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ヒグマの歴史~危険な羆と共生してきたアイヌと開拓民の対処法とは?

2023-09-14 | アイヌ民族関連

武装ジャパン2023/09/13

「なんもなんも!」

と、おおらかにコトを受け止めてくれて、食べきれないほどの料理でもてなしてくれる――。

広大な大地のような道産子たちでも、道民以外に口を出されると、真剣な眼差しで反論する話題があります。

ヒグマです。

「かわいそうだから殺処分しないで」とは、他府県の方たちが口にしがちな言葉でしょう。

しかし、実際に出没エリアにいる当事者にとっては、現在進行形で、生きるか死ぬかを分ける、獣害。

2021年6月18日には札幌市東区に現れたヒグマが自衛隊の基地へ入り込むなどして、隊員1名のほか市民3名の計4名がケガを負う事態にもなりました。

2023年にはOSO18の名で知られた個体が撃たれて話題になるなど、兎にも角にも恐ろしい存在であり、かつてはアイヌや開拓者も直面してきた北の猛獣――。

本稿ではヒグマの歴史を振り返ってみます。

熊の夜討ちは危険過ぎる

覚悟が無いなら早く立ち去った方がいい

弱い奴は食われる

ゴールデンカムイ』1巻より アシリパ(※文中一部アイヌ語表記が再現できていない箇所があります)

開拓者はヒグマと出会った

北海道開拓――。

ロマン溢れるようで、それは苦難の歴史の始まりでした。

明治維新という国のシステムが変わりゆく中、なかなか雑な開拓スタートであったとしか思えない状況があります。

戊辰戦争敗者の流刑と開拓が一石二鳥ではあった

最初期の開拓者は、仙台藩や会津藩出身者が多い。

政府側としては、憎悪を募らせていたことは否定できませんし、「武士の誉れを見せろ」というプレッシャーもありました。

根性論ありきで投げられた印象は拭えません。

※以下は「北海道開拓」の関連記事となります

◆本州の農作物が育たない!

日本人の主食である米が育たない。

そのため、江戸時代は石高が計算されない土地でした。

いきなり主食もない土地へ向かった開拓者には過酷な運命が襲いかかります。

◆人の命があまりに軽かった……

流刑者扱いの東北出身者、囚人、アイヌ、そして外国人……死んでも惜しまれぬ安い命が搾取された、そんな悲しい歴史がそこにはあるのです。

◆知識不足

明治維新当時、蝦夷地の知識がなかったわけではありません。

そんな代表者として松浦武四郎がおります。

しかし、その松浦が辞任するほど北海道のスタートは波乱万丈でした。

明治初期は、維新と戊辰戦争の論功行賞が横行。適性や知識よりもこうしたことが重視され、ろくに知識がないまま開拓が実施される、おそろしい状態が続きました。

こうした知識不足は、開拓者の命を容赦なく奪ってゆきます。

ろくに暖房も防寒具もないまま過ごさねばならない、北海道の冬。朝になれば室内まで凍りつくような中で、命を落とした者も少なくありません。

医療設備も貧弱ならば栄養も不足。餓死や病死をしてしまう開拓者もいました。

そんなおそろしい死の中でも、こと“惨劇”という点では獣害による被害もあげられるのではないでしょうか。

北海道土産のシンボルに「熊出没注意」があります。

ステッカー、Tシャツ、そしてラーメン。今ではすっかりおなじみではありますが、そこにはおそろしい惨劇の歴史もありました。

道民は絶えずヒグマ対策をしている

わかった、ヒグマが怖いのはわかった。

そんなに怖いのであれば、道民は対策すればいいじゃない! 今はもう開拓時代じゃあるまいし……と思われるでしょうか?

もちろん対策しております。

・電気柵

・有刺鉄線柵

・標識や看板の設置

最近の電気柵はソーラーパネル式もあり、進歩した技術とともにヒグマとの共生をめざしています。

そこまでいろいろしていても、都市部にやってきてしまう個体がいる。そうなれば猟友会の出動……そんな流れです。

既に十分な対策をしていても、それでも来てしまう。

そこで当事者以外の人々が「ヒグマを殺さないで! 道民は残酷!」というのは、やはり余計なお世話感は否めません。

生きるか死ぬか――という切羽詰まった状況があります。

ツキノワグマとヒグマの違いって?

道民は、ヒグマはじめ北海道の大自然を相手に奮闘し、これまで生きてきました。

それは知恵を身につける過程でもあります。

最初に、北海道の大地を踏みしめた開拓者は、クマを知らなかったわけではありません。

ツキノワグマの知識はありました。

しかし、このことがなまじ事態の悪化を招いた可能性は否定できません。

同じ熊だけに、共通点は多い。しかし、体格や食性は異なる部分があり、その違いが惨劇をもたらしたかもしれません。

具体的に比較してみますと……。

◆ツキノワグマ

生息地域:本州以南

体長:頭胴長(頭の先から尻)は110~130センチ

体重:オスが80キロ程度、メスは50キロ程度。ただし個体差が大きく、40キロほどのものもいれば、130キロほどのものもいる。最大の記録は220キロ

食性:草食性。甘いもの、果物、カボチャ、トウモロコシは最高のごちそうです。

注意点:餌となる木の実が豊作だったあと。あるいは食べる物が不足している。甘い農作物の味を覚えた。開発や風力発電等により、生活圏が脅かされてしまった。そうした条件が重なると、人里へやってきてしまいます。

遭遇を避けるためには、爆竹で大きな音を鳴らしたり、威嚇をすると効果的です。

畑に農作物を植えると、種類によってはクマを呼び寄せてしまいます。

人里で見かけた場合は、警察署に通報するしかありません。

人との遭遇:ツキノワグマは草食であり、人間との遭遇はあくまでアクシデントです。

「わっ! なんか怖いものに出会った! こっちに来ないで、やめて、嫌だ!」

そうびっくりして、爪や牙を振り回した結果、当たりどころが悪いと悲惨な結果をもたらしてしまうのです。

積極的に人と出会いたいとは考えておらず、ましてや遭遇を求める気持ちはありません。

◆ヒグマ

生息地域:北海道

体長:頭胴長(頭の先から尻)は200~230センチ

体重:150〜250キロ、400キロの個体記録もあり

ツキノワグマの体型は、人間とそこまで変わらないとも言えますが、一方でヒグマは、軽自動車くらいの重さの個体までいる。

「クマがかわいそうだから殺さないで!」

こう言われた時、想定する大きさが違います。まずはそこから認識すると良さそうです。

食性:草食性が主ではあるが、雑食。鮭やシカも食べる。つまり、犬、家畜、そして人間も食べるということ。

注意点:ツキノワグマと共通しておりますが、遭遇時を考えると何もかも危険性が増します。

人との遭遇:ツキノワグマと同じく、ヒグマにとっても不幸な偶然であることは確かです。

ただ、前述の通り体格さゆえに危険度が桁違いとなります。積極的に肉食を狙うこともないとは言い切れません。

ヒグマと人の不幸な誤解とは?

