仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

棚田は何のために……?

2006-03-07 11:41:36 | ※ 環境/文化研究会 (仮)
環境/文化研究会(仮)関西・関東合同合宿の続きです。
スケジュール的には話が前後しますが、今回は現地見学の目玉、至るところに見受けられる棚田について書きたいと思います。

合宿の日程でいうと主に5日(日)、蘇理さんの案内で清水町周辺を散策、住民の皆さんの日常生活を垣間みさせていただきました。山の斜面を階段状に開発してゆく棚田は、そのなかでも特徴的。世界遺産にも登録された中国雲南の棚田が有名ですが、日本各地にも「千枚田」と呼ばれる多様な棚田が残っています。ここ清水町にも至るところにみられるわけですが、なかでも有名なのが「あらぎ島」。有田川に突き出た島状のなだらかな棚田で、その美しい景観は同町最大の観光資源にもなっています(あまりに有名なので写真は掲載しませんでしたが、同田の耕作農家である西林輝昌さんのフォト・ギャラリーが、ネット上に開設されていますのでご覧ください。西林さんは同町で「赤玉」という食堂も経営されており、この日の昼食はそこでいただきました。しかしこのあらぎ島、「扇を伏せたような形」と形容されますが、私にはUSSエンタープライズかギャラクティカの艦首にしかみえません……)。すでに高木さんのhpや土居さんのブログでも言及されていますが、蘇理さんによればこの景観は、昭和28年(1953)の有田川大洪水で対岸の崖が崩落した結果〈発見〉されたとのこと。正面から望むと中央遠景に大塔山がおさまり、まさに絶好のパースとなる。photogenic!です。『日本災害史』の原稿を書き終えたばかりですが、こういった景観との関係は完全な盲点でしたね。しかも、それが地域復興の活力にもなるという……これは大阪八尾の〈島畠〉などと同じ、まさに〈災害文化〉ですね。あまり関係ないかも知れませんが、昔観た映画『カリオストロの城』で、城の濠を形成する湖が崩壊した後、湖底から古代ローマ人の都市遺構が出現するという場面を想い出しました。
また、一緒にあらぎ島を遠望していた森田さんとも話したのですが、稲の植わっていない冬の棚田って、やっぱりどこか異様なんですよね。これは一体何のために存在しているのかという……。行程の終わり、高木さんが〈発見〉したという旧野上町の千枚田!(写真)をみせていただいたのですが、山のかなり高い部分まで広範囲に開発したその景観をみて、人々の尋常ではない努力に感嘆する一方(段を形成する石組みの石は、どうやら山から掘り出したものでも削り取ったものでもなく、河原から拾ってきたもののようにみえます。これを運ぶだけでも重労働。一体どれだけの年月がかかり、どれだけの人々が関わったのか……)、稲を税として設定し続けてきたこの国の権力のあり方を思わずにはいられませんでした。庶民の農耕における効率のよさだけでは、稲作へのこのような執着は生まれません。ただ暮らしてゆくだけなら、現在主力になっている山椒など、もっと環境に即した作物を想定できるわけですから。人々の努力の背後に、無意識に作用する大きな力を感じてしまいます(合宿中にはやった言葉でいえば、「大量資本」ですかね)。

ちなみに、「あらぎ」の由来アララギとはイチイの方名とのこと。蘇理さんは海老澤衷さんのノビル畑説に、高木さんはなだらかなあらぎ島を棚田と呼ぶことに、それぞれ疑問を投げかけていました。
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6 Comments

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ありがとうございました (櫟庵)
2006-03-07 22:53:45
このたびの環境/文化研究会の合宿、ありがとうございました。また車の運転が乱暴じゃなかったか、やや不安ですが、本当にお疲れ様でした。ぼくとしては、このブログで、「あらぎ島」の写真ではなく、野上の棚田の写真が「入選」したことに秘やかな喜びを感じています(笑)。



こうした棚田も、その開発した当初から、一筆一筆のすべてにイネが植えられていたか、実のところぼくとしては相当に疑問だと思っています。あらぎ島のように近世に開発の起源が確かに確定できるところならともかく、中世に開発の起源が遡るところや、近世の棚田であっても、当初はやはり畠との「混作」が基本ではないでしょうか。それが何らかの力の作用(それが権力なのか、大量資本なのかは分かりませんが)によって、究極まで水田が拡大されていった姿が、現在の「美しい」棚田の姿なのではないでしょうか。我々が見て「美しい」と感じる、見渡す限り一面の「稲穂の海」は実はそれほど古い景観ではないのかも知れません。前回の関西例会でも、関東例会での北條さんの報告を受けて(レジュメだけ拝見しました)、現在の棚田礼賛、里山礼賛の風潮に疑問を提起しました。



