前回、「バルテュスの絵についてはまた書きますね」
とか気軽に書いてしまいましたが、はたしてわたくしなんざがどう思おうとだれが興味があるのか、いや、ない、ときっぱり言い切れる感じですね・・・。
でも考えをまとめるために、ちょっと書いてみます。
(展覧会を見に行って、まず「何を買ったか」とか「奥さんの書いた本」とか・・・逃げていたのは、バルテュスについて自分の中でまとまってなかったからでもあります・・・)
彼の作品については賛否両論あります。
シャトー・ムートン・ロートシルト(Ch.Mouton Roth Schild) というワインがあるのですが、これはかの大富豪ロス・チャイルド家のワインセラーが作っていて、毎年有名な画家がラベルを彩ります。
この1993年のラベルがバルテュスの描いたニンフのデッサンでした。

しかしこのデッサンに問題ありと、アメリカのATFが使用拒否し、アメリカだけ上のバルテュスのデッサン部分を白紙にしたラベルで売りました。
(そのために、コレクターはこの両方を手に入れようと必死だったらしいです)
両方のボトルを見る機会がありましたが、上半分が白紙になっているボトルはなんとも間が抜けていました。
(しかし『ATFが使用拒否』に反応してしまった。
ATFって例の Alcohol Tabacco and Firearms and Explosive Bureau とかいう、何やってるかわからないアメリカの機関でしょ?
ジャック・バウワーが勤めてた(
それはCTU!)
調べてみると、「アルコール関連の問題から社会を守る」という仕事もあるらしい。
でもな~、ワインのラベルに物言いをつけるとは・・・
なにかバックに暗い中でうごめく力を感じてしまう!)
さて、とある日、私の尊敬する絵のおっしょさん、Aさんが
「彼の絵の油絵具の量はちょうどピッタリの量だ。
厚すぎもせず、薄すぎもせず、ちょうど必要な量が使われている。
それはすごいこと。
天才だと思う。」
といいました。
素直な私は、「へえ~~、そうなんだ~~」と感心し、では見に行こうと心に決めますが・・・
またとある日、某所で絵を描く仲間と話していた時の会話
Bさん:「まあ、バルテュスって、ただのエロ爺だよね」
jester:「え!!!」
Cさん:「ほんと、単なるエロ親父だよ」
jester:「・・・で、でも、ピカソが「今世紀最後の巨匠」って!!」
Cさん:「だってピカソだって大したことないじゃん。何世紀かしたらピカソなんて忘れられてるぜ」
(註:AさんとBさんは芸大の油絵科卒。Cさんは某美大の油絵科卒です)
とまあ、東方の片隅の小島の中ですらかくいうほどに、バルテュスの評価は今でも分かれております。
(その後会話は、山口晃→松井冬子→会田誠→人間の認識→ヒックス粒子→絶対零度→光速・・・・とどんどん逸れていったのでした。)
昨日の日曜美術館でも
「賞賛と、それと同等の誤解に満ちた20世紀最後の巨匠」などと紹介され、
「少女に対するフェティシズムをしたキワモノ」だの、いや「移ろいゆく美の一瞬の輝きをとらえている」だの侃侃諤諤言われてました。
途中、美術評論家のジャン・クレール氏は
「彼は一般的に有名になるには洗練され過ぎ、繊細過ぎたのです」と話してました。
彼が『ロリータ・コンプレックス』であるといわれたのは、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』の初版本の表紙に彼の絵が使われたからで、それゆえに誤解されてしまった、「濡れ衣」だった、とか井浦新さんとアナウンサーがあうあうと説明なさってました。
46歳で義理の姪、フレデリック15歳と暮らし始める。
(フレデリックはお兄さんの結婚相手のつれ子であり、血のつながりはない。
血のつながりはないのだが、なんとなく行き場のない少女だったイメージ。)
そうそう、ここでも
アナウンサー「31歳の年の差」
井浦「・・・31歳!・・・あふう~~~ん・・・」
(←・・・「うらやましいですなあ」、って井浦氏の心の中のコメントが聞こえたような気がする・・・・(殴)
アナウンサー:「このフレデリックはバルテュスのお兄さんの結婚相手のつれ子ということで血のつながりはなかったのですが、義理の姪にあたるんですよね。この辺りがバルテュスをモラリストたちが攻撃する格好の材料になっていたと思われます」
井浦:「それは間違いなく攻撃されますよね!そこは!」(鼻息荒く)
・・・などという会話があってちょっと笑えました。
では、わたくしはバルテュスをどう思うのか。
1953年から1961年にかけてのシャシーのアトリエで描かれたガゼインとテンペラを塗り重ねてフレスコ画のように描かれている風景画