ツキノワグマにせよ、ヒグマにせよ、熊は猛獣であり、恐ろしいことは確か。

しかし、それは熊からすれば同じことで、熊にしても人との遭遇は危険で恐ろしいものです。

大声で叫ぶし、恐ろしい武器を持っているし、知恵が回る。クマにとって人は危険極まりない存在であり、できることならば遭遇を避けたい状況は同じです。

ヒグマは用心深く、臆病です。遠くから人の声を聞くだけで、危険を察知し、隠れてしまうのが大半。

しかし、ヒグマにも個体差や事情があります。

そしてその体格ゆえに、ひとたび人と戦う気持ちに火がつけば、極めて危険であり、不幸な結果をもたらしかねません。

◆若いオスは遊び好きで冒険を求める

人でも、まだ若い青少年男性となれば、スリルを求めて冒険しがちです。勇気を見せたい――そうして無謀なこともします。

これはヒグマも同じ。小熊がレスリングや相撲をしてじゃれあう姿は、しばしば観察されております。

もちろん熊同士であれば無害ですが、人間と出会った際に、まだヒグマとしての経験が浅く、度胸があればこうなりかねません。

「オッス! なんかおめえ面白そうだな、俺と遊ぶか?」

「なんで走んだ? おいかけっこだな! かくれんぼか? そうか!」

好奇心が旺盛であるため、ヒグマと人の遊びというおそろしい状況に突入しかねないのです。

相手にとっては遊ぶつもりでも、人相手では恐ろしい結果が待ち受けています。

◆母は子を守る

生物としての闘争心と義務感が発揮される局面。それは我が子を守る親としての気持ちがそうでしょう。

おそろしい人間と遭遇してしまった際、子連れのメスは警戒心を強めます。

「危険が迫っている! よし、私が赤ん坊を守らなくちゃ!」

我が子を守るために勇気を振り絞る。感動的ではあります。

ただ、それがヒグマであり、こちらが人間となると、危険なのは言うまでもないでしょう。

大正4年(1915年)の「三毛別羆事件」は、成人女性の被害者が多いため、ヒグマが成人女性の味を好んだとする解釈もあります。

ただ、それが果たして事実であるかどうかは考える必要があります。当時、事件現場には成人男性が少なく、女性が我が子を守るためにヒグマと立ち向かわねばならなかったのです。

人もヒグマも、我が子のために母が死闘に突入する点は一致するのです。

◆グルメのためには手間暇を惜しまない

この点、人がヒグマのことをどうこう言えるわけでもない。

おいしいラーメンのために隣町までわざわざ行くとか。グルメを求めて北海道旅行をするとか。生きるということは、そういう探究がありますよね。

ヒグマにとって最高の珍味とは、甘く、カロリーが豊富で、香りがよい人間の食べ物です。

人が自分たちの食べ物やゴミを放棄すると、ヒグマはそれを食べ、グルメに目覚めます。

「なんかあいつら、この前、うまいもん残してったんだよな」

「なんだかんだであいつら、足遅いし、びびるし。脅したらあれを落としていくんじゃないか?」

そしてここから先が問題です。

ツキノワグマであれば、狙いは人間の残してゆく残飯や、育てている農作物で止まります。

しかし、ヒグマは肉食性です。

「あいつらの住んでいる所にでかくて、逃げない肉の塊(つまりは家畜)がいるんだよな!」

「それに、あいつらそのものも食べられるからな……」

閉じ込められている家畜。鎖に繋がれているペット。

そしてヒトそのものを食べてしまったヒグマは、積極的に肉を食べることを覚えてしまいかねません。

◆パニックに陥ると危険です

繰り返しますが、ヒグマは臆病です。

「ギャッ! やめて、近寄らないで!」

こうなると、相手が近づいて来ないように威嚇したくなるのはヒグマも同じ。結果、腕を振り回されて、人に当たったら?

万が一、北海道でヒグマに出会ってしまい、威嚇して追い払おうにも距離が短い場合は、木や岩に登り、ゆっくりと腕を振って、穏やかに話しかけて人間であるとアピールする。

「なんだ、怖くないんだ。じゃあね」

結果、そう立ち去ってもらえば、お互い幸せなのです。

ヒグマ相手にしてはいけないこと

ヒグマの気持ちや習性を考慮して行動しないと、不幸にもおそろしい結果が待ち受けています。

北海道開拓史には、苦い失敗と教訓があふれています。

和人にとっては開拓でも、ヒグマにとっては居住地に見知らぬ生き物がやって来る危機。ゆえに、不幸極まりない事件が発生してきたのです。

「そりゃ当時は知識が足りないから事件もあったよね」

今なら大丈夫……とは言い切れないでしょう。

ヒグマに対する歴史がある道民ですら犠牲になった事件はあります。

通学路でランドセルやカバンを残し、消えてしまった女の子。兄を待つわずかな間に、ヒグマに襲われてしまった――。

こうした惨劇については道民以外の方も頭に入れておくべきではないでしょうか。実際、その習性を知らないだけに、惨劇に繋がった例もあります。

では、具体的な対策とは?

いくつか見ていきましょう。

◆死んだフリをしても意味がなく危険

ゴールデンカムイ』1巻では、ヒグマが食い残しを土饅頭に埋めた死体が発見されます。

人間の死体は、ヒグマにとって食料です。

死んだフリをしても全く意味がないどころか、危険なだけ。

もしも相手が襲ってきたら、首の後ろと頭部を守り、うつぶせになるのがよいとされます。

バックパックが防御に役立ちます。

仰向けにしようとされても、なるべくうつぶせになって、腹部を露出しないように。

◆走って逃げない

走って逃げても、ヒグマは人間よりもずっと素早く走行できるため意味がありません。

むしろヒグマの好奇心をかき立て、刺激し、反射的に追わせてしまうので危険です。

『ゴールデンカムイ』でも、“時速60キロのトラックと並走し続けた”目撃談について言及されています。

マウンテンバイク等で遭遇しても、逃げ切れるかどうかは保証できない速度です。

◆ヒグマが狙っている食料は即座に置き去りに

リュックや荷物を置き去りにして逃げる――登山等では抵抗感があるとは思います。

しかし、食べ物を持ち歩いているとヒグマを刺激することになりかねません。

『ゴールデンカムイ』でも、杉元が刺青人皮をのついた死体を運ぼうとし、アシリパが止めています。

ヒグマは一度目をつけた獲物に執着します。

彼らにとっての食料は、なるべく早く手放し、与えてしまうほうが安全です。

リュックの食物を狙ったヒグマの習性を知らなかったために起こった惨劇として、昭和45年(1970年)「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」があります。

wikiにも詳細な記録がありますね。

◆福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件(wikipedia

ただし、三毛別羆事件と同様に凄まじく恐ろしい内容ですので、調べる際は覚悟を決めて自己責任でお願いします。

◆ゴミは持ち帰りましょう

食べ物を放棄するのはあくまで逃走状態になった場合のことです。

そうでもない時は、食べ物の味を覚えさせないためにも、ゴミは捨てないようにしましょう。

◆餌付けは絶対に禁止

ヒグマの餌付けをする人はいないと思います。

けれども、他の野生動物にも絶対にしてはなりません。

・自力で餌を取れなくなる

・調味料や刺激物が有害

・感染症を広げる一因になる

・生態系を乱す

観光客による一時の楽しみの結果、道民の生活や野生動物の生態系を乱すことにつながりかねないのです。

絶対にやめましょう。

北海道を訪れる機会があれば、現地のヒグマ注意喚起にぜひともアクセスしておきましょう。

地域によっては、ヒグマ除け、対策グッズのレンタルもあります。

ヒグマのアルビノ個体

ゴールデンカムイ』22巻では、ヒグマのアルビノ個体が出現します。

そういう記録は実際にあったのか?

ちょっと探ってみますと……。

・虹彩は赤い

・皮膚は赤色を帯びている

・毛が白い

延宝3年(1675年)、幕府に白いヒグマの毛皮が献上されたと『松前志』に記録があります。

2010年代になってからも、白いヒグマが道内で目撃されています。

アイヌがヒグマと生きる知恵

明治政府は、アイヌを「旧土人」と定義。

刺青や耳輪、そして毒矢による狩猟といった伝統を野蛮だとして禁止してゆきました。

その地に生きる開拓民や屯田兵は、アイヌの知恵によって生き延びることもあったにも関わらず、和人やお雇い外国人が一方的に生きる知恵を与えるものだとして定義したのです。

