く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<東海道の宿場町・関宿> 往時のにぎわい、町の佇まいのそこかしこに

2014年10月05日 | 旅・想い出写真館

【重文の地蔵院、旅籠、虫籠窓、漆喰細工、烈女小万……】

 東海道五十三次の宿場町の1つ「関宿」(三重県鈴鹿市)。国の重要伝統的建造物群保存地区で、日本の道百選にも選ばれている。この町並みをゆっくり歩きたいと思い立ち、4日初めて訪ねた。約1.8キロの街道筋に江戸~明治時代に建てられた町家約200軒が軒を連ねる。往時の面影が今もそこかしこに息づいていた。

 

 鈴鹿関(関宿)は美濃不破関、越前愛発関とともに古代三関といわれる。日本書紀には天武元年(672年)の「壬申の乱」の項に「鈴鹿関司(つかさ)」という記述が登場する。江戸時代には江戸から47番目の宿場町として参勤交代や伊勢参りの人たちでにぎわった。

 西追分の駐車場に車を止めて散策を開始。「どちらからですか。見るべきものがいろいろありますよ」と散歩中(?)の男性が声を掛けてくれた。街道は東に向かって緩やかに下る。町並みがすっきりしているのは電柱・電線が地中化されているのも一因だろう。程なく左手に関宿を代表する旅籠の1つ「会津屋」(下の写真㊧)。その前後にも伝統的な2階建ての町家が並ぶ。

 

 右手には本堂や鐘楼が国の重要文化財に指定されている地蔵院(上の写真㊨)。天平13年(741年)行基の開創と伝わる。「関宿旅籠玉屋歴史資料館」には旅籠で使われていた食器や食膳、旅人の持ち物などが並び、土蔵には歌川広重の浮世絵も展示されていた。「関まちなみ資料館」は江戸末期に建築された町家で、こちらでは町家で使われていた様々な道具類や関宿の歴史資料などを見ることができる。

 町家の造りで特徴的なのは2階正面の漆喰で塗りこめた虫籠窓(むしこまど)。中でも玉屋歴史資料館のものは目を引いた(下の写真上段㊧)。屋号にちなんで宝珠の玉から火焔が上がるさまをかたどっているという。屋根の鶴や亀、虎、鯉の滝登りなどの漆喰細工も味わい深い。瓦屋根の付いた「庵(いおり)看板」もあった。店先を風雨から守るため庇(ひさし)の下に取り付けられた「幕板(まくいた)」や、「ばったり」と呼ばれる上げ下げできる店の前の棚などにも町家の創意工夫が見られた。庇には最下段の右の写真のようなものもぶら下がっていた。これは一体何だろうか?

 

 

 

 街道沿いには7月の祇園祭りの華、山車(やま)が眠る「山車倉」もあった。現存するのは4台だけだが、最盛期には16台もあったそうだ。このことからも往時の関宿の繁栄ぶりがうかがわれる。狭い街道を絢爛豪華な山車が次々に町家の屋根ぎりぎりに曳かれていく。そのさまはまさに壮観だったに違いない。「関の山」という言葉はここから生まれた。

 織田信長の三男信孝の菩提寺として開かれたという福蔵寺には、父の仇討ちで知られる「関の小万」の墓と大きな顕彰碑が立っていた(下の写真㊧)。旅籠山田屋(現・会津屋)の養女になっていた小万は母の遺志を継いで仇を討つため亀山藩の道場で剣術の腕を磨き、1783年に本懐を遂げたという。小万は1803年、36歳で亡くなった。ということは仇を討ったときはまだ16歳前後という若さだったことになる。小万は鈴鹿馬子唄に「関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足」とうたわれている。

 

 街道西寄りの誓正寺には「筆子塚」という高さが2mを超える石燈籠が立っていた(写真㊨)。そばの説明板によると、寺子屋で住職から教育を受けた門下生たちが慶応4年(1868年)に建立したという。説明文は住職の経歴をたどった後、こう結んでいた。「幼いときの学恩を忘れず慕いつづけ筆子塚を建立した教え子たちとお酒が大好きな先生との間の人間味にあふれた深い絆は、今日の社会でも求められている大切なことではないでしょうか」。

 多くの町家には11月2日(日曜)に開く「街道まつり」のポスターが貼られていた。今年で29回目。大名行列や花魁(おいらん)道中、鈴鹿馬子唄の披露など多彩なイベントが繰り広げられる。雨天決行。訪ねた日は穏やかな天候の土曜日にもかかわらず比較的閑散としていたが、このまつり当日は紅葉の季節と相俟って多くの観光客でにぎわうことだろう。


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