やフレデリックの絵

などはかなり好きです。
デッサンにも好きなのが何枚かあります。

また、猫好きな観点から見ると、愛猫家だったバルテュスのテーマとしての猫の絵が目を引きます。

かわいいだけじゃなくて、猫の残酷さ、怖さ、口の臭さ(?)も描いている。

近所の海鮮料理のレストランに頼まれて描いた看板も、ユニークです。
しかし、それ以外の初期のもの

例えばパリのピエール画廊での初個展で出した「ギターのレッスン」と名付けられたこの絵は、カーテンがかかっていて、見せる客が来たときだけカーテンを開けて見せたという。
これほどではないとしても、少女が足を立てて、スカートの中をのぞかせている、という構成の絵は何回も描かれています。
それをもじった写真もたくさん出ています。

写真にすると、この構成の意図がはっきりわかります。(ネットにはバルテュスで検索すると、こういう写真がたくさん出てきます)
幼い頃、夕方歩いていて、こわいおじさんに追いかけられた。笑ってどこまでも追いかけてくる大人の男の恐怖。
小学校の帰り道、困ったふりをして少女を呼びつけ、局所を見せつける変態。
このような恐怖に、日常的に少女たちは曝されています。
自分が性の対象として見られているなどとは知らない無防備な幼きか弱き者が、暴力にさらされることも良くあります。
そういう犯罪への強い嫌悪感があるため、
『少女の中に潜む無邪気で無防備な美、大人の女性に変化する前の一瞬の美』
を生涯のテーマにした、といわれても私には引っかかるものがあります。
芸術には隠された毒を晒して、昇華させる作用もあるとは思います。
なので、ただ単に、バルテュスの中にあるものが、私のそれとは呼応しないということかもしれません。
(未成熟な女性を性の対象にするといったら、ミニスカートをはいた10代の女の子にいい年をした男が群がる現象も日本ではよく見られます。
それだって、その人が良かったらそれでいいことで、私がどうこういうことじゃなと思います。
ただ、私はそういうことに共感しないというだけ。)
また、シャシー以後(節子さんと出会ってから)の

節子さんをモデルにしたものの浮世絵風連作も、また、違和感を持ってしまいます。
エロティックな絵でも、エゴン・シーレやクリムトの描いているものには共感を持てるのに、バルテュスのものはどうしても作品を味わうまで行き着きません。
エゴン・シーレで感じる、ドライで突き放したような視線ではなく、絡み付いてくるような少女の無抵抗さへの欲求の押し付けを感じてしまう。
節子さんと結婚してローマから移ってスイスに住んだあとは、90歳を過ぎても描き続けていますが、近所の少女アンナ・ワーリーをアトリエにいれて、いろいろなポーズを付けさせ絵を描き、デッサンの体力がないからとポラロイドカメラで撮ったりしています。
このポラロイドカメラの画像も、私的には、かなり、気持ち悪い、です。
(この写真展はで6月7日より三菱一号館美術館でやるそうです)
バルテュスはアンナ・ワーリーの絵を描いているアトリエには、節子さんを絶対入れなかったそうです。
節子さんはどんな思いだったのでしょう?
・・・・とまあ、芸術論というより、とても低レベルな展開になってしまい、お恥ずかしいのですが、今、正直この辺です。すみませぬ。
きっとバルテュス展にまた行きます。
人間の認識はどんどん変わるものです。
また新しい見方ができるようになったら、報告しますね。
以前に書いたバルテュスの記事はこちらや、こちらなど。
とか気軽に書いてしまいましたが、はたしてわたくしなんざがどう思おうとだれが興味があるのか、いや、ない、ときっぱり言い切れる感じですね・・・。
でも考えをまとめるために、ちょっと書いてみます。
(展覧会を見に行って、まず「何を買ったか」とか「奥さんの書いた本」とか・・・逃げていたのは、バルテュスについて自分の中でまとまってなかったからでもあります・・・)
彼の作品については賛否両論あります。
シャトー・ムートン・ロートシルト(Ch.Mouton Roth Schild) というワインがあるのですが、これはかの大富豪ロス・チャイルド家のワインセラーが作っていて、毎年有名な画家がラベルを彩ります。
この1993年のラベルがバルテュスの描いたニンフのデッサンでした。

しかしこのデッサンに問題ありと、アメリカのATFが使用拒否し、アメリカだけ上のバルテュスのデッサン部分を白紙にしたラベルで売りました。
(そのために、コレクターはこの両方を手に入れようと必死だったらしいです)
両方のボトルを見る機会がありましたが、上半分が白紙になっているボトルはなんとも間が抜けていました。
(しかし『ATFが使用拒否』に反応してしまった。
ATFって例の Alcohol Tabacco and Firearms and Explosive Bureau とかいう、何やってるかわからないアメリカの機関でしょ?

