く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<京都御所> 六曲一双の屏風「龍虎」公開中

2022年01月08日 | メモ

【歴史上の舞台の数々、久しぶりに参観】

 京都御所を久しぶりに訪ねた。多分十数年ぶり。西側の清所門で体温測定と手の消毒、持ち物検査をすませ、「283」という番号が書かれた入門証を首に掛けて御所の内側へ。順路に従ってしばらく進むと、右手に六曲一双の屏風「墨画龍虎」が展示されていた。右隻には渦巻く雲間から姿を現した龍の姿、左隻には竹林で警戒する2頭の虎が金地に描かれている。作者は江戸時代中期の狩野派の絵師鶴澤探鯨(1687~1769)。新年の干支寅(とら)に因んだ展示だが、左右の屏風の同時公開は今回が初めてという。展示は1月5~10日の期間限定とのこと。

 この後、宮内庁の職員の案内で御車寄→諸大夫の間→新御車寄→紫宸殿→清涼殿→小御所→御学問所→御常御殿と、主な建物を反時計回りに一周した。諸大夫の間(写真㊦)は参内した公家や大名たちの控えの間。襖の絵に因んで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる。最も格式が高いのは正殿の紫宸殿に近い右奥の「虎の間」。各部屋で畳縁の色が異なり、入り方にも身分の違いが反映されていた。虎と鶴の間を使う者は正式な玄関の御車寄からの出入りが許されたが、桜の間を使う者は建物左手の沓脱石(くつぬぎいし)から出入りしたという。

 新御車寄は諸大夫の間の南側に位置し、南向きに建てられている。大正天皇の即位の礼に際し、馬車による行幸に対応するため新設された。紫宸殿(写真㊦)は高床式の入母屋造りで、現在の建物は1855年(安政2年)の造営。明治・大正・昭和天皇の即位の礼はここで執り行われた。屋根は桧皮葺きで、上部の切妻部分と下部の寄棟部分に段差があるのが特徴。殿内には天皇の御座「高御座(たかみくら)」と皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」がある。東京の皇居で行われた平成の即位の礼の際には分解してヘリコプターで運ばれ、今上天皇の即位の礼に際しては陸上輸送されたそうだ。

 清涼殿は10世紀頃から天皇の日常のお住まいとして使われていたが、大正時代にお住まいが御常御殿に移ってからは儀式や執務の場として使われた。小御所は将軍や大名との対面などに使われ、明治維新の際には将軍の処遇を定めた「小御所会議」の場となった。御学問所は1867年(慶応3年)に明治天皇が「王政復古の大号令」を発せられたことで有名。御常御殿(写真㊦)は15室から成り御所内の建物としては最大。公開中の墨画屏風は明治天皇のお気に入りで、御常御殿の寝室「御寝の間」に飾られていたという。

 小御所と御学問所の間は「蹴鞠の庭」と名付けられており、その東側には緑豊かな池泉回遊式の庭園「御池庭」が広がる。戦国武将の前田玄以が作庭し、後に小堀遠州が改修したという。池の右手に緩やかにカーブを描いた「欅橋」が架かる。案内役の宮内庁職員が「その橋の上からエリザベス女王がコイに餌をあげていました」と教えてくれた。ずっと昔、来日した英国のエリザベス女王の車列を京都の沿道で目にしたことがあった。御池通り、あるいは烏丸通りだったか。車列は京都御所に向かわれていたのだろう。調べてみると1975年5月10日のことだった。ということはあれからもう半世紀近い。光陰矢のごとしを改めて実感する御所巡りとなった。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <薬師寺> 新年を前に仏像... | トップ | <京都国立博物館> 新春特... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