く~にゃん雑記帳

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<長崎「四福寺」巡り㊤> 江戸時代前期に来航唐人らが創建

2018年11月01日 | 旅・想い出写真館

 長崎には「福」の字が入った名刹が多い。江戸時代初期に唐人(中国人)たちによって創建された崇福寺、興福寺、福済寺は「長崎三福寺」や「唐三カ寺」と呼ばれる。これに少し後に創建された聖福寺を加えて「長崎四福寺」と呼ばれることも。これら4寺院は隠元禅師ゆかりの黄檗宗。鎖国時代、唯一オランダや明・清(中国)に開かれていた港が長崎だった。禁教令によりキリスト教徒への弾圧が激しさを増す中、来航した唐人たちは仏教徒であることを示す意味もあって次々に寺院を創建。本堂に釈迦如来を祀ると同時に、航海の安全を祈願して「媽祖堂(まそどう)」を建てた。

【崇福寺】「大雄宝殿」と「第一峰門」は国宝

 崇福寺は福建省の福州出身の華僑が中心になって1629年に創建された。このため「福州寺」の別名を持つ。本尊釈迦如来(大雄)を祀る「大雄宝殿」は1646年の建設。下層部分が中国明朝の建築様式なのに対し、上層部の細部には和様も採り入れられている。「第一峰門」も中国で材料を加工したうえ唐船数隻で長崎に運び込んで1644年に創建、96年に改築された。軒下の組物は「四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)」と呼ばれる手法で、国内では類例がなく中国華南地方でも珍しいそうだ。別名「唐門」「赤門」。

 

 この2つの国宝のほかにも国指定の重要文化財や県指定の有形文化財などが多い。重文の三門(楼門)はまたの名が「竜宮門」。初期の三門は火災や風災で倒壊し、現在のものは約170年前の1849年に再建された。中国風の色彩の濃い建物だが、実際に建設に携わったのは棟梁をはじめ全員日本人だったという。境内の一角に巨大な大釜が鎮座していた。口径1.97m、深さ1.82m。17世紀後半の天和年間の飢饉のとき住民救済のために鋳造し施粥(せがゆ)の炊き出しを行った。柱には「寺宝」と書かれていた。

【興福寺】日本最古の黄檗宗の寺院

 山門の脇に「祝2020年 興福寺開創400周年 隠元禅師初登の寺」と大書した看板が掲げられていた。興福寺は来航した唐人が1620年頃、航海の安全を祈願して小庵を造ったのが始まりといわれ、四福寺の中では創建が最も早い。南京地方出身の唐人によって堂宇が次々に整備されたことから別名「南京寺」とも呼ばれる。丸窓が目を引く本堂の大雄宝殿と唐人屋敷から移築された旧唐人屋敷門は国指定重要文化財、媽祖堂や山門、鐘鼓楼なども県の有形文化財に指定されている。

 

 インゲンマメにその名を残す中国の高僧、隠元禅師(日本黄檗宗の祖)が日本に渡ってきたのは1654年。約20人の弟子を引き連れて渡来し、住職として興福寺に1年間滞在した。山門上部の扁額「初登宝地」は隠元の書。隠元はその後、崇福寺の第4代住職も務め、1658年には4代将軍徳川家綱に謁見、その2年後、京都・宇治に萬福寺を開創した。県有形文化財「三江会所門」内部に「唐人さんの寝棺」が横たわっていた。中国社会では生前に自分の棺桶を用意し自室に立てかけておくのが習わしで、興福寺ではかつて職人3~4人が寝棺造りに従事していたそうだ。興福寺の第2代住職黙子如定(もくすにょじょう)は観光名所になっている眼鏡橋の架設に尽くしたことでも知られる。


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