く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<鉄工芸家・中原弘さん> 個展「河童が語る 壇ノ浦の戦い」

2012年07月31日 | ひと模様

【鉄の廃材がカッパとして蘇る。20年余で1000体以上制作】

 日本各地に伝わるカッパ伝説。多くの民話が各地に残り、熱心なカッパコレクターも多い。北九州市戸畑区在住の鉄工芸家・中原弘さん(1932年生まれ)もカッパに魅せられた一人。廃材の鉄板を使い、カッパを作り続けて20年余り。これまでに息を吹き込んだカッパは1000体以上に上る。いま戸畑区天神の「ギャラリーt.h.m」で開かれている個展「河童が語る 壇ノ浦の戦い」(8月4日まで)は2年がかりで取り組んだ力作という。

  中原さんが再現したのは、幼い安徳天皇を抱いた祖母二位尼や母、建礼門院徳子らが乗った船を、源氏が追い詰める源平合戦最後の場面。二位尼は入水の際、安徳天皇に「波の下にも極楽浄土という都があります。そこにお連れ致しします」と声をかける。中原さんはかねて、その言葉が気に入っていたこともあって、最初その場面(下の写真㊧)から作り始めたという。槍や刀を持った源氏の武将たち(同㊨)も全て手作り。そのため1体1体、表情も動きも鎧(よろい)の形なども異なる。それぞれのカッパの生き生きとした表情が印象的だが、武将が乗る船の成形には少しばかり苦労したそうだ。

 

【珍しい鉄製のカッパ、コレクター垂涎の的】

 中原さんは長年、若松区の造船所で船舶修理に携わり、造船不況で廃業になる際に「退職金代わり」に鉄板の切れ端を大量に頂いたという。その鉄板を使って溶接などの加工技術を生かし、1991年ごろからカッパ作りを始めた。陶器やガラス製のカッパの人形や置物は多いが、鉄製のカッパは珍しいため当初から注目を集めた。北九州芸術祭彫刻展で協会賞や奨励賞などを度々受賞、2006年の「ネオ・ジャポニズム・イン・タヒチ」ではタヒチ大統領賞を受賞している。

 中原さんが作る河童はいずれも黒光りして、なかなか味わい深い。成形後、錆びるまで半年ぐらい待って、その後70~80度に熱したうえで廃油のエンジンオイルを塗って黒く変色させる。知人らからは「着色したら」「型で作ったら大量に生産できる」などといった声もあるそうだが、中原さんは1体1体手作りの今のやり方にこだわっている。珍しいだけに遠方から個展会場や戸畑の作業場を訪ねてくるカッパコレクターも多いそうだ。

【戸畑提灯山笠を担ぐカッパや若松の五平太船のカッパたちも】

 

  中原さんはカッパの制作に当たって、「河童のミイラ」を祀る佐賀・伊万里の酒蔵をはじめ、カッパ伝説が残る各地を訪ね歩いた。中原さんが長く勤めた若松区にも古くからカッパ伝説がある。小説「河童」といえば芥川龍之介だが、若松出身の芥川賞作家、火野葦平(1907~60年)もこよなくカッパを愛した。カッパ収集家として知られ、「河童曼荼羅」をはじめカッパにちなむ作品も多い。葦平が晩年を過ごした若松の旧居「河伯洞(かはくどう)」の一室には中原さんのカッパ作品の数々も並ぶ。ちなみに「河伯」はカッパのこと。中原さんは地元の戸畑祇園大山笠(上の写真㊧)や小倉祇園太鼓、筑豊の石炭を運んだ若松の五平太船(同㊨)などを題材にしたカッパの作品も作っている。

 「子どもの頃、戸畑の蓮根畑で泳いでいて、池の持ち主からカッパの怖い話を聞かされたことが忘れられない」「そのカッパを一目見ようとハス池のそばで半日身を潜めていたことも」――。中原さんは懐かしそうに、また愉快そうに、カッパにまつわる思い出話を聞かせてくれた。そんな中原さんだから、バーナーやペンチなどを使ってカッパ作りを始めると、時間を忘れて没頭するそうだ。次はどんなカッパの物語を作ってくれるのだろうか。


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