調べてみると、「アルコール関連の問題から社会を守る」という仕事もあるらしい。
でもな~、ワインのラベルに物言いをつけるとは・・・
なにかバックに暗い中でうごめく力を感じてしまう!)
さて、とある日、私の尊敬する絵のおっしょさん、Aさんが
「彼の絵の油絵具の量はちょうどピッタリの量だ。
厚すぎもせず、薄すぎもせず、ちょうど必要な量が使われている。
それはすごいこと。
天才だと思う。」
といいました。
素直な私は、「へえ~~、そうなんだ~~」と感心し、では見に行こうと心に決めますが・・・
またとある日、某所で絵を描く仲間と話していた時の会話
Bさん:「まあ、バルテュスって、ただのエロ爺だよね」
jester:「え!!!」

Cさん:「ほんと、単なるエロ親父だよ」
jester:「・・・で、でも、ピカソが「今世紀最後の巨匠」って!!」
Cさん:「だってピカソだって大したことないじゃん。何世紀かしたらピカソなんて忘れられてるぜ」
(註:AさんとBさんは芸大の油絵科卒。Cさんは某美大の油絵科卒です)
とまあ、東方の片隅の小島の中ですらかくいうほどに、バルテュスの評価は今でも分かれております。
(その後会話は、山口晃→松井冬子→会田誠→人間の認識→ヒックス粒子→絶対零度→光速・・・・とどんどん逸れていったのでした。)
昨日の日曜美術館でも
「賞賛と、それと同等の誤解に満ちた20世紀最後の巨匠」などと紹介され、
「少女に対するフェティシズムをしたキワモノ」だの、いや「移ろいゆく美の一瞬の輝きをとらえている」だの侃侃諤諤言われてました。
途中、美術評論家のジャン・クレール氏は
「彼は一般的に有名になるには洗練され過ぎ、繊細過ぎたのです」と話してました。
彼が『ロリータ・コンプレックス』であるといわれたのは、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』の初版本の表紙に彼の絵が使われたからで、それゆえに誤解されてしまった、「濡れ衣」だった、とか井浦新さんとアナウンサーがあうあうと説明なさってました。
46歳で義理の姪、フレデリック15歳と暮らし始める。
(フレデリックはお兄さんの結婚相手のつれ子であり、血のつながりはない。
血のつながりはないのだが、なんとなく行き場のない少女だったイメージ。)
そうそう、ここでも
アナウンサー「31歳の年の差」
井浦「・・・31歳!・・・あふう~~~ん・・・」
(←・・・「うらやましいですなあ」、って井浦氏の心の中のコメントが聞こえたような気がする・・・・(殴)
アナウンサー:「このフレデリックはバルテュスのお兄さんの結婚相手のつれ子ということで血のつながりはなかったのですが、義理の姪にあたるんですよね。この辺りがバルテュスをモラリストたちが攻撃する格好の材料になっていたと思われます」
井浦:「それは間違いなく攻撃されますよね!そこは!」(鼻息荒く)
・・・などという会話があってちょっと笑えました。
では、わたくしはバルテュスをどう思うのか。

1953年から1961年にかけてのシャシーのアトリエで描かれたガゼインとテンペラを塗り重ねてフレスコ画のように描かれている風景画

やフレデリックの絵

などはかなり好きです。
デッサンにも好きなのが何枚かあります。

また、猫好きな観点から見ると、愛猫家だったバルテュスのテーマとしての猫の絵が目を引きます。

かわいいだけじゃなくて、猫の残酷さ、怖さ、口の臭さ(?)も描いている。

近所の海鮮料理のレストランに頼まれて描いた看板も、ユニークです。
しかし、それ以外の初期のもの

例えばパリのピエール画廊での初個展で出した「ギターのレッスン」と名付けられたこの絵は、カーテンがかかっていて、見せる客が来たときだけカーテンを開けて見せたという。
これほどではないとしても、少女が足を立てて、スカートの中をのぞかせている、という構成の絵は何回も描かれています。
それをもじった写真もたくさん出ています。

写真にすると、この構成の意図がはっきりわかります。(ネットにはバルテュスで検索すると、こういう写真がたくさん出てきます)
幼い頃、夕方歩いていて、こわいおじさんに追いかけられた。笑ってどこまでも追いかけてくる大人の男の恐怖。
小学校の帰り道、困ったふりをして少女を呼びつけ、局所を見せつける変態。
このような恐怖に、日常的に少女たちは曝されています。
自分が性の対象として見られているなどとは知らない無防備な幼きか弱き者が、暴力にさらされることも良くあります。
そういう犯罪への強い嫌悪感があるため、
『少女の中に潜む無邪気で無防備な美、大人の女性に変化する前の一瞬の美』
を生涯のテーマにした、といわれても私には引っかかるものがあります。
芸術には隠された毒を晒して、昇華させる作用もあるとは思います。
なので、ただ単に、バルテュスの中にあるものが、私のそれとは呼応しないということかもしれません。
(未成熟な女性を性の対象にするといったら、ミニスカートをはいた10代の女の子にいい年をした男が群がる現象も日本ではよく見られます。
それだって、その人が良かったらそれでいいことで、私がどうこういうことじゃなと思います。
ただ、私はそういうことに共感しないというだけ。)
また、シャシー以後(節子さんと出会ってから)の