それにしても、やはりぼくとしては、あらぎ島を棚田と呼ぶことには抵抗が・・・(笑)
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こちらこそ (ほうじょう)
2006-03-07 23:44:01
コメントありがとうございます。また、合宿中は本当にお世話になりました。帰りの車中など、ちょっとウトウトしてしまいまして済みません。櫟庵さんの運転に安心していたのでしょう(笑)。しかし、法福寺までのあいだはかなり攻めてましたね!



棚田景観の件は、仰るとおり、各時代での作物情況などもっと厳密に考え、研究者自身のなかに作用する稲作史観を相対化してゆく必要がありますね。「権力」は、方法論懇話会でも議論してきましたけど、アプリオリに国家権力を意味するものとして実体化してはいません。もちろん、税として設定した契機は重要ですが、それらを支え、時には促進して飽くなき開発へと駆り立てていったのは、もっと複雑で根深く、自覚できないほど日常化しているベクトルでしょう。それこそ、列島の低湿地林を激減させた弥生~古墳期から近現代に至るまで、各時代ごとに表象を変えつつ醸成されてきたその力は、現在でも強固に働き続けているように感じます。「稲穂の海」を美しいと思ってしまう感性自体、それによって構築されてきた可能性がありますよね。その意味で、全国棚田連絡協議会、棚田振興議員連盟などは、ぼくにとってちょっと怖い存在です。
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冬枯れの棚田 (sorio)
2006-03-08 02:19:35
先日の合宿、お疲れさまでした。ほうじょうさんはじめ皆さんに清水のあちこちを見ていただき、いろいろ興味ぶかい議論をしていただけたので、ここをフィールドとしている私の方こそ、とてもいい勉強になりました。



さて、冬枯れの「あらぎ島」についてですが、じつはこれも生業の変化と関係があります。清水では、昭和40年代ごろまでは、稲刈りが終わると順次田に畝を立てて裏作としてムギ(大麦・小麦など)を作り、冬場の水田は麦畠として利用されていました。小麦は、よまして麦飯や麦茶粥にするほか、おかず味噌に入れたり、粉にして団子を作ったり、大麦は牛のエサにもなりました。麦作がおこなわれたのは「五月田植」といって旧暦5月に田植えがおこなわれた頃のことで、昭和40年代以降、イネの品種改良によって新暦5月初旬に田植えができるようになると、麦作はおこなわれなくなって冬場に田を休ませるようになったようです。雪深い地域でははじめから麦作は無理ですが、この地域の冬枯れの棚田の景色は、あらぎ島の景観とおなじく比較的新しい風景といえるかもしれません。



また「あらぎ島は棚田か?」の議論について、中島峰広さんは「あらぎ島」を「谷底平地型の棚田」と表現しています。言わんとするところはよく分かります、ただ考えてみると「棚田」という言葉は、ほんらい外からの眼差しによるものであって、もともと何軒もの農家の田地が階段状になって展開しているものを、外部の視点からまとめて「棚田」と呼んでいるような気がしますね。

ちなみに「あらぎ島」の呼称じたいも、じつは外からの眼差しなんです。もともと地元の人は「シマダ」とよんでいました。「あらぎ島の棚田」という言い方は、どちらかといえば考古学で「○○遺跡」と呼ぶのに近いのかもしれません。

それから、櫟庵さんのおっしゃるように、「あらぎ島」が「棚田」でないとしたら、その後どんなお話になるのかなというのも、ちょっと気になるところです。



それでは。
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ご指摘感謝 (ほうじょう)
2006-03-08 03:54:59
sorioさん、ご指摘ありがとうございます。また、合宿中にも多大なレクチャーをいただき、心より感謝しております。先を歩くsorioさんに、地元の方々が次々と声をかけてくる様子は、鮮やかに目に焼き付いています。またお世話になりたいものです。



さて、「冬の棚田が異様」といったのは、作物が植わっていないことによって、かえって、特定の品種を生育させるために開発された空間であることが露わになる、という意味です。生命多様性が人間の意志によって奪われた情景ですね。しかしそれは、同時に別の生態系が機能する姿でもあるわけで、一概に価値の高低を論じることはできません。「自然」や「文化」といった概念の相対性を追究するとともに、里山的景観を礼賛にも否定にも収斂させずどのように語るべきか、真剣に考えてゆかねばなりません。