結果、明治時代以降、北海道の野生動物は絶滅する種が増え、ニシンが枯渇するような自然破壊も起こりました。

ヒグマの場合にも、知識の共有が今にまで通じる問題としてあります。

ヒグマをやたらと怖がるのではなく、正しい知識で、人との遭遇を避けていくこと――動物愛護はとは、正しい知識あってのことでしょう。

『ゴールデンカムイ』でも、ヒグマはキムンカムイ(山の神)であると語られています。

ただ、それも人を殺さない限りのこと。

人を殺したヒグマは、ウェンカムイ(悪しき神)となってしまう――だから、狩るのは悪いことではない。むしろ、そうしなければならない。

このアイヌの知恵こそ、現代の人々にも求められているころではないでしょうか。

真の動物愛護と人との共生とは、人のもたらす味を知ったヒグマを殺さないよう電話をかけることではなく、人との接触を防ぐことではありませんか。

三毛別羆事件】のような悲劇も、突き詰めると開拓時の知識不足と環境の悪さが原因となっています。

ヒグマの生息域に開拓民が入り込み、人も、ヒグマも、不幸な結末を迎えました。

『ゴールデンカムイ』は、アイヌの少女アシリパがヒグマと戦う場面から始まります。

落ち着き払って、自らの知識と腕でヒグマと互角以上の戦いを見せるアシリパに、読者は引き込まれる。

この描写はアイヌの経験に基づくものです。

北海道に元からいたアイヌは、ヒグマとの暮らしに長けていました。

かつ、これは道民クリエイターの主張と経験も感じます。

道民の作品では、ヒグマの恐怖がともかく描かれる。そういう問題提起も強く感じます。道民とヒグマとの共生は、現在も模索中なのですから。

◆弓と仕掛け弓

アシリパが持つアイヌの弓は、和弓ほど腕力を必要とせず、小柄なアシリパでも扱いやすい武器です。

長さはだいたい1メートルほど。

樹木とその繊維を用いて作られています。

最大の特徴は毒です。

トリカブトはじめとする植物を調合した毒が威力を発揮します。

仕掛け弓のアマッポは、大きな威力を発揮しました。

雨で矢毒が流れぬように工夫されており、大型の獲物を捕らえる際に役立つものです。

人間に刺さると悲惨なことは、作中で谷垣や尾形で証明済みですね。

◆杖、手槍、小刀

第3話の扉絵で説明されておりますので、手元の1巻をご覧ください。

こんな短い原始的なものでどうにかなるのか?

そう思いたくもなりますが、前述の通りヒグマは基本的に臆病なのです。こうした武器で撃退した実例も記録されております。

成功例は勇者の記録として残されているのです。

現代でも、リーチの短い得物での撃退例があります。

スコップ、鎌、包丁、手斧、石、鉈……手元にある道具を必死で振り回した結果、ヒグマが逃げていった例はあるのです。

「あのメノコ(女性)はすごいんだ。マキリ(小刀)でヒグマを追い払った!」

こんな記録を読んで、そんなことがあったのかどうか? そう疑いたくなる気持ちは理解できます。

しかし、もう一度ヒグマの気持ちを考えてみましょう。

ヒグマだって怖い。人間との出会いに驚いているのです。そんなヒグマにトドメを刺さなくともよい。追い払えばそれで済む話ですから、現在は熊除けペッパースプレーもあります。

むろん、こうした道具はあくまで非常時用かつ、最終兵器であることはご留意ください。

遭遇した際に使うものです。これさえあればヒグマに勝利できると過信することなく、まずは絶対に遭遇しないことを心がけねばなりません。

遠目で見かけたら、接近してはいけない。

遠くから矢を放つ。仕掛け弓で弱らせる。もし接近して遭遇したら、短い武器で追い払う。そこにはヒグマと生きてきた知恵が凝縮されています。

かつて、アイヌとヒグマはじめ野生動物といえば、イオマンテのような行事がクローズアップされてきました。

自然と生きる心優しいイメージが、そこにはあったものです。

和人の抱いてきたイメージのわかりやすい代表例が、『サムライスピリッツ』シリーズにおけるナコルルでしょう。

ドット絵の限界があるためとはいえ、簡素化された衣装の模様。

マタンプシ(鉢巻)をアレンジしてリボンのようにしたもの。

そしてナコルルステージの背景にはヒグマの生体がおり、妹リムルルが抱かれておりました。

ナコルルは、自然破壊を阻止するために戦う、エコロジストのような動機付けがされていたものです。

発表当時の限界もあり、ナコルルそのものやナコルルファンに何か言いたいわけではありません。

ただ、こうした従来にアイヌ観を『ゴールデンカムイ』は修正していることについては考えたいところなのです。

・アシリパは、ウェンカムイとなったヒグマを容赦なく倒す。それでも、かつて自分が可愛がっていた小熊がイオマンテで送られたことがトラウマになってはいる。

・イオマンテとは、さらなる毛皮と肉をもたらすための儀式であり、和人が考える素朴なイメージのものではくくれないものである。

・アイヌは、ナコルルのような動物愛護を掲げているわけではない。ヒグマ狩りの名人が、それを誇りに思っている記録がちゃんとある。ヒグマはじめ動物との関係性や考え方が、和人とはそもそも異なる。

・個体としての動物殺傷は拒まないものの、種そのものを取り尽くすような発想は禁忌である。このことが『ゴールデンカムイ』の重要な要素となりそうではある。

・ヒグマについての知識と経験は和人より豊富で、アシリパが杉元に戦い方を教えるのは、極めてまっとうで理にかなっている。その場面が冒頭にあり、アニメ版でもカットされないことは大きな意義がある。あの場面には、アイヌと北海道開拓民の歴史が象徴されている!

このように、北海道とヒグマには深い歴史、知識、考え方があります。

冒頭に戻りますが、道外の人が気軽にヒグマと人の関係性に口出しすべき問題ではないでしょう。

ヒグマを保護することは、もちろんできます。

それは人と生活圏が重ならないようにすること。そして道民は、既にそのことを心がけています。

北海道を観光するのもよい。

舞台にした作品を満喫するのもよい。

ただし、動物と道民の関係、自然破壊につながるようなことはしないよう、心がけたいものです。

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
門崎允昭『羆の実像』(→amazon
宇多川洋『クマとフクロウのイオマンテ―アイヌの民族考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』(→amazon
中川裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」 』(→amazon
別冊太陽編集部『アイヌをもっと知る図鑑 (別冊太陽 日本のこころ)』(→amazon) 他

https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2023/09/13/148683


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「アイヌ神謡集これからの100年②」 知里幸恵6講

2023-09-14 | アイヌ民族関連

室蘭民報2023/09/13 20:00登別

登別での暮らしを紹介  今年は知里幸恵の生誕120年、初...

ここから先の閲覧は有料です。

https://www.muromin.jp/news.php?id=93500


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第4回 「教授」以前の彼(その3)

2023-09-14 | アイヌ民族関連

ちくまweb2023/09/14   佐々木 敦

比類なき輝きを放つ作品群を遺すとともに、「脱原発」など社会運動にも積極的に取り組んだ無二の音楽家、坂本龍一。その多面的な軌跡を「時代精神」とともに描き出す佐々木敦さんの好評連載、第4回の公開です! 

1 山下達郎、細野晴臣、矢野顕子らとの出会い

 1977年3月、坂本龍一は東京藝大大学院修士課程を修了した。イエロー・マジック・オーケストラのファースト・アルバムがリリースされるのは1978年11月25日なので、このあと二年足らずで彼の人生は激変することになる。だが、そこに至るまでも、濃密な日々がめまぐるしく展開していた。

 YMOの『イエロー・マジック・オーケストラ』の発売1カ月前に当たる1978年10月25日、坂本龍一は『千のナイフ』をリリースした。記念すべきファースト・ソロ・アルバムだが、必ずしも「満を持して」というわけではなかった。このアルバムは何度か再発売されているが、2016年に最新リマスターSACDとしてリイシューされた際、坂本龍一はそのブックレットに談話を寄せている。

『千のナイフ』という最初のソロアルバムを作ろうと思った1978年頃は、 それまでの2年間をスタジオ・ミュージシャンとしての仕事に忙殺され続けて、精神的に非常に消耗していた時期です。

 毎日深夜まであちこちのスタジオをかけもちし、それから朝までお酒を飲む。

 そんな毎日を続けているうちに、このあたりで自分自身の音楽をちゃんと作ろうという思いが強くなっていった。(「『千のナイフ』という乱暴」)

 実際、この頃の坂本龍一は多忙を極めていた。少し時間を巻き戻すと、彼が「スタジオ・ミュージシャン」となるきっかけを作った友部正人との新宿ゴールデン街での出会いが1974年の11月、21歳、大学4年生の時だった。レコーディングに参加した友部のアルバム『誰もぼくの絵を描けないだろう』のリリースが1975年3月。坂本龍一はピアニストとして全面的に参加している(初のスタジオでの仕事だった)が、そのうちの一曲「ひとり部屋に居て」は『Year Book 1971-1979』にも収録されている。本人曰く「いまこのアルバムを聴き直すとピアノが下手で、どれも曲に合ってない。恥ずかしい。その中でこの曲はなんとか許せるかなと選びました(笑)」とのことだが(『Year Book 1971-1979』ブックレット)、彼のピアノは友部には好評だった。坂本龍一は友部のツアーに随行して全国を回った。

