仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

清水町から〈自然〉を考えてみる

2006-03-15 18:35:03 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
まだまだ続く、環境/文化研究会合同合宿のレポートです。
清水町を散策していると、杉の整然と並ぶ山々が本当に美しい。しかしこれは、当然のごとく、植林によって創られた〈人工的〉空間なわけです。加藤さんや蘇理さんのお話によれば、同地で林業が開始されたのは近代になってから。もちろん、日常生活レベルでの木材の利用は行われていたものの、近世以前はそれが産業になることはなかったそうです。上の写真は、植林の杉山と雑木山(清水では「浅木」というそうです)が直線的に仕切られた風景。〈人工性〉が際立ちます。

しかし、そもそも〈自然〉を語り考えるとき、戦略以外の目的で〈人工性〉を強調する必要があるのかどうか、再検討してみなければなりません。昨日の三都の会の河原井彩さんのご報告「現代日本の葬送の変容と死生観」でも、ジネン/nature/里山という〈自然〉概念の3要素がとりあげられていましたが、近年はnatureを核に他の2要素が包括されている印象があります。とくに都市的な表象としては、〈文化〉との二項対立図式でしか〈自然〉を捉えられなくなっており、〈人間の手が加わっていないもの〉という意味づけが強く働いている気がします。しかし、先に櫟庵さんやsorioさんと議論したなかでも述べたように、〈自然〉に本来の姿などないわけで、人間も含めた様々なファクターとの影響関係のなかで、常に変転してきたのが生態系のあり方でしょう。歴史的にも地球上における〈原生林〉の存在が疑われていますが(〈極相〉はありますけど、もちろん〈原生林〉とイコールではありません)、人間の影響力が全地球規模に拡大している昨今、〈手つかずのもの〉など実体的にもありえない状態になっていると思います。以前、『環境と心性の文化史』の総論で、〈環境〉を「主体によって対象構成される関係態」と定義したことがありますが、自然/文化ももはやまなざし(五感の総合としての主観という意味)の問題でしかないのかも知れません。「誰もいない森のなかで木が倒れたとき、音はしたのだろうか」というテーゼ(フレドリック・ブラウン「叫べ、沈黙よ」)のように、主体が人間の介入を認知している景観は〈文化〉的となり、認知していない景観が〈自然〉的となる、ということでしょうか。雑駁な思考ですので、さらなる検討が必要ですね。

ところで、上の写真は4月からの環境史の講義に使うつもりです。学生がどういう反応を示すか、どのようなことを考えてくれるか、いまから楽しみです。
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