「長崎四福寺」のうち福済寺と聖福寺はJR長崎駅から程近い場所にある。原爆が炸裂した爆心地公園から見ると、福済寺は南南東に約2.5kmの距離、聖福寺はその福済寺から200mほど東側に位置する。福済寺は戦前、七堂伽藍を有する大寺院だった。だが1発の原爆により創建317年にして全て焼失、境内は瓦礫の丘と化した。一方、聖福寺は倒壊や焼失を免れ、今は本堂の大雄宝殿をはじめ4棟が国の重要文化財に指定されている。長崎市街を望む高台にある福済寺と、山の陰に隠れて原爆の影響が少なかった聖福寺。いわば〝お隣さん同士〟のような2つの由緒ある寺院はその立地でくっきり明暗を分けた。
【福済寺】国宝伽藍跡地に巨大な観音像
福済寺は江戸初期の1628年、中国の覚悔禅師によって創建された。境内には国宝建造物に指定された壮麗な堂宇が立ち並び、国宝級の絵画の大作などもあって、多くの内外の要人(グラント米大統領、シーボルト夫妻、勝海舟、坂本竜馬など)が集う国際色豊かな文化交流の場になっていたという。戦後まもなく大書院跡地に本堂兼庫裡が建造され、さらに1979年には大雄宝殿跡に「萬国霊廟長崎観音」が造営された。霊廟は原爆殉難者と戦没者の御霊を祀り慰霊するもの。殉国慰霊殿、原爆慰霊殿、戦地で収集された遺品を展示する遺霊殿などがあり、戦前の福済寺の遺物や写真なども展示している。
観音像は巨大な台座の亀の背に立つ。アルミ合金製で、身の丈は18m(地上からの高さは35m)、重量は35トンもある。霊廟の地下、観音像の真下に「フーコーの振り子」と呼ばれる地球自転観測装置があった。その名は地球が自転していることを振り子で実証したフランスの物理学者レオン・フーコー(1819~68)の名前に因む。長い振り子を長時間振らせていると、北半球では錘(おもり)がゆっくり時計の針の回る方向に回るそうだ。福済寺の振り子は上部が観音像の頭部に取り付けられている。吊り糸の長さは25.1m、錘の重さは32㎏。だけど、なぜお寺に? 説明書きには「この永遠に動き続ける地球とともに私たち人類も〝永遠に平和であること〟への願いを込めて設置された」とあった。本堂の前面には原爆が炸裂した午前11時2分に毎日打ち鳴らすという〝鎮魂の鐘〟もあった。
【聖福寺】大雄宝殿など4棟が国の重文
黄檗宗の祖、隠元禅師の孫弟子、鉄心道胖によって1677年に開創。長崎四福寺の中では最も創建が遅いが、長崎奉行の支援を受けていたこともあって先に創建された三福寺を監督する目付け寺の立場にあったという。こちらは原爆の影響が少なかったため江戸時代の堂宇が多く残る。国指定重要文化財になっているのは本尊として釈迦を祀る大雄宝殿のほかに山門と天王殿と鐘楼。大雄宝殿は黄檗様式の特色を持つ一方で、屋根瓦に武雄産の赤瓦を使うなど地方色も見られるとのこと。山門は堺の豪商京屋宗休による寄進によるもので、中央に掲げられた大きな額は隠元禅師が揮毫した。
境内の一角に「じゃがたらお春の碑」が立つ。バテレン追放により15歳のとき異国のバタビア(ジャカルタ)に送られたお春(日本人とイタリア人の混血女性)を哀れんで造られた。「じゃがたら」はジャカルタの古称。石碑に歌人吉井勇の歌が刻まれている。「長崎の鶯は鳴く今もなほ じゃがたら文のお春あはれと」。大雄宝殿の近くには写真家や画家にとって格好の題材になっているという「鬼塀」があった。明治初年に廃寺となった同寺末庵の瓦などを再利用して築造された。聖福寺は江戸時代末期、瀬戸内海で「海援隊」の坂本竜馬らが乗った船が紀州和歌山の藩船と衝突し沈没した「いろは丸事件」の賠償交渉の場になったことで知られる。さだまさしさん原作の小説で映画化された『解夏(げげ)』のロケ地にもなった。