 その年の春に大学院に進学したが、スタジオとライブの両方でミュージシャン仕事は増えるばかりだった。高田渡や山本コータローらによる武蔵野タンポポ団、あとで触れる六文銭の及川恒平などフォーク系のひとびと、長い付き合いとなる大貫妙子と山下達郎がいたシュガーベイブとは同世代ということもあってすぐに親しくなった。山下の紹介で大瀧詠一とも知り合い、大瀧・山下・伊藤銀次の三名による『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のレコーディングに参加、全10曲中9曲でピアノ他を演奏している。『Year Book 1971-1979』には山下作の「Parade」が再録されている。のちに「DOWN TOWN」とのカップリングで山下名義のシングルとしてリリースされており、更に1994年には人気テレビ番組『ポンキッキーズ』の主題歌として再リリースされて大ヒットした山下達郎の代表曲である。「山下達郎からなにかイントロに弾いてよと言われて、即興的にこう弾いたんだと思います。よく指が回っていますね、いまはとてもこんな弾き方はできない」(『Year Book 1971-1979』ブックレット)。この時、やはりプレイヤーとしてレコーディングに参加していた細野晴臣と出会った。大瀧、細野と同じく元はっぴいえんど(坂本龍一がその存在を知ったのは解散後だったという)の鈴木茂とは、それ以前から付き合いがあり、ブラック・ミュージックなどを教わっていた。

 坂本龍一は、山下達郎や細野晴臣の非凡で洗練された音楽センスがアカデミックな音楽教育と無関係だということに驚きを禁じ得なかった。

 山下くんの音楽は、ぼくが日比谷の野音などで聴いていたロックやブルースとはぜんぜん違うもので、とても驚きました。言ってみれば、ものすごく洗練されていて複雑なんです。ハーモニーも、リズムの組み合わせも、アレンジも。とくにハーモニーという面では、ぼくの音楽のルーツになっているドビュッシーやラヴェルなんかのフランス音楽とも通じるところがある。

 こっちは一応音大に、実際にはほとんど行ってないですけど、まあとにかく行って、 何年もかけて勉強したのに、ロックやらポップスやらをやっているやつが、どこでこんな高度なハーモニーを覚えたんだ、どういうことだ、と思いました。

 それはもちろん独学で、耳と記憶で習得したわけです。山下くんの場合はアメリカポップスから、音楽理論的なものの大半を吸収していたんだと思います。そして、 そうやって身についたものが、理論的にも非常に正確なんですよ。彼がもし違う道を選んで、仮に現代音楽をやったりしていたら、かなり面白い作曲家になっていたんじゃないかと思います。

      ***

 細野さんと出会った時に感じたことは、山下くんの時とよく似ています。ぼくは細野さんの音楽を聴いて「この人は当然、ぼくが昔から聴いて影響を受けてきた、ドビュッシーやラヴェルやストラヴィンスキーのような音楽を全部わかった上で、こういう音楽をやっているんだろう」と思っていたんです。影響と思われる要素が、随所に見られましたから。でも、実際に会って訊いてみたら、そんなものはほとんど知らないという。たとえばラヴェルだったら、ボレロなら聴いたことがあるけど、という程度。

 ぼくがやったようなやり方で、系統立てて勉強することで音楽の知識や感覚を身につけていくというのは、まあ簡単というか、わかりやすい。階段を登っていけばいいわけですから。でも細野さんは、そういう勉強をしてきたわけでもないのに、ちゃんとその核心をわがものにしている。いったいどうなっているのか、わかりませんでした。耳がいいとしか言いようがないわけですけれど。(『音楽は自由にする』)

 1976年にはシュガーベイブ解散後にソロとなった大貫妙子のファースト・アルバム『Grey Skies』に演奏と編曲で参加(その後の作品にも継続的にかかわっていく)、同年5月には細野晴臣が横浜中華街の同發新館で行ったライヴに出演し、矢野顕子と初共演している。

 もう一人、同じような驚きを感じたのが矢野顕子さんです。 彼女の音楽を聴 いたときも、高度な理論を知った上でああいう音楽をやっているんだろうと思ったの に、訊いてみると、やっぱり理論なんて全然知らない。

 つまり、ぼくが系統立ててつかんできた言語と、彼らが独学で得た言語というのは ほとんど同じ言葉だったんです。勉強の仕方は違っていても。だから、ぼくらは出会ったときには、もう最初から、同じ言葉でしゃべることができた。これはすごいぞと思いました。(同)

2 自らを「秀才」だと思い込んでいる「天才」

 坂本龍一が次々と出会った天才肌のミュージシャンたちは、彼に一種の天啓を与えた。自分が長い時間をかけて蓄えてきた、アカデミックな音楽教育に基づく理論や教養、音楽の創造と実践のための「言語=言葉」を、山下達郎や細野晴臣や矢野顕子が生身の「耳」を通して体験的に習得しているさまを目の当たりにして、彼はショックを受けた。彼らに較べたら自分は単なる秀才に過ぎない、そう思ったかもしれない。だが、だとしたらそれは間違っていた。坂本龍一は自分のことを「秀才」だと思い込んでいる「天才」だったのだ。ある意味でアカデミズムは彼の才能が自由に羽ばたくことを妨げる錘として機能していたとさえ考えられる。その錘はこの後、彼自身も気づかないうちにいつのまにか取り外され、どこかに消えてしまうことになる。だが彼が、ある種の学究肌というか、非常に好奇心旺盛で、音楽のみならず、何ごとかにひとたび関心を抱くと、それについて全てを知り何もかも理解しようとひたすら没頭するタイプであったことは確かだと思う。それは「大学」と関係なくはないだろう。

 「教授」と呼ばれる前の坂本龍一のあだ名は「アブ」だった。『Year Book 1971-1979』のブックレットに、細野晴臣が「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」という談話を寄せている。細野はこう語っている。「記録によると大瀧詠一のスタジオでの録音の『ナイアガラ・トライアングル Vol.1』 (76) に入っている 「FUSSA STRUT Part-1」が初めての共演だったらしいが、そのときの印象はなによりも当時の坂本くんの風貌だ。 ぼさぼさの長髪で無精ヒゲの、まさに中央線沿線にいそうな感じ」。

 初めてちゃんと彼の音楽面が印象に残ったのは、彼がアレンジを担当した大貫妙子のファースト・アルバム「グレイ・スカイズ』 (76) にぼくが参加したときのこと。あの頃もうすでにニューヨーク的なフュージョンの要素があって、すごく際立ったアレンジだった。

 このアレンジはなかなかすごいなと感じて、それから彼の存在を意識しはじめた。 中華街でのぼくのコンサートの演奏に参加してもらったのも、そのことがあったから。

 そして坂本くんのことをさらにすごいなと認識したのは、 あんなむさ苦しい格好をしているにもかかわらず、彼が非常に女性から人気があったこと。 こんなに汚いのにどこが魅力なんだろうと女の人に訊くと「眼がいい」と言う。そうか、ならばぼくもちょっと一目置いておこうと思った(笑)。 みんなが “アブ”と呼んでいたので、ぼくもそう呼んでいた頃です。(「ぼくが知っている、 坂本龍一の1970年代。 若き“アブ”から“教授”への変身を追って」)

 “アブ”の由来については、吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』に次のように述べられている。「当時の坂本龍一の外見はむさ苦しい長髪に、無精髭、煮染めたようなジーンズに冬でも素足にゴムサンダル」「水島新司の野球漫画『あぶさん』の主人公も(初期の頃は)同じくむさ苦しいキャラクターで、いつの間にか坂本龍一のあだ名はアブになっていた」(酒の「アブサン」という説もある)。YMO以前、「教授」以前の彼は、風貌もまったく違っていたのだ。だが、細野と出会ってたった2年後、坂本龍一はデザイナーズブランドに身を包んだ、クールでスタイリッシュな「教授」になっている。この華麗なる変身の立役者は高橋幸宏なのだが、その話はもう少し後ですることにしたい。

