経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

生存戦略としての結婚と育児の価値

2018年01月07日 | 社会保障
 「嫁して3年、子なきは去る」は過酷だろうか。現代なら、もちろんそうだ。しかし、社会保障のない時代には、子供を持ってイエを守るだけが生きる術だったのであり、医学的にどちらに原因があるか調べられない以上、相手を変えてみるしか方法はなかった。そういう文脈で人の行動を理解しなければならない。では、現代ニッポンの「良い人がいなければ、結婚しない」という生存戦略は正しい道なのか。それは、社会保障によって、他人の子供に面倒をみてもらえる時代が続くことを前提にしている。

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 『逃げ恥に見る結婚の経済学』是枝俊悟・白河桃子著は、タイトルからはキワモノに見えるが、多くの示唆に富む、とても面白い本だ。結果的に「人はなぜ結婚するのか」という本質に迫っているように思える。「愛や家族の価値は不変」と信じたくなるが、歴史が示す事実は変転だ。前時代の間違った価値観と切り捨てるのではなく、どうして、そんな行動をしていたのかの理由を深く考える必要がある。それは、現在を照射してくれるからだ。

 『逃げ恥』のおもしろさは、是枝さんが徹底して経済的観点から結婚を解剖し、白河さんが女性視点で解釈しているところにある。「結婚は生存政略」というのが結論だが、新しいようでいて、筆者には、戦前と似た古い考えに思えてしまう。いわば、貧しかった時代の結婚への回帰である。恋愛は、はしたなく、生活できることを第一に考え、嫁ぎ先を親が決める。違うのは、未熟な若い本人が自分で探し求めねばならない点だ。戦後の豊かで平等な社会は、自由な恋愛と結婚という権利を裏打ちした。今は、そうでなくなったということだろう。

 仕事と子育ての両立は、戦前は当たり前だったと言いうと、意外に思われるかもしれない。それどころか、家事や子育ての「楽」な仕事は、老人や年嵩の子供の役目であり、農家の嫁は、「上司」となる姑の厳しい差配の下、山の畑に肥桶を担ぎ上げるといった、きつい野良仕事をこなさなければならなかった。高度成長は、農家に「就職」し、姑へ「出世」する以外の生き方を用意した。サラリーマンの妻となった女性の多くは、喜んで「仕事」で成功する道を捨て、村には、相手なき農家の長男が取り残されたのである。

 今の時代の重苦しさは、若年層の雇用環境の悪化で、専業主婦の座を用意できるサラリーマンが減り、仕事と子育ての両立が半ば「強要」されだしたことにある。昔に比べれは、どちらも「楽」にはなったものの、同時にこなすのは、中途半端にきつい。さもなくば、シングルで過ごすのか。しかし、老後は誰がみる。白河さんは、「ハズレの男性と結婚しない自由がある」と説くが、やせ細った団塊ジュニアの子世代が、苦労して育ててくれた自分の親以外の高齢者も平等に面倒をみてくれるだろうか。そんな「生存戦略」の成否が明らかになる頃、この世に筆者はいないけれど、寛容であってほしいと願わずにはいられない。

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 是枝さんは、専業主婦の家事労働について、『逃げ恥』の主人公のみくりと平匡を例に取って試算しており、対価として見合う19.4万円を払うには、夫の年収は600万円弱(税・社保込み)が必要という。そして、夫の年収が300万円に下がると、払える対価10.4万円に減り、時給換算では743円と最低賃金並みに落ちるとする。男性の年収が300万円未満になると、結婚の確率が大きく下がることと照応していて興味深い。結婚する際に、数字を弾いたりはしないだろうに、マクロ的には経済的な理にかなう結婚の選択を自然にしているわけだ。

 また、是枝さんは、子供が生まれて、育児が家事労働に加わると、対価は31.9万円に膨らみ、夫の年収は1062万円が必要になると計算している。その上で、夫が家事・育児の約1/3、週22~25時間を担うなら、その分、対価は少なくて済み、年収300~400万円のボリュームゾーンの人達でも釣り合いが取れるという。今は、週休二日制の時代だから、そのくらいは男もすべしと、古い筆者でも思う。もっとも、昔は、家の手伝いをし、弟妹の面倒をみるのが当たり前で、家事や育児をまったく苦にしないせいかもしれない。

 是枝さんの試算を読む際に、一つ注意がいるのは、対価が膨らむのは、未就学児がいる時期のことで、長い結婚生活の中の一部ということだ。その頃の妻の家事労働が「ブラック」であったとしても、子供の手がかからなくなってから、取り戻すこともできる。着目すべきは、負担が一時期に集中し、それを乗り越えるのは、夫婦ともに大変な苦労があるということである。それは、少子化に悩む日本にとって、政策的に解決しなければならない決定的なポイントにもなっている。

