く~にゃん雑記帳

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<長崎・出島和蘭商館跡> 企画展「明治維新と出島展」

2018年11月11日 | メモ

【日本初の蒸気船「スンビン号」の航海日誌を初公開】

 長崎の国指定史跡「出島和蘭商館跡」を訪ねたとき、ちょうど企画展「明治維新と出島展」が開かれていた。明治維新から150年になるのを記念したもので、激動期の幕末~明治初期の出島の変遷を日本の近代化に尽くしたオランダ人の功績と重ね合わせながらパネルや文献、写真、地図などで辿る。その中にオランダから寄贈された日本初の蒸気船「スンビン号」(のちに「観光丸」に改名)の航海日誌が初公開として展示されていた。企画展は12月9日まで。

 

 スンビン号は最後のカピタン(オランダ商館長)ドンケル・クルティウス(1813~79)の尽力で、1855年にオランダ国王から将軍徳川家定に献上され、長崎海軍伝習所の練習艦として使われた。航海日誌は全40ページ。筆者は不明だが、当時の出島や長崎の情景、奉行所で国王の肖像画を献上した時の様子などが写生画とともに記されている。「オランダの三色旗がはためく小さな『出島』は……町とは運河で隔たり、表門で閉ざされ、水門で波止場へと繋がる」

 海軍伝習所ではオランダ海軍日本派遣隊司令官のファビウス(1806~88)が率先して蒸気機関術などを伝授する傍ら、海軍の諸規律に関する意見書の作成などにも取り組んだ。「この蒸気艦を閣下にお引渡しし……日本海軍が誇れる軍艦になることを願ってやまない」(フォス美弥子編訳『海国日本の夜明け オランダ海軍ファビウス駐留日誌』)。伝習生には幕臣関係者から勝麟太郎(海舟)ら3人の艦長候補生も含まれていた。書き写したとみられる日課表には造船、砲術などの実技のほか「下等仕官心得方」なども含まれ、伝習科目が多岐にわたっていたことが分かる。

 

 1857年にはオランダからカッテンディーケ(1816~66)を団長とする第2次教師団を乗せた蒸気船「ヤパン号」(のちの「咸臨丸」=模型を展示中)が長崎に到着する。「我々は元気いっぱいに、また熱意をもって日本における任務に取り掛かった……きっと日本人は何事にも我々と協力して、目的達成のために尽くしてくれるであろう」(カッテンディーケ著『長崎海軍伝習所の日々』)。第2次の伝習では長崎から時計回りで九州を一周するなど乗艦訓練も大掛かりなものになった。そして1860年には勝海舟らが率いる海軍伝習生が米国サンフランシスコに至る太平洋横断に成功する。

 ヤパン号は海軍教育以外でも日本の近代化に大きな役割を果たす人材を運んできた。海軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールト(1829~1908)は日本での西洋医学教育の礎を築き、国内初の西洋式近代病院「長崎養生所」の開設にも尽くした。「学生たちに医師にとっては……貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけということを納得させようとした」(『ポンペ日本滞在見聞記』)。ヘンドリック・ハルデス(1815~71)は1861年、海軍伝習所の対岸に軍艦を修理する日本最初の洋式近代工場「長崎製鉄所」(現在の三菱重工業長崎造船所の前身)を完成させた。展示中の「長崎港全圖」にはこの製鉄所なども含め明治初期の港の様子が詳しく記されている。

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