 ドラマー兼シンガーとして当時引っ張りだこだったつのだ☆ひろにも気に入られ、幾つものレコーディングやライヴに参加、そのうちの一枚だった浅川マキのアルバム『灯ともし頃』がきっかけとなって、浅川のプロデューサーだった寺本幸司が同時期に手がけていた「私は泣いています」で大ヒットを放って間もないりりィのバック・バンド、バイバイ・セッション・バンドに加入し(これがYMOに先立つ坂本龍一の最初の「バンド」である)、プレイヤーとしてのみならずアレンジャーとしても才能を発揮し、そこからまた仕事が広がっていった。演劇関連の仕事も続けており、NHK-FMのラジオドラマの音楽も担当するようになっていた。大学に行く暇などあるわけがなかった。

3 アヴァンギャルドという第三項

 1970年代半ばは日本のポップスが本格的に芽吹いた時期である。1973年10月に始まったオイル・ショックから脱し、時代は高度経済成長期から安定成長期に入っていた。世相は明るさを増し、若者の生活も豊かになっていった。風呂なし四畳半一間での同棲を歌ったかぐや姫の「神田川」「赤ちょうちん」と、今で言うシティポップの嚆矢というべきシュガー・ベイブの「DOWN TOWN」は1年ほどしか離れていない。フォークソングから日本語ロックへ、そしてより多種多様なポップ・ミュージックへと、社会状況の急激な変化とともに音楽も「進化のビッグバン」を迎えつつあった。坂本龍一はその「爆発」の渦中を生きていた。彼のピアノはジャンルを超えたさまざまなサウンドの中で変幻自在に鳴り響いていった。

 このこと自体は、同時代を生きた坂本龍一と近い世代のミュージシャンにとっても同じ条件であったかもしれない。だが彼にはアカデミズムという、余人にはないバックボーンがあった。それだけではない。ポピュラー、アカデミックに加え、坂本龍一にはアヴァンギャルドという第三項が存在していた。

 友部正人と知り合った新宿ゴールデン街で、坂本龍一はもうひとり、友部とはまったく異なるタイプの知己を得ていた。竹田賢一である。竹田は1948年生まれなので、坂本龍一より4歳年上、前衛音楽や実験音楽、即興演奏の評論家、紹介者、オーガナイザーとして登場し、フリー・インプロヴィゼーションのバイブル、デレク・ベイリーの著書『インプロヴィゼーション:即興演奏の彼方へ』の翻訳者に名を連ね、アンプリファイされた大正琴を手にして自ら演奏を行い、反ポップ・バンドA-Musikを結成、現在も真の意味で闘争的というべき音楽活動を継続している。坂本龍一は竹田賢一と音楽的・思想的に共鳴し、竹田を通じて知り合った先鋭的なジャズ評論家の間章(彼は1978年12月に32歳の若さで急逝する)らも加えて「学習団」という運動体を結成、1974年から76年にかけて数回のイヴェントを行っている。間章が企画したライヴにも坂本龍一は何度か出演しており、間が世を去る3カ月前の1978年9月9日には29歳で夭折した天才サックス奏者の阿部薫とも共演している(だが今のところ録音は発見されていない)。

 竹田賢一の著作集『地表に蠢く音楽ども』(2013年)に「〈学習団〉1.20総括」と題された二つのテクストが再録されているが、それらを読むと「学習団」の活動は音楽や芸術に留まらない、文化と政治の交点を理論的かつ実践的(実戦的)に追求する極めてラディカルなものであったことがわかる。だが彼らにとって、それはあくまでも「音楽」を革新するための運動であった。

 竹田は「〈学習団〉1.20総括(その一)」の冒頭で「この〈総括〉は学習団として討議されたものではなく、一応竹田賢一の私的な備忘録という建て前をとる」と断っているが、「一応」「建て前」とあるように、そこで示される理念は坂本龍一も共有していたものと思われる。「学習団」というネーミングの由来について、竹田は毛沢東の次の文章を引用する。

 書物を読むことは学習であるが、使うことも学習であり、しかも、それはいっそう重要な学習である。音楽によって音楽を学ぶーーこれがわれわれの主要な方法である。学校にゆく機会のなかった人でも、やはり音楽を学ぶことができる、つまり音楽のなかで学ぶのである。音楽の革命は民衆のやることであって、 先に学んでからやるのではなく、やり始めてから学ぶのが常であり、やることが学ぶことである。(『中国革命戦争の戦略問題』〔翻訳者記載なし〕)

 その上で、竹田は次のように記す。

 ぼくたちの行動あるいは漠然とした組織を〈学習団〉と名づけたのは、文字どおり、ぼくたちの音楽の変革に、そして音楽を透視して把握しようとする社会(世界)の変革に要求される理論を学ぶためである。 しかし、それはぼくたちの耳や目や手や、いうなれば六感すべてによって実際に確かめるところから始められなければならない、という認識も前提として存在していた。革命がマルクスの文献の上にあるのではなく、銃を取った大衆の喜びや苦しみの中にあるように、音楽の変革も楽典やグラフィック・スコアの上にではなく、音を出したりその音を聞く人間の営為の裡にあるのだから。(『地表に蠢く音楽ども』)

 坂本龍一は東京藝大に在籍してクラシック、現代音楽の作曲理論/技法を修め、プロのミュージシャンとしてジャンルを超えた数々の現場で腕をふるいつつ、並行して竹田賢一らとこのようなアンダーグラウンドな活動も行っていた。全方位という形容では到底収まらないほどの多面ぶりである。異常なエネルギーと言ってもいいだろう。あるいはそこには商業的な音楽業界(音楽の商業性)に染まっていくことへの意識的/無意識的な抵抗や、一種のバランス感覚が宿っていたと見ることもできるかもしれない。だが、ここで言っておきたいのは、坂本龍一がこれらの活動すべてにおいて、後に繋がるポジティヴな結果を出していったということである。彼は決して、いわゆる器用貧乏ではなかった。彼の過剰とも思える多面性は、彼の旺盛なる好奇心と、それに見合う、しばしばそれを超えるほどの才覚と能力の結果だった。いうなれば坂本龍一は「あれもこれも」の人ではなく、常に「あれやこれ、だけではない」と言外に述べているような音楽家だった。そしてそれはその後も半世紀にわたって継続したのである。

 「学習団」について、坂本龍一はこう語っている。「すごくいっぱい話をしました。毛沢東語録について議論したり、音楽を弁証法的に止揚するということで、音楽を消費の対象じゃなくて人民の元に返そうとか。そのために実際に工場に行って労働者のための演奏をしようとか。まあ、志は大きいのですが大したことはしなかった」(吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』)。「学習団」は1975年4月28日に西荻窪ロフトで「音と映像と朗読の儀式空間〝君が代〟」という最初の大規模な「学習会」を開催した。そこで坂本龍一は「君が代」をピアノで弾いた。彼はその後もこの「日本国歌」を、さまざまな機会に演奏、いや、批判的に変奏していくことになる。

 実は坂本龍一の名前が冠されたレコード作品は『千のナイフ』が最初ではない。「学習団」の活動の一環として、彼は「音と映像と朗読の儀式空間〝君が代〟」にも出演していたパーカッショニストの土取利行とのデュオ・アルバム『ディスアポイントメント - ハテルマ(Disappointment-Hateruma)』を、竹田賢一とリリース元でもあるコジマ録音のエンジニア小島幸雄プロデュースでリリースしている。1976年1月のことである(レコーディングは1975年の夏)。500枚の限定プレスのLPだったが、その後CDでリイシューされている。全4曲、トータル45分強のアルバムで、全編が鍵盤と打楽器と声による(ほぼ)即興演奏である。『地表に蠢く音楽ども』に再録されている竹田賢一のライナーノートによると、タイトルの「ディスアポイントメント」とはオーストラリアのギブソン砂漠にある「湖とはいえ雨季を除いて水はなく白い塩が視界を埋める「絶望の湖」」のことであり、「ハテルマ」とは波照間島、「沖縄がアメリカの占領統治から日本に返還されて以来、人が住む日本の最南端の島」である。