 そして、是枝さんは、「専業主婦の育児の対価は0円なのか?」と鋭く指摘する。その趣旨は、配偶者控除と3号被保険者免除は子供の有無とは関係がなく、児童手当は保育所利用とは無差別であるのに加え、育児休業給付金は継続雇用でなければもらえず、共働きなら0~2歳児の保育に月9~17万円もの財政負担があるのに対し、専業主婦が自宅で子供をみていると「タダ」になるということである。つまり、制度は、女性の就労には価値を認めても、育児をするだけでは、当然のごとく価値を認めず、社会的に報いていないのだ。

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 日本が少子化であるのは、育児そのものには報いないから。これ以上、分かりやすい理由があるだろうか。例えば、育児休業給付金を、継続雇用の女性だけでなく、出産を機に退職せざるを得ない非正規の女性まで広く支給するには、約6900億円の財源が必要とされる。多額ではあるが、多くの共働きの女性が恩恵を受ける幼児教育無償化よりは少ない。財源だけの話なら、どちらでも選べるはずだ。なぜ、前者は選ばれないのか、就労がプラスされないと、価値を認めがたくなるからだろう。

 白河さんの「生存戦略」を用いる際に危いのは、女性でさえ、育児の価値を低く見定めるおそれがあることだ。賦課方式の社会保険では、数理上、子供のない人には、2倍の保険料を払ってもらい、支え手の子供の代わりにお金を積んでおかないと、ペイしない。むろん、制度をそうすべきだと言っているのではなく、そのお金を誰が背負うかで、将来、必ず議論になる。こんなリスクまで見通して適正な判断するのは極めて難しい。ミクロ的には、「状況に適応せよ」としか言いようがないとは思うが、「愛情搾取を掲げつつ、家事分担を夫と話し合う」だけでは、とても突破できない制度の囲みが存在する。

 家事の押し付け合いをして、上手く行かずに恨みの「デスノート」を書いてしまうのは、正規と非正規の「壁」があり、労働時間の調節が困難で、いったん非正規に落ちたらキャリアは終わりという現実に追い込まれるからである。会社だって、社会保険の適用の「壁」がある以上、正規と非正規を分けざるを得ない。そして、正規なら熾烈な保育所争い、非正規なら報われない育児が待っている。これは、押し付けに嫌気を差すフラリーマンのせいなのか。女性も、もう少し政治経済に目を向け、そもそも、専業主婦という選択の自由を奪ったのは誰なのかを考えてみてはどうか。

 制度をどう直せば良いかは、『財源なしで大規模な乳幼児給付を行う方法』(10/22)で記しており、負担論については解決済だ。ポイントは、0,1歳児を抱える女性に広く所得保障を行い、加えて、低所得時の社会保険料を軽減して「壁」を取り払い、育児と労働の時間配分を柔軟に変えられるようにすることである。こうして、乳幼児期の短期的な難所を取り除いてやらないと、老後までの長期的観点からは危い選択である「結婚しない自由」を安易にしてしまう。「逃げるは恥だが、役に立つ」どころか、ツケを後に送るだけになる。「小賢しさ」の「呪い」を自分でかけさせてはいけない。

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 今の日本で本当に難しいのは、育児の価値を知ることだ。「生き抜く」ことと、子供を持つことは、現実には、ほぼ同義だ。それが見えていたから、昔のイエの時代の人々は必死だった。今も人生と社会を支えるのは子供という本質は変わらないのに、社会保障のベールに包まれて、分からなくなっている。だから、制度は、育児起点の発想にはなっていないし、企業は、人材の再生産を収奪してでも収益を上げようとする。「育児は大切」と、誰でも口にはできる。しかし、将来のための財政再建とか、成長のための両立支援とかより、優先すべきと思っているだろうか。結婚も、子供を持つことも、素直な気持ちのままに選べる、そんな自由な社会にしたいものだ。 みくりと平匡の話し合いが楽に済むような。


(今日までの日経)
 国内不動産に海外マネー。アジア経済 進む中国化。平成元年からの視線・少子化の先 見据え。米韓、軍事演習を延期。頭脳は場所を選ばない。米中ITの二都物語。女子刑務所 収容改善へ 急増は高齢女性の窃盗再犯。人口減でも増える労働力 18年最多へ、女性けん引。
コメント (3)
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