ところで、田/畠という概念は、私たちが思う以上に〈置換可能〉なもののようですね。本文でちょっと触れた八尾の島畠は、定期的に起こる洪水の度に水田を覆う大量の土砂を除去し、傍らに山のように集めて作る畠のことです。土砂の厚みにもよりますが、近世になると、砂上のほぼ同位置に畦畔を復原することが多くなるようで、「江戸期の個別農民が土地の境界を強く意識するようになるからだろう」と推測されています。櫟庵さんのコメントにもありましたが、やはり近世はいろいろな意味で画期なのでしょう。
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ふたたび・・・ (櫟庵)
2006-03-08 23:48:03
人の土俵でさらに議論を続けてスミマセン(笑)



sorioさんのおっしゃる、「棚田は外からのまなざし」というご指摘、もっともなことだと思います。「棚田」という言葉の初見史料(この史料、実は「初見」ではないのですが)と言われている紀伊国荒川荘の史料には、その耕地を「棚田」と呼ぶに至った理由を記していてなかなかに興味深いですが、「山田にあって棚に似ているので棚田と呼ぶ」と記していますね。記した記主はその土地を寄進したお坊さんで、明らかに耕作者ではありません。棚田という言葉は、そもそもその出発点から「外からのまなざし」に晒されていたということになります。



ところで、あらぎ島が地元では「シマダ」と呼ばれていたというのは案外重要なことかも知れませんね。荒川荘ではもともと「山田」と呼ばれていたところを「棚田」と呼び変えています。「山」と「島」。うーん。。。。



それから「冬枯れの棚田」について。

ほうじょうさんのおっしゃる通り、それは土地本来の生物多様性を奪った姿で、本来はsorioさんがおっしゃる通り、冬作麦が植えられたのでしょう。けれどそもそも現代の水田じたいも、生物多様性という姿からすれば異様なわけですよね。私はやはり「混作」が本来の姿で、ややカゲキに、田/畠は置換可能なのではなく、田/畠は耕作者の認識のレベルではほとんど区別されておらず、同一の空間を占めていたのでは、と「妄想」しています。うーん、うまく言えませんが。。。
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まなざしの創出する世界 (ほうじょう)
2006-03-09 02:03:03
ほんと議論が広がって、これ、MLに流さないといけないんじゃないかなあ……。



sorioさんや櫟庵さんのご指摘のように、世界はまなざし(より厳密にいえば、五感の総合という意味での主観)が創出するものであって、田/畠の区別も、究極的には個別の認識枠組みによって変動するものでしょう。場合によっては、「耕作者」という一枚岩で語ることもできないと思います。また、内部にも外部があるし、外部にも内部がある。我々が三田からあらぎ島を遠望していたとき、上空を一羽のとんびが旋回していましたが、彼の目にいかなる景観が広がっていたのかを考えると、問題は明瞭になります。



冬枯れの棚田に異常さを感じたこともまなざしの問題、とうぜん私自身の認識枠組みに関係があります。冬の田の風景は、私の住んでいる鎌倉周辺でも珍しくないわけですが、清水町でそれをみると「異常性」が際立ってしまう。それは、鎌倉の景観が、〈内部生活者〉としての私にとってアプリオリな存在になってしまっていること、清水町の棚田景観が、〈外部旅行者(あるいは研究者)〉としての私にとって、〈里山〉というパラダイムに規定されていることと結びついている。今さらですが、景観論におけるまなざしの整理、自己のまなざしの追究は難しくも大事なことですね。



それから、ちょっと舌たらずでしたが、生物多様性における異常さは、もちろんあらゆる耕作地に共通のことです。単作でも混作でも、特定品種を意識的に栽培する場合には。しかし事態は複雑で、多様性の破壊が行われたあとも、何らかの形でそれは営まれ続けるんですよね。前段階のものが小規模的に残存する場合もあれば、破壊後の場を新たな環境として構築される生態系もある。環境保全主義者は破壊自体を否定しますし、循環経済論者は破壊後の多様性の展開を正当化します。後者は論外としても、自然に「本来の姿」なんてないわけですから、前者を肯定することもできない。



ちょっと話題がそれましたが、里山的景観を論じるのは、非常な困難が伴いますね。こんど古代文学会のシンポで、中澤克昭さんと「動植物の命と人の心」というテーマで対論をするのですが、上記の問題で悶々としています。合宿や皆さんとの討論で、いろいろ光があたってきた気はしますが……。
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