色々とあります。それでも「やるべきこと」を見極めながら進みたいと思います。
全国的に「新型コロナ」の感染が広がっています。どこを基準に「生活をするのか」という部分です。関東や関西では「集団感染」が広がる。感染経路が分からない状況で対応策も困るという雰囲気。片や地方ではそこまで深刻さを感じていない部分がある。危険だとは思います。
3月末から「施設開放」が実施されました。このことに関しては「都市部」からは考えられないかもしれません。4月1日からは「部活動再開」です。もちろん様々な条件が付けられています。この「休業期間中」にどのような感じで過ごしたのかによって「状況」は大きく異なると思います。うちは比較的自分たちで練習を積んでいるのでスムーズに移行しているかもしれないですね。
とはいえ「施設開放」になったからといって「部活動」ではない。これは3月中は徹底したいなと思っていました。学校で身体が動かせる。そのことに対してどう受け取るか。「部活ができる」という感覚ではありません。「休業期間」と同じように「自分たちで考えて練習をする」というスタンスは変えないようにしていました。開放が「金曜日」からだったので金曜日土曜日はある程度開放して日曜日は「休み」に。そこまで詰めてやる必要用はないなと。
この休業期間。モチベーションが維持できない状況の中でどれだけ身体を動かすことができたでしょうか。それも分からない部分です。見えてはいません。繰り返しになりますが都市部と地方ではずいぶん違います。島根や鳥取は感染者が一人も出ていないので通常通りの生活をしていると思います。「危機感」というものは持っていないかもしれません。見えない部分があるので。身近に感じなければ人の行動は変わらないのかもしれません。
同時期に県外で陸上競技教室が開かれたことが取り上げられていました。指導された方が「新型コロナ」の「陽性」と判定されたと。90人以上が濃厚接触者という報道がされていました。こうなると「外での活動も自粛するべき」という話になるかもしれません。この参加者に「中国地方」の選手がいればひょっとしたらそれぞれの県で「活動自粛」になるかもしれません。もちろん、開催された県ではしばらく活動はできないでしょう。自分たちのことに置き換えながら冷静に見ていきたいと思います。
「陸上競技が全てではない」とは思っています。だからといってこれまで一生懸命に練習をしてきた選手たちが「自分の力を出す」場所がないというのは忍びない。「試合どころではない」というのは当然あります。それぞれの価値観の中でどう生きていくか。
ニュースでは「自分にはあまり関係ない」と発言する若者も。もちろん「切り取り」ですから全ての若者が同じような考え方ではないと思います。しかし、「自分が感染する」だけではなく「他者に感染させる」リスクも存在ます。そのときに「責任」はとれない。
志村けんさんが亡くなられました。面会もできず、火葬場へ付き添うこともできず。「お別れ」ができない。これは親族にとってはつらいことだと思います。インフルエンザで亡くなる方もいる。しかし、新型コロナは「別れ」さえもできない状況になる。
そう考えると「身体を動かす」ことができるというのはある意味「幸せなこと」なのだと思います。「不要不急」といわれます。スポーツ自体は「不要」だとは思いません。先日テレビで「吹奏楽団」の方がコンサートができなくなったと言われていました。その状況になって「自分の仕事は不要なのか」と思い悩んだと。それでも「できることをする」と考えてネットで全員が集まってコンサートをすることにしたと。何ができるかを考えていくしかない。
「スポーツ」も「文化的活動」も「なくてもいい」といわれるかもしれません。本当に不要なのか。それは違うと思っています。「何が何でもやらなければいけない」ものでもありません。それぞれがどのように捉えてやっていくか。そこが大事なのかなと。
多くの方が亡くなられています。対岸の火事ではない。そのことを常に頭に入れておきたいと思います。「部活動をやる」「kanekoが抜け駆けして部活をしている」という話になっていたのかもしれません。やっていません。「自主的活動」です。本人たちがやりたくないと思えばやらなければいい。やるというのであればサポートするという形でした。「何が違うのか」といわれるかもしれませんが。明確に違うと思います。
部活動が再開になりました。しかし、こちらも様子を見ながら実施したいと思います。先が見えない。それだけは確かです。この時期、自分たちの中で「陸上競技」を通じて何を感じられるか。単純に「速くなること」だけではないのかもしれません。
考えながらやっていきたいと思います。また書きます。