節子さんをモデルにしたものの浮世絵風連作も、また、違和感を持ってしまいます。
エロティックな絵でも、エゴン・シーレやクリムトの描いているものには共感を持てるのに、バルテュスのものはどうしても作品を味わうまで行き着きません。
エゴン・シーレで感じる、ドライで突き放したような視線ではなく、絡み付いてくるような少女の無抵抗さへの欲求の押し付けを感じてしまう。
節子さんと結婚してローマから移ってスイスに住んだあとは、90歳を過ぎても描き続けていますが、近所の少女アンナ・ワーリーをアトリエにいれて、いろいろなポーズを付けさせ絵を描き、デッサンの体力がないからとポラロイドカメラで撮ったりしています。
このポラロイドカメラの画像も、私的には、かなり、気持ち悪い、です。
(この写真展はで6月7日より三菱一号館美術館でやるそうです)
バルテュスはアンナ・ワーリーの絵を描いているアトリエには、節子さんを絶対入れなかったそうです。
節子さんはどんな思いだったのでしょう?
・・・・とまあ、芸術論というより、とても低レベルな展開になってしまい、お恥ずかしいのですが、今、正直この辺です。すみませぬ。
きっとバルテュス展にまた行きます。
人間の認識はどんどん変わるものです。
また新しい見方ができるようになったら、報告しますね。

以前に書いたバルテュスの記事はこちらや、こちらなど。
若いころは、そういう「あどけなさと色気が共存する少女の絵」というものに興味を持ちましたが、
この年になって、しかも娘を持つとやはり抵抗感も大きい・・・
それでもバルテュスの絵を見ると惹かれますね。
そこが変態中年のおっさんとは違うところなのでしょう。
ただ、絵なら許せるけど写真はどうだろうなあ。
>いつも丁寧な返事をかいてくださってありがとうございます(^-^)
とんでもないです!
こちらこそ、いつもコメントいただいて感謝しております。
拙ブログを細々と10年近く続けられたのは、コメントくださる皆様のおかげです。
コメントもらうと「読んでる人いた!」と励みになるし、だれもコメントくださらないと「やっぱり誰も読んでないし・・・」といじいじへこみます。
今後ともよろしくお願いいたします♪
>エロ親父ですか、本当にそれだけですか、少女に色気を感じる男性はたくさんいると思うし それを行動に移せば犯罪者ですし、彼の真実は彼しかわからない、身もふたもない話になってしまいますが彼にはたくさんの支持者もいたのでしょうし、お金にもなったでしょう、それこそが真実ですよね、それが人間なのでしょう。
少なくとも、現在の日本の法律では46歳の男性が15歳の少女と性的関係を結べば犯罪ですね。
エロ親父といったのは、私の友人の40代と60代の男性ですが、結構嫌悪感を持ちつつ吐き捨ててました。
「二つの性が一緒に成熟して年を経ていくのがいいのであって、年取っても少女を求めるのは同じ年の女性が怖い幼児性の抜けない男だ」
と彼らは申しており、かなり年を経ている私はひそかに「いいやつらだ」と思ったのですが・・・
世の中にはバルテュスに羨望感をもつ人もいるのかもしれませんね。
でもその気持ちはわかるんです。
若いってまぶしいですもん。
それが人間ですよね。
>バルテュスが描く少女の絵って、金子國義さんと共通するものを感じます。
あ、確かに、金子さんもこんな感じのエロティックな絵を描かれますよね。
金子さんのほうがディフォルメされているので、生々しさがなくて、抵抗がないですが。
「生々しさ」っていうのもキーワードかも。
>若いころは、そういう「あどけなさと色気が共存する少女の絵」というものに興味を持ちましたが、
この年になって、しかも娘を持つとやはり抵抗感も大きい・・・
自分が女性であるということにプラスして、娘がいるというのが、大きな抵抗感の元になっていますよね。
>それでもバルテュスの絵を見ると惹かれますね。
そこが変態中年のおっさんとは違うところなのでしょう。
ただ、絵なら許せるけど写真はどうだろうなあ。
写真、少しだけ日曜美術館でも紹介されていましたが、私には「犯罪写真」に見えました。
半裸の少女が痛々しくて。
その少女は今は大人になって、テレビのインタビューに答えていましたが、とりあえずうちの娘には、どんな大家のモデルであろうと、ああいうことはさせたくないなと思いました。