独自性を捨象して総括的にしか論じていない点を問題視し、弘仁講書における文人官僚の知的実践の具体性、背景となる嵯峨朝の文章経国思想、歴史叙述に対する考え方に迫った力編であった。とくに、フルコトの重視という問題圏は、『日本霊異記』成立のまったく新しい視点をも提供する。よい発表とは聴く側の妄想を駆り立ててくれるものだが、報告後の質疑応答はまさに風呂敷の広げあいで、大いに知的興奮を覚えた。彼の分析視角をよくよく吟味してみると、やはり根底にはシャルチエの読書論がみえかくれしていて、20代の終わりに方法論懇話会の発足準備会で出会った頃のことを想い出した。やはり、研究を続けてゆくうえでは、憧憬の対象となるような〈学〉を持つ友人の存在が大切である。
31日(火)のプレゼミ・ゼミでは、前回の院ゼミに引き続き、学生たちが41歳の誕生日を祝ってくれた。ありがたい反面、やっぱり負担をかけているなあと恐縮してしまう。毎年のことだが、何か埋め合わせをしなくてはなるまい。1日(水)は、9:30から会議の連続。ホフマン・ホールのサークル用小会議室割り当てについて、やはりいろいろな問題が生じてくる。担当のセンター職員Yさん、Tさんと書類をやりとりし、ひとつずつ課題を片付けていった。
2日(木)は、月曜に腫瘍摘出の内視鏡手術を受け、入院している父を見舞うため横浜へ。父も、(住職のかたわら)長年東洋大学アジア・アフリカ文化研究所で西域・華南の研究に従事した学者(シルクロード史)なので、神田の東方書店に立ち寄り、最新の西域研究書を2冊ほどお土産に購入し持参した。彼は、実は昨年の同じ時期にも同様の手術を受けているので、今度は少々心配だったのだが、おかげさまで何とか元気を回復しつつあるようだった。こんなことをブログで書くのはどうかとも思うが、火曜には大量の血を吐いて2パック分の輸血をしたらしく、最初はさすがに疲労して眠っていた。起きてからはいろいろ話ができたが、ぼくが子供の頃からふざけて彼の太鼓腹を触っていたからか、スマートになった腹部に手を当てて、「へっこんじゃったよ」とおどけていたのが心に残った。それゆえに大人になりきれていないのかもしれないが、ぼくは、親に対しては悪感情を持ったことがない(もちろん、多少の反抗期はあったけれども)。常に尊敬すべき父であり、母であり、一生かかってもこの人たちを乗り越えることはできないと思っている。いや、乗り越えようとさえ思わない。父には、早く全快し、今までのように縦横無尽に活躍してほしいものである。
3~5日の終末は、上南戦(姉妹校の南山大学とのスポーツ交流戦)のため、学生センター長補佐の職責で名古屋へ出張。開会式・閉会式やレセプションへの出席のほか、各種の試合や催し物へ足を運び応援に明け暮れた(応援の各種フレーズが耳について離れない)。残念ながら上智は惜敗したのだが、学生たちは、震災の影響で練習場が使えなくなるなどの悪条件のなか、一生懸命に頑張って大いに健闘してくれた。心から拍手を贈りたい。日本古代史ゼミでは、N君がラグビー、Aさんが合気道、Mさんが応援団チアで活躍していた。
Aさんの演武には、生真面目さと凛とした美しさが溢れていた。眼差しが痛いほど真剣なので、知らず知らずのうちに感情移入し、彼女が倒されたり投げられたりする側に回ったときには、つい腰を浮かしかけてしまった(まあ、駆け寄っていったところで返り討ちにあうだけなのだが…)。Mさんは、開会式の演技から始まり、無数の試合で声を張り上げ、笑顔を振りまき、身体を酷使して応援をし続けていた。上南戦で、いちばん精神力と体力を消耗したのは、やはり応援団の彼女たちに違いない。ときには、痛み止めを飲んで演技に臨むこともあると聞いた。Mさんたちの頑張りがなければ、上智の黒星はもっと増えていただろう(ゼミ生ではないが、去年自主ゼミに参加してくれていた2年のM君も、炎天下に黒のスーツでドラムを叩き続けていた。ふだんは色白の完全草食系男子なのだが、この日は日焼けしてとても逞しくみえた)。N君は、文武両道に長けた申し分のないゼミ長だが、残念なことに、ラグビーの試合時間とレセプションの時間が重複しており、彼の試合のいちばんおいしいところを見逃してしまった。終了後に多少話をすることはできたが、傷だらけで起ち上がったところへ、「大きな怪我がなくてよかったね」などと馬鹿な言葉をかけてしまう始末。ごめんなさい。とてもカッコよかったですよ…。
