く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市教委・史料保存館> 企画展示「日新記聞が伝える明治の奈良町」

2023年11月28日 | 考古・歴史

【明治初期に発行された奈良県初の新聞】

 奈良市教育委員会の「史料保存館」(奈良市脇戸町)で、企画展示「日新記聞が伝える明治の奈良町」が開かれている。日新記聞は1872年(明治5年)3月から73年(同6年)11月まで発行された小冊子で、奈良県下初の新聞といわれる。発行期間は2年弱と短いものの、記事内容から“文明開化”に邁進する当時の様子が空気感とともに伝わってきた。

 発行元は金沢昇平(1827~93)らが設立した「日新報社」(後に「日新社」に改名)。記聞は縦22cm、横15cmの木版刷りで、発行は月3回だった。ページ数は概ね16ページ。第1号では役人が皆散髪して刀を持たず、洋服で靴のまま出入りしているなど、新しい奈良県庁内の様子を描写している。県は明治政府の「散髪脱刀令」を受け1872年秋、髪を剃らず帽子を被るよう布達「措髪戴帽の奨励」を出した。12号には洋髪散髪店の広告も掲載されている。

 ただ当時は相変わらず「月代(さかやき)」(半髪剃頭、ちょんまげ)をする人も多かった。そんな中、角振町の町民36人が県の説諭に応じて「半髪剃頭は一切いたしません」と連署した「半髪剃頭連印帳」(1873年8月)を作成した。参考文献として、その連印帳(角振町自治会の寄託史料)も展示している。

 記聞には▽人力車の出現でそれを職業にする者が増え、子どもたちも猿沢池を一周するのを楽しみにしている▽奈良県が若草山に牧場を開き乳牛を飼い始めた▽牛乳は子どもの内臓の弱りを補い、大人は肌が潤い、血液は増え、疲れや冷えなどの症状も治す▽近年肉食が盛んになって肉店の開店が相次いでいる――といった記事も見える。

 第9号には東大寺・正倉院宝物の図を掲載。正倉院では文部省が1872年8月に行った文化財調査(壬申の検査)の一環として、明治になって初の開封・調査が実施された。掲載の図はその時に行われた宝物の模写を元にしているとみられる。この時の調査が、1875年の第一次奈良博覧会での正倉院宝物約220点の出品につながった。第12号には政府の「神仏分離令」に伴う興福寺の廃寺に関する記事を掲載している。

 史料館では同時にならまち歳時記「春日若宮おん祭」の特別陳列と、館蔵史料「奈良暦」の特別公開も開催中。会期はいずれも12月17日まで。

 おん祭は1136年(保延2年)に天下泰平、五穀豊穣を祈って始まった大和最大の祭礼。今年12月で888回目を迎える。主な展示史料は江戸時代の「春日大宮若宮御祭礼図」「春日社若宮祭図解」「大和名所図会」など。御祭礼図は1730年(享保15年)の発行以降繰り返し再版されてきた。大宿所祭の図には巫女による湯立て(写真中央)やキジ・ウサギなど“懸け鳥”と呼ばれる供え物(右上)などが詳細に描かれている。

 「奈良暦」のコーナーには江戸時代後半に作成された綴暦(とじごよみ)が並ぶ。江戸時代、暦の作成は江戸・伊勢・三島・奈良・金沢・京都の6カ所に限られた。奈良では幕府の天文方で作成した暦の写本暦が奈良奉行所を通じて下げ渡され、それを元に版を作成し発行許可を得て10~11月に印刷した。販売・配布の権利を持つのは陰陽師(おんみょうじ)で、奈良陰陽町には江戸中期、陰陽師が十数軒あったそうだ。

 展示中の1868年(慶応4年)の暦には1月3~4日の上の余白部分に、鳥羽伏見の戦いについてこんな書き込みがあった。「伏見ニ会津薩州会大砲打合同所火」「上様京橋ヨリ舟候」。この戦いと将軍徳川慶喜の脱出劇は庶民にとっても衝撃的なニュースだったに違いない。1854年(嘉永7年)の暦には11月初め大地震があり、大阪では津波で多くの人が亡くなったと記されている。明治時代に入ると、暦類の出版が自由になったことから暦入り引き札(広告のチラシ)が盛んに発行されるようになった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <飛鳥宮跡> 舒明天皇の「... | トップ | <東大阪市民美術センター>... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