 なんとなく明るい印象を与える名前の波照間島の、赤道を挟んでほぼ対称の位置に、まるで、対照的なディスアポイントメント湖。

 北回帰線から南回帰線まで、希望から絶望まで、汗が飛び散る生音の応酬から飛び交う電子が微熱を発する合成音まで。土取利行と坂本龍一という、性格や資質はまったく違いながら、才能と意思がまさに開花しようとして一瞬交差した総延長が、『ディスアポイントメント - ハテルマ』の距離。(『地表に蠢く音楽ども』)

 沖縄がアメリカから日本に返還されたのは1972年5月、レコーディングの約3年前である。『ディスアポイントメント - ハテルマ』の録音は新宿の御苑スタジオで行われたので、ディスアポイントメント湖も波照間島も、いわば仮想上のトポスでしかない(竹田賢一はこの作品のモチベーションは「南へ」の関心だったと述べている)。竹田にとって、そして坂本龍一と土取利行にとって重要だったのは、両者のあいだに置かれた「 - 」という記号が孕み持つ「距離」であったのかもしれない。このアルバムには坂本龍一もライナーを寄せているが、そこにはこうある。「音楽という語が、現在それの周りに遍在させている様々な機能の再検討。個の同一性を前提としながら、自己のイメージを組織しているということを対象化していくのでなく、現実という制度が自己のアプローチを組織しているということを対象化していく様々なアプローチが、新たに〈制作〉と呼ばれるものになり変る」。この後にミシェル・フーコーの『知の考古学』からの引用が(またもや!)置かれている。

4 「坂本龍一」最初のアルバム、『千のナイフ』の誕生

 ひとりの人間とは到底思えない八面六臂の活躍、だがそれは明らかに過剰労働であった。いくら若かったとはいえ、体力的にも相当きつかったはずである。大学には行っていなかった。「学習団」とは主義主張のレヴェルで共振していた。辛かったのは、やはりミュージシャン仕事だった。

 大学を離れてYMOが始まるまでは、今で言うフリーター生活みたいなものでした。当時はそんな言葉はなかったので、日雇いって言っていたんですが。ちょっとした仕事に呼ばれて、出かけて行って、適当にこなす。まさに日雇い労働者みたいなものでした。そんなふうに、日々頼まれて書いたり弾いたりする音楽と、小さいころから少しずつ身につけてきた、クラシックを軸にした自分の音楽の世界との間には、やはり断絶というか、矛盾がありました。

 そういう矛盾を抱えたままで、いろんなジャンルの音楽やミュージシャンとの身体 的なレベルでの接触があったことは、良かったと思うんです。日本中で数百人しかいない現代音楽の聴衆を相手にしていてもしょうがない、と思っていたし、ポップ・ミ ュージックの中にはすばらしいものがあった。でも一方では、やっぱり音楽的ビジョ ンみたいなものが心の中にあって、もっと自分のやるべき音楽に打ち込むべきなんじ ゃないか、と思ったりもしていました。(『音楽は自由にする』)

 このあたりの葛藤を、彼はこの時期、ずっと感じていたのだろう。現代音楽の作曲家としての、たとえ「日本中で数百人しかいない」聴衆を相手にするものだとしても、それはそれなりにやり甲斐のある人生と、ギャランティ以外にもたくさんの得るものがあるが、しかし若き日の時間をどんどん食いつぶされていく日雇いミュージシャンの生活とのあいだで、引き裂かれていたのだ。

 それでもすでに、音楽は手っ取り早くお金を稼げる手段でもあったので、こまごまとした音楽の仕事は、当然そのまま続けていた。YMO結成前の2年ぐらいは、そんなふうにニヒリスティックに、半ば自暴自棄になって、かなり忙しく働いていました。 そうやって自分を未決定な状態に、宙づりにしておいたのは、何かの予感があってのことだったかもしれません。とにかく不遜でしたから、そのうちに何か自分にふさわしい生き方が見つかる、天啓みたいなものがある、そんな気がしていたのかもしれません。(同前)

 「音楽の日雇い仕事で夜中まで働いて、そのあと明け方まで、自分の機材を持ち込んでコロムビア・レコードの小部屋でちょこちょことレコーディングをする、というネズミのような暮らしを何カ月も続けて世に出した作品でした。そういう過酷な環境での創作活動を支えたのは何だったのかと振り返ってみると、それはやはり「ニヒルな日雇い労働者」の消耗からの回復を希求していたということだと思います」。こうして「坂本龍一」の最初のアルバム『千のナイフ』が誕生した。

 『千のナイフ』2016年版のブックレットには、リリース元の日本コロンビアの担当ディレクターだった斎藤有弘による回想録が掲載されている(聞き手と構成は吉村栄一)。それによると、斎藤と坂本龍一との出会いは、日本コロムビアのクラシック部門からリリースされた高橋悠治の『ぼくは12歳』(1977年リリース。12歳で自死した少年、岡昌史が遺した詩に高橋がメロディをつけ、中山千夏が歌ったアルバム)のレコーディングを見学に来た時だったという。当時、斎藤はイギリスのヴァージン・レーベルを担当していた。ヴァージンは1972年に設立された新興レーベルで、世界的に大ヒットしたマイク・オールドフィールドのデビュー作『チューブラー・ベルズ』(1973年)をはじめ、ドイツのファウストやタンジェリン・ドリーム、英国のヘンリー・カウなど、先鋭的・前衛的なバンドのアルバムを続々とリリースしており、それらは日本コロンビアからその国内盤が発売されていた。斎藤はヴァージンのリリースを坂本龍一が聴き込んでいることを知り、この知識豊富な青年にヴァージンのレコードの解説を依頼した。

5 「第三世界」への志向、「社会の悪」への批判意識

 坂本龍一が執筆したタンジェリン・ドリームのキーボード奏者ピーター・バウマンの『ロマンス'76』(日本盤リリースは1977年。バウマンのファースト・ソロ・アルバムで、この直後にバンドを脱退する。J・ディラ(Jay Dee)が度々サンプリングしたことでも有名)のライナーノートの書き出しは、以下のようなものである。

 音楽とは常に日常とは異なる時間空間への旅 (トリップ) ではないだろうか。さらにいってみればトリップとはトリップする個の志向的感性ではないだろうか。 そしてその感性とは、 いわゆる知的作業をも含んだうえでの知性のことではないだろうか。

 そのような知性は、かつて例えば内奥のアマゾンのインディオや迫害され同化を余儀なくされる以前のアイヌや、その他の静かで優しく摂理に同化して生きることを学びとっていたであろう民族の共同体的知の中には確かに存在していたであろうと思われる。 それがいつしか忘れられ、或いは忘れさせられ、それにとって代わるものとして、ものをひたすら分解し、個々の事象を可能な限りバラバラにして理解しようとする西洋近代的 (デカルトにより始まる)な 「知的」な方法論が、たんに方法という身分を越えて一つの世界観にまでのし上ってきてしまった。 そのような世界観がつくりだした社会というのがどのようなものであるかは、例えばコンピューターによる国民総背番号的な全体主義的管理社会の実現可能性と、もう一方でその裏に醜悪な毒物たれ流し公害や、 全地球的な自然破壊といった、人間を含めた生物の存続を奪うような社会である。

 音楽やその他の文化 (人間の知恵) がそのような社会の悪から逃避し、目をそらさせるものとしてしか役割をもっていないのであれば、あまりにも悲しいことであろう。(『ロマンス'76』解説)

 かなり気合いの入った、そしていささか硬い文章ではあるが、いわんとしていることは明確である。アルバムについての解説はこの後半に書かれてある。「この様にプログレッシヴ・ ロックと呼ばれるものの中の1部の音楽が第三世界の文化的な要素にも相通じるものとなってきているのは、やはり冒頭に述べた非西洋近代的な知性を志向するという側面と切り離すことができないのではないか。そしてロックが第三世界的なものと浸透していくという側面はやはりあの60年代のハード・ロックがインド音楽等に触発された時期に発するし、もっとさかのぼれば、ロックン・ロール自体、白人的なものと、 ラテン的なもののアメリカ的融合であるといえるかもしれない」。これは坂本龍一自身の当時の関心の所在と問題意識を示すものだろう。坂本龍一はロクに行かなかった東京藝大で小泉文夫の講義にだけは熱心に出席していた。「非西洋近代」と「第三世界」への志向には小泉からの影響が窺える。「社会の悪」への強い批判意識がはっきりと刻まれているのも印象的だ。

