【延長35mの掘立柱塀の柱穴列、現地説明会を開催】
飛鳥時代の宮殿遺跡「飛鳥宮跡」(国史跡)の発掘調査で、舒明天皇の飛鳥岡本宮の遺構とみられる掘立柱塀の柱穴列が見つかった。飛鳥宮跡には天皇の代替わりのたびに宮殿が造営された。ただ初期の遺構は下層に埋もれているため検出例はこれまで極めて断片的で、今回のようにまとまった形で区画施設が出土したのは初めて。奈良県立橿原考古学研究所が11月25~26日、現地説明会を開いた。
飛鳥宮跡の宮殿遺構は大きくⅠ~Ⅲ期の3つの時期に分けられる。Ⅰ期の遺構は舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)。Ⅲ期遺構は前半のA期と後半のB期に分けられ、A期が斉明天皇・天智天皇の後飛鳥岡本宮、B期が天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)と考えられている。
今回の発掘調査(飛鳥京跡第190次調査)の対象地域はⅢ期遺構の内郭(天皇の住まいなど宮殿中枢部)の西北部に当たる。Ⅰ期とみられる掘立柱塀の柱穴列はその長方形の調査区を北東から南西へ斜めに横断する形で見つかった。総延長は約35mで、柱間の長さは約2.7m。その場所には見学者にも分かりやすいように白いポールが立てられていた。
飛鳥岡本宮については日本書紀に636年火災に遭ったとの記述が見られる。今回の発掘ではそれを裏付けるように、柱の痕跡や抜き取り穴に赤褐色の焼土や炭化物が多く混じっていた。これまでに周辺で確認されたⅠ期遺構とも共通することから、この柱穴列もⅠ期、つまり岡本宮の遺構と考えられる。
飛鳥宮後半のⅢ期とみられる掘立柱の建物や石組み溝などの遺構も検出した。建物は2棟の跡が確認されている。いずれも東西棟で、両端の柱の桁行(けたゆき)と梁行(はりゆき)はそれぞれ約19m×約5.4m、約12m以上×約5.4m。建物の北側からは東西方向の幅約0.5mの石組み溝も出土した。
これとは別に東側で南北方向の石組み溝も見つかった。この遺構は東西の溝より早いⅡ期の遺構とみられる。幅は約0.6mで、底石には径10cmほどの小礫、側石には人頭大の石が使われている。今回の発掘調査で、飛鳥時代の宮殿の構造や変遷がまた一つ明らかになった。