ナショナルジオグラフィック9/20(水) 17:07配信
まつ毛が残る3800年前のミイラ「小河の美女」も、中国新疆ウイグル自治区

中国西部、新疆ウイグル自治区のタリム盆地で、この写真のような墓地がいくつも見つかり、そこから数百体ものミイラ化した遺体が発掘された。(PHOTOGRAPH BY WENYING LI)
数百体のミイラは、数千年の時を経てもなお生き生きとした姿をとどめていた。保存状態のよい髪型、服、はるか昔に消滅した文化の装具などから、中国西部、新疆ウイグル自治区のタリム盆地で発掘された彼らは、ヨーロッパからやってきたインド・ヨーロッパ語族の人々と考えられていた。
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ところが意外なことに、DNA分析の結果、この集団はタリム盆地に元から住んでいた人々で、周辺地域のほかの集団からは遺伝的に隔離されていたことが明らかになった。こうしてタリム盆地のミイラの謎はますます深まり、その文化的習慣や日常生活、人類が世界に広がるうえで彼らが果たした役割など、多くの疑問が今も未解決のまま残っている。
ミイラの発見
タリム盆地で初めてミイラ化した遺体が発見されたのは、20世紀初頭のことだ。最初の発見者はヨーロッパの探検家たちだった。その後、盆地の様々な古代墓地で見事な文化的遺物とともにミイラが続々と発掘された。これまでに数百体が見つかっており、最も古いもので紀元前2100年頃、最も新しいものは紀元前500年頃のものと測定されている。
どんな人々だったのか
当初、西洋風の服やヨーロッパ人のような顔立ちから、ヨーロッパから流れ着いたインド・ヨーロッパ語族の末裔で、おそらく青銅器時代のシベリアの牧畜民か、現代のイランにいた農耕民族と関係していたという仮説が立てられた。
ミイラは、金髪、茶髪、または赤毛で、大きな鼻を持ち、羊毛、毛皮、牛の皮で作られた明るくて精巧な服を身に着けていた。魔女の帽子のような先のとがった帽子、フェルトや織物で作られた服なども、西ヨーロッパ文化とのつながりを示唆していた。
さらに、ケルト人を彷彿とさせるチェック模様の布を身に着けたミイラもあった。なかでも有名なのは、紀元前1000年頃に埋葬された「チェルチェンマン」と呼ばれる男性のミイラで、身長は180センチ以上、赤毛で髭をたくわえ、タータンチェックのスカートをはいていた。
「小河の美女」または「小河の王女」と呼ばれるミイラもよく知られている。こちらは3800年前に埋葬された女性で、髪の色は明るく、頬骨が高く、長いまつげが今も残り、まるで微笑みながら亡くなったかのような表情をしている。大きなフェルト帽をかぶり、上質な服と宝石を身に着けていたが、彼女が社会のなかでどのような地位を占めていたのかはわからない。
2021年、先に述べたようにミイラ13体の古代DNAを分析した結果、この人々は、青銅器時代にこの地域一帯に住んでいた独立の集団だったことが明らかとなり、今ではそれが専門家の間で定説になっている。近隣に住む人々から農耕の慣習は取り入れたものの、文化的・遺伝的独立性を維持していた。
科学者たちは、彼らが1万年前にはほぼ姿を消した古代北ユーラシア人の生き残りで、西アジアから中央アジアへ移り住んだ古代狩猟採集民族の比較的小さな集団であると結論付けた。また、現代のヨーロッパ人やアメリカ先住民族とも遺伝的なつながりがあった。
なぜミイラになったのか
これらの遺体は、何かの埋葬儀式の一環として意図的にミイラにされたのではない。世界でも有数の広さを持つタクラマカン砂漠があるタリム盆地の乾燥した塩分の多い環境のおかげで、遺体の腐敗がほとんど進まず、または最小限にとどめられ、自然にミイラ化したものだ。また、厳しい冬の寒さも遺体の保存に適していたと考えられている。
埋葬法
多くの遺体は、牛の皮で包まれた船の形をした木製の棺に納められ、木の杭やオールで目印がつけられていた。墓地で発見された麻黄(マオウ)と呼ばれる薬草には、薬や宗教的な意味合いがあったと思われる。しかし、その宗教が何であったのかは不明だ。また、一部の墓地には、杭が同心円状に配置されていたが、その意味もわかっていない。
何を食べていたのか
ここにどのような文化が発達したのかについてはまだ多くの謎が残っている。しかし、墓地で発見された様々な遺物からは、当時の興味深い生活や儀式の一端がうかがわれ、人々が食べていたものや、彼らが農耕民族であったことなどが示されている。遺体のそばからは、大麦やアワ、小麦のほか、チーズも出土した。これは知られている限り人類最古のチーズであり、タリム盆地の人々が、農耕だけでなく反芻(はんすう)動物の飼育も行っていたことを示している。
日常生活
遺伝的に独立していたものの、タリム盆地には埋葬やチーズ作りといった習慣があり、衣服には遠方の地の技術や芸術様式が反映されていた。ほかの文化と融合したり、ほかの文化から学んだりして、時間をかけて外部の慣習を取り入れ、独自の文明に組み入れていったのだろう。
今でこそ荒涼とした砂漠と化したタリム盆地だが、かつては緑が生い茂り、淡水が豊富にあった。そこでの暮らしは、反芻動物の飼育、金属加工、かご作りなど多岐にわたっていたと、研究者たちは考えている。
タリム盆地の人々が他民族との交易や交流のために使用した回廊は、やがて東西を結ぶシルクロードへと発展して行く。
とはいえ、彼らは誰と交易していたのか、どんな信仰を取り入れていたのか、そしてその社会は階層化されていたのかなど、まだ多くの謎が残されている。
文=ERIN BLAKEMORE/訳=荒井ハンナ
https://news.yahoo.co.jp/articles/711ce8ec88b4cca4ab0661e64d4c63e8afef0d6b