6 傑作『海や山の神様たち』への参加

 注目すべきは「迫害され同化を余儀なくされる以前のアイヌ」という記述である。これに先立つ1975年、坂本龍一は六文銭の及川恒平が構成を手がけた企画盤『海や山の神様たち -ここでも今でもない話-』に参加している。このアルバムは、北海道出身の及川がアイヌ文化をテーマに制作したもので、全曲の作詞を及川が、作曲を坂本龍一が、編曲を山下達郎が手がけている。歌は少年少女合唱団みずうみ、シュガー・ベイブもコーラスで参加している。坂本龍一は及川と面識があったが、坂本が起用されたのは、藝大で小泉文夫に学んでいることも関係していたかもしれない。『Year Book 1971-1979』には「星のある川(リコップオマナイ)」が収録されている。「当時はまだアイヌ音楽のレコードはほぼ無いにひとしくて、それを参照はできなかった。それよりも、こどもが歌うというならメロディーがきれいなものがいい。スタイリスティック的な曲にしようと思って書いた憶えがあります。この前の年くらいに鈴木茂にブラック・ミュージックをいろいろ紹介してもらって、こんな世界があるんだ! おもしろいなあと、勉強と趣味をかねてソウルやファンクにどっぷりとつかっていました。いまだったらアイヌ音楽の知識もあるので、ずいぶん違ったものを作るでしょうね」(『Year Book 1971-1979』ブックレット)。確かにアイヌ音楽の要素は皆無と言っていいが、このアルバムは傑作である。スタイリスティック的と言われるとなるほどと思う、ソウルやゴスペルからの影響を、あからさまにではなく感じさせる魅力的なメロディ・ラインは、坂本龍一がのちに手掛ける歌謡曲~Jポップの楽曲を予告している。山下達郎の流麗なアレンジも素晴らしい。時期的に言ってアイヌの音楽を参照できなかったことは致し方なかったのかもしれないが、しかし坂本龍一は、一方でその時の自分の音楽的関心に即した、取りようによっては音楽家の身勝手なエゴとも謗られかねないーー実際にそのような批判の声がこの時期の彼の仕事に向けられることもあったーー仕事をしつつも、もう一方でアイヌの人々に対する共感の意識はしかと持ち合わせていた。ピーター・バウマンのアルバムの解説文にアイヌへの言及がいささか唐突に記されるのは、この時のことが記憶にあったからなのかもしれない。

 『海や山の神様たち』はビクター音楽産業の学芸部からリリースされたが、この仕事が縁となって、坂本龍一は翌年(1976年)にビクターの同じ部署から出た富岡多恵子のアルバム『物語のようにふるさとは遠い』でも全曲の作曲と編曲を手掛け、ピアノ、キーボード、ドラム、パーカッション、ヴィブラフォンなど多数の楽器を演奏している(作詞はもちろん富岡自身)。偶然にも富岡は、坂本龍一の母、敬子の大阪女子大の同窓生で、友人関係にあった。だが、このアルバムの制作時点では、富岡も彼も、そのことをまったく知らなかったという。詩人で小説家の富岡にとって唯一の歌唱アルバムとなった同作からは「中折帽子をかむったお父さん」が『Year Book 1971-1979』に再録されている。プロのシンガーとはまったく違う富岡の情念に満ちた歌唱が強烈な印象を与えるが、瀟洒で華麗なバック・サウンドとブルース的な旋律が独自のバランス感覚で融合しており、音楽的なクオリティは極めて高い。ちなみに富岡多恵子は坂本龍一の死が公表されて間もない今年の4月8日に亡くなっている。

 同年、坂本龍一は『物語のようにふるさとは遠い』とはまた異なるタイプの、だが同じくらい異色作と言うべきアルバムにも参加している。フォークシンガーの三上寛がプロデュース(中島貞夫と共同)した『ピラニア軍団』である。ピラニア軍団は東映京都撮影所で、脇役、端役、特に悪役を演じていた無名の大部屋俳優たちーー川谷拓三、小林稔侍、室田日出男などーーが結成した集団で、三上は彼らにシンパシーを抱いてアルバムを制作した。作詞作曲は三上だが、坂本龍一は約半数の曲でアレンジを担当、そのうちの一曲で志賀勝が歌う「役者稼業」を『Year Book 1971-1979』で聴くことができる。アルバムのレコーディングには、林立夫やかしぶち哲郎、伊藤銀次、村上ポンタ秀一、浜口茂戸也など、そうそうたる顔ぶれが参加している。三上が書いたメロディはそれだけ聴けば演歌のように思えるところもあるが、坂本龍一の編曲はジャジーで洒脱、小気味好くも音楽的アイデアに富んだもので、演奏メンバーのソロも聴きどころが多い。

 『海や山の神様たち』『物語のようにふるさとは遠い』『ピラニア軍団』と、ごく短い期間に坂本龍一が参加したアルバムはいずれも秀抜な仕上がりであり、いま聴き直しても多くの発見に満ちているが、先にも述べたように、雇われ仕事に乗じて自分の好き勝手をやっているという反応もなくはなかった。本人も『Year Book 1971-1979』のブックレットでこう述べている。「当時は“ピラニア軍団” という名前も存在も知らなかったし、こわそうな人たちだし、どう編曲していいのかわからなかった気もしますけ ど、でも、聴くとやはり悩んでないですね(笑)。富岡さんの ときとも似て、 基本的に歌や歌詞のことはまったく考えてないことがよくわかります。 大貫妙子さんや矢野顕子さんのアレンジをやるようになってから、 いつもいつも 「歌を本当に聴いてないわね』 と怒られることになるんですけど(笑)、 これもそう。 歌を完全に無視して、ソウルなサウンドを作りたいからこうしましたっていうのがわかります」。その作品が前提として求めている方向性をほとんど無視して、とにかく自分自身の音楽性の変容と拡張を実験し追究しようとする、発注元からすればいささか困りものであったろうこのようなスタンスは、なかば無意識のものだったのだろうが、時には多少の問題を惹き起こしながらも、結果としてできあがった音楽の斬新さによって、ことごとく「あり」になっていったのだった。

7 『千のナイフ』に注ぎ込んだ339時間

 ここでようやく話を『千のナイフ』への道程に戻そう。その後、斎藤有弘が制作した渡辺香津美のアルバム『オリーブス・ステップ』のレコーディングに参加していたつのだ☆ひろの推薦で、坂本龍一がキーボード奏者としてやってきた。斎藤はこう述べている。「『オリーブス・ステップ』での彼の演奏はすばらしく、渡辺香津美というギタリストのこれまでの成果と、未来を切り開く両側面を十分にアピールし、 その後の音楽シーンを予兆させるものになったと思います。 そして、後の「坂本龍一 + 渡辺香津美」のコラボレーションの先駆けになったという意味でも意義が大きかったのではないでしょうか?」(『千のナイフ』2016年版ブックレット)。周知の通り、渡辺香津美はYMOに重大な貢献を果たすことになる。

 このレコーディングの時、坂本龍一は斎藤にソロ・アルバムを作ってみたいと漏らした。乗り気になった斎藤は会社に掛け合って、昼間はトラックダウンに使われているコロンビアの第4スタジオという小さなブースを、夜の間だけ、若きミュージシャンのアルバム作りのために自由に使わせることにした。「しかし、この後、第4スタジオが大変な時間を坂本龍一に占有されてしまうことになるとは露ほどにも予感していませんでした(笑)」(同前)。結果としてレコーディングは1978年の4月から7月までの丸3カ月以上、なんと339時間を費やした。坂本龍一は日中は「日雇い」をしていたのだから、作業が出来るのは夜だけである。一体いつ寝ていたのだろうか?