ベタな表現だが、学生に感動させられっぱなしの3日間だった。しかし、教え子の試合をみるという経験は、異様に肩が凝るものなのだということを思い知らされた。
もうひとつ特記しておきたいのは、やはり学生センターの皆さんの献身的な活躍である。まさに縁の下の力持ちといってよく、いてもいなくても同じぼくなどとは違って、きびきびと立派なものだった。この3日間を通して、4月以来、職員の皆さんとの間に何となく感じていた心の〈壁〉も、ちょっとは薄く、もしくは低くなったように思われた。今後も仲良くしてもらいたいものである。そしてもちろん、実行委員会の学生たち、ホストの南山大学の皆さんには心よりお礼を申し上げる。…しかし、ふだんは授業準備に使っている土日がなくなるというのは、ぼくにとっては大ごとである。昼間の空き時間や夜のホテルでは眠気と闘いながらレジュメを作り、何とか今日の「日本史概説」も講義することができたが、上南戦がどんなに感動的でも、やはり休日はほしい。
ちなみに、南山には人類学博物館が存在し、2013年にはリニューアル・オープンとなるらしい。土曜になかを覗いてみたが、何と、元上智史学科教授白鳥芳郎氏の少数民族資料は、ここが保管していたのだった! うちに博物館がないばっかりに…と悔しくなり、上司のK氏へ久しぶりに上智博物館構想をぶちあげてみたのだが、案外に好感触で、「それ、いずれ書類を提出してもらうかもしれませんよ」といわれてしまった。果たして、具体化するのかどうか…。
まず30日(月)は、いつものように朝9:00からの学生センター・ミーティングに始まり、授業を経て、18:00から儀礼研究会の第4回例会。報告は、水口幹記君による「弘仁の『日本書紀』講書をめぐって」であった。近年の講書研究が、中世日本紀・中世神話に代表されるように『書紀』のなかでも「神話」にしか注目せず、しかも各時期における講書の独自性を捨象して総括的にしか論じていない点を問題視し、弘仁講書における文人官僚の知的実践の具体性、背景となる嵯峨朝の文章経国思想、歴史叙述に対する考え方に迫った力編であった。とくに、フルコトの重視という問題圏は、『日本霊異記』成立のまったく新しい視点をも提供する。よい発表とは聴く側の妄想を駆り立ててくれるものだが、報告後の質疑応答はまさに風呂敷の広げあいで、大いに知的興奮を覚えた。彼の分析視角をよくよく吟味してみると、やはり根底にはシャルチエの読書論がみえかくれしていて、20代の終わりに方法論懇話会の発足準備会で出会った頃のことを想い出した。やはり、研究を続けてゆくうえでは、憧憬の対象となるような〈学〉を持つ友人の存在が大切である。
31日(火)のプレゼミ・ゼミでは、前回の院ゼミに引き続き、学生たちが41歳の誕生日を祝ってくれた。ありがたい反面、やっぱり負担をかけているなあと恐縮してしまう。毎年のことだが、何か埋め合わせをしなくてはなるまい。1日(水)は、9:30から会議の連続。ホフマン・ホールのサークル用小会議室割り当てについて、やはりいろいろな問題が生じてくる。担当のセンター職員Yさん、Tさんと書類をやりとりし、ひとつずつ課題を片付けていった。
2日(木)は、月曜に腫瘍摘出の内視鏡手術を受け、入院している父を見舞うため横浜へ。父も、(住職のかたわら)長年東洋大学アジア・アフリカ文化研究所で西域・華南の研究に従事した学者(シルクロード史)なので、神田の東方書店に立ち寄り、最新の西域研究書を2冊ほどお土産に購入し持参した。彼は、実は昨年の同じ時期にも同様の手術を受けているので、今度は少々心配だったのだが、おかげさまで何とか元気を回復しつつあるようだった。こんなことをブログで書くのはどうかとも思うが、火曜には大量の血を吐いて2パック分の輸血をしたらしく、最初はさすがに疲労して眠っていた。起きてからはいろいろ話ができたが、ぼくが子供の頃からふざけて彼の太鼓腹を触っていたからか、スマートになった腹部に手を当てて、「へっこんじゃったよ」とおどけていたのが心に残った。それゆえに大人になりきれていないのかもしれないが、ぼくは、親に対しては悪感情を持ったことがない(もちろん、多少の反抗期はあったけれども)。常に尊敬すべき父であり、母であり、一生かかってもこの人たちを乗り越えることはできないと思っている。いや、乗り越えようとさえ思わない。父には、早く全快し、今までのように縦横無尽に活躍してほしいものである。
3~5日の終末は、上南戦(姉妹校の南山大学とのスポーツ交流戦)のため、学生センター長補佐の職責で名古屋へ出張。開会式・閉会式やレセプションへの出席のほか、各種の試合や催し物へ足を運び応援に明け暮れた(応援の各種フレーズが耳について離れない)。残念ながら上智は惜敗したのだが、学生たちは、震災の影響で練習場が使えなくなるなどの悪条件のなか、一生懸命に頑張って大いに健闘してくれた。心から拍手を贈りたい。日本古代史ゼミでは、N君がラグビー、Aさんが合気道、Mさんが応援団チアで活躍していた。
Aさんの演武には、生真面目さと凛とした美しさが溢れていた。眼差しが痛いほど真剣なので、知らず知らずのうちに感情移入し、彼女が倒されたり投げられたりする側に回ったときには、つい腰を浮かしかけてしまった(まあ、駆け寄っていったところで返り討ちにあうだけなのだが…)。Mさんは、開会式の演技から始まり、無数の試合で声を張り上げ、笑顔を振りまき、身体を酷使して応援をし続けていた。上南戦で、いちばん精神力と体力を消耗したのは、やはり応援団の彼女たちに違いない。ときには、痛み止めを飲んで演技に臨むこともあると聞いた。Mさんたちの頑張りがなければ、上智の黒星はもっと増えていただろう(ゼミ生ではないが、去年自主ゼミに参加してくれていた2年のM君も、炎天下に黒のスーツでドラムを叩き続けていた。ふだんは色白の完全草食系男子なのだが、この日は日焼けしてとても逞しくみえた)。N君は、文武両道に長けた申し分のないゼミ長だが、残念なことに、ラグビーの試合時間とレセプションの時間が重複しており、彼の試合のいちばんおいしいところを見逃してしまった。終了後に多少話をすることはできたが、傷だらけで起ち上がったところへ、「大きな怪我がなくてよかったね」などと馬鹿な言葉をかけてしまう始末。ごめんなさい。とてもカッコよかったですよ…。
ベタな表現だが、学生に感動させられっぱなしの3日間だった。しかし、教え子の試合をみるという経験は、異様に肩が凝るものなのだということを思い知らされた。
もうひとつ特記しておきたいのは、やはり学生センターの皆さんの献身的な活躍である。まさに縁の下の力持ちといってよく、いてもいなくても同じぼくなどとは違って、きびきびと立派なものだった。この3日間を通して、4月以来、職員の皆さんとの間に何となく感じていた心の〈壁〉も、ちょっとは薄く、もしくは低くなったように思われた。今後も仲良くしてもらいたいものである。そしてもちろん、実行委員会の学生たち、ホストの南山大学の皆さんには心よりお礼を申し上げる。…しかし、ふだんは授業準備に使っている土日がなくなるというのは、ぼくにとっては大ごとである。昼間の空き時間や夜のホテルでは眠気と闘いながらレジュメを作り、何とか今日の「日本史概説」も講義することができたが、上南戦がどんなに感動的でも、やはり休日はほしい。
ちなみに、南山には人類学博物館が存在し、2013年にはリニューアル・オープンとなるらしい。土曜になかを覗いてみたが、何と、元上智史学科教授白鳥芳郎氏の少数民族資料は、ここが保管していたのだった! うちに博物館がないばっかりに…と悔しくなり、上司のK氏へ久しぶりに上智博物館構想をぶちあげてみたのだが、案外に好感触で、「それ、いずれ書類を提出してもらうかもしれませんよ」といわれてしまった。果たして、具体化するのかどうか…。