 その時点では、ではどういう音楽を作りたいのかという明確なヴィジョンというものはなかった。

 ただ、なんとなく「ダス・ノイエ・ヤパニッシュ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート」 のような方向性は考えていたと思います。

 当時すでにクラフトワークが好きで、ああいう音楽とぼくのルーツである現代音楽な どを融合することができないかと考えていたんじゃないかな。

 いまでもそうですが、ぼくはいつもいろいろなジャンルの音楽を同時並行的に聴いているし、好きなので、その時点で興味のある音楽の要素をそのときどきに作るものにすべて注ぎ込む傾向があります。

 このときは、レゲエ的、あるいは日本的な田植え歌のような腰が落ちているリズムに、コンピューターによる打ち込みのリズムとシンセサイザーのオーケストレーションを融合させたらおもしろいものができるんじゃないかと考えていたと思う。

 なので統一されたコンセプチャルな音楽というよりも、自分が興味を持ついろいろな音楽の要素をときに20%ずつ、あるいはこの要素が10%で、あの要素が17%ずつといったふうに入れ込んでいったんでしょう。(「『千のナイフ』という乱暴」)

 「ダス・ノイエ・ヤパニッシュ・エレクトロニッシェ・フォルクスリート=DAS NEUE JAPANISCHE ELEKTRONISCHE VOLKSLIED(新日本電子的民謡 )」とは『千のナイフ』B面1曲目の曲名である。ここで語られている一種の折衷主義――ポストモダン的手法と呼んでもいい――は、のちのアルバムでより一層過激に展開されていくことになるのだが、すでに『千のナイフ』にはその萌芽がはっきりと現れている。

 それではそろそろ『千のナイフ』を聴いてみよう。

https://www.webchikuma.jp/articles/-/3235


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【なんて読む?】今日の難読漢字「柳葉魚」

2023-09-14 | アイヌ民族関連

ねとらぼ2023年9月13日(水)7時45分 

 読めるとうれしいし、読めないとちょっと勉強になる難読漢字クイズ。今日の問題はこちらです。

 今回の問題は「柳葉魚」。

 「柳の葉っぱの魚」と書いて、さて何の魚でしょうか? 答え合わせの前に、ヒントを見たい人は下記参照。

 ヒント1:おいしい

 ヒント2:柳の葉っぱみたいに細長い魚

●答え

 答え:ししゃも

 魚の「シシャモ」は北海道太平洋側に分布する魚で、この名前は「柳の葉」を意味するアイヌ語に由来するという。

 ちなみに、この北海道のシシャモは価格が高く、食卓でおなじみなのは「カラフトシシャモ」と呼ばれる代用魚。

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0913/nlb_230913_6070675745.html


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[時代の証言者]グレートジャーニー 関野吉晴<31>西洋医学だけじゃない

2023-09-14 | 先住民族関連

読売新聞2023/09/14 05:00

グレートジャーニー 関野吉晴

 手作りの木造帆船でインドネシアから日本を目指す航海は、2011年6月に終わりました。足かけ10年かけて旅した「グレートジャーニー」、これに続く8年がかりの「新グレートジャーニー」。人類拡散の足取りをたどる一連の旅がようやく幕を閉じました。

 立ち止まれない性分なのでしょう。3年にわたる航海を終えた僕は翌年、探検家人生の原点であるアマゾンに向かいました。ペルーの先住民マチゲンガ族の村を訪ね、大学時代からつき合いのある一家と再会しました。

 僕が「トウチャン」と名づけた家長は亡くなっていましたが、出会った頃、1歳だった「ゴロゴロ」は40歳になり、村にできた小学校のPTA会長になっていました。腰巻きを身につけていた村人も今はほとんどが洋服姿。食料と鉄器以外の生活用具は、すべて自然から調達していた村にも、プラスチック製品が入り込んでいた。別の村の寄宿舎で暮らす高校生の中には、携帯電話を持つ者もいました。

 伝統的な暮らしが変わっていくのは寂しい気もしますが、日本の男性も、今から150年ほど前まではちょんまげだった。生き方を決めるのは先住民自身です。

残り:673文字/全文:1279文字

読者会員限定

https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20230913-OYT8T50067/


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マーティン・スコセッシ監督、新作で「白人中心」を考慮し脚本変更

2023-09-14 | 先住民族関連

BANG Showbiz 2023/09/13

マーティン・スコセッシ監督が、「白人中心の映画を作っている」という懸念から、新作『花殺し月の殺人』を書き直し、レオナルド・ディカプリオの役柄を変更したと明かしている。『タクシードライバー』のスコセッシ監督はエリック・ロスと組んで、デイヴィッド・グランが2017年に出版した犯罪ノンフィクション『花殺し月の殺人』を基にした映画の脚本を執筆、当初ディカプリオは特別捜査官のトム・ホワイトを演じることになっていた。

同書では、1920年代を通してオクラホマ州で起きたアメリカ先住民オセージ族の殺人事件に関するFBIの捜査を追っている。

しかし結局、スコセッシ監督は脚本を全面的に手直し、アーネスト・バークハートというキャラクターと、モリーというオセージ族の女性との結婚の物語に焦点の舵を切ったという。

監督はこのような思い切った変更を行った理由について、タイム誌にこう語った。「ある時点から、私は白人中心の映画を作っていることに気づいた。つまり、外側からアプローチしていることに気づいたんだ」

脚本の手直し後、スコセッシ監督はディカプリオにアーネスト役を、ジェシー・プレモンスにトム役を与えた。アーネストの妻モリーを演じるリリー・グラッドストーンは、最初のオーディション後から新型コロナウイルス感染のパンデミックによる製作の停滞を経て、役柄や台詞の変更に驚き、「脚本が180度変わったと聞いていた」と最近インタビュー誌に明かした。

https://nordot.app/1074818242866709420


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「TNFDの情報開示はどうする」WWFジャパンが南三陸町のFSC認証林で検証

2023-09-14 | 先住民族関連

オルタナ9/13(水) 8:03

■記事のポイント ① TNFD正式版の公開を前に、WWFジャパンがパイロットプロジェクトを行った  ② 南三陸町のFSC認証林で「LEAP」を用いた情報開示について検証した  ③企業がTNFDで開示する情報の収集に、FSC認証が有効なことを証明した

TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)正式版の公開が、9月18日に迫っている。企業はそこで開示する情報を、どう収集すれば良いのか。WWFジャパンは一つのケーススタディとして、宮城県・南三陸町のFSC認証林でパイロットプロジェクトを実施。TNFDが定める「LEAP」と呼ばれるガイダンスを用いて検証を行い、FSC認証が情報収集に活用できることを明らかにした。(オルタナ副編集長・長濱慎

■TNFDを特徴づける「LEAP」ガイダンスとは

TNFDは、企業のビジネスが生物多様性などの自然環境に与える影響やリスク・機会に関する情報を、投資家に開示するためのフレームワークだ。金融の流れを自然環境にとってプラスの方向にシフトさせることを目的としており、先行して導入されたTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の自然版といえる。

しかし、CO2排出量など指標がはっきりしているTCFDと異なり、TNFDでは森林、海洋、淡水、野生生物などさまざまな指標が複雑に関わってくる。特に「場所」に紐づいている点が重要で、例えば原材料の調達に関する情報については生産地までさかのぼり、その場所の状況を把握しなければならない。

この作業を少しでも容易にするため、TNFDは「LEAP」というガイダンスを用意した。LEAPは大きく4つのフェーズからなる。

・L(Locate・発見):自社ビジネスと自然の接点はどこにあるのか。その場所を上流・下流を含むバリューチェーン全体から発見する。

・E(Evaluate・診断):特定した場所で自社ビジネスが自然にどう依存し、どんなインパクトを及ぼすのかを診断する。

・A(Asses・評価):自社ビジネスが自然に与えるリスクと、そこから得られる機会を評価する。

・P(Prepare・準備):L、E、Aの分析結果を踏まえ、情報開示に向けて準備する。

■TNFDとFSCに高い親和性が認められる

LEAPで実際に情報収集を行った場合、どのような流れになるのか。WWFジャパンは一つのケーススタディとして、宮城県・南三陸町のFSC認証林でパイロットプロジェクトを行った。

FSC認証は、森林の生物多様性を守り、地域社会や先住民族、労働者の権利を守りながら適切に生産された製品を消費者に届けるための認証制度として1993年に始まった。南三陸町は2015年にFSCを取得し、同認証が定める10の原則と70の基準に則って森林保護などの取り組みを進めている。

パイロットプロジェクトは「バリューチェーン下流の企業が原材料の木材調達に関する情報を、上流の生産事業者に問い合わせて収集するケース」を想定。「FSC認証の要求事項に沿って管理される森林は、LEAPが求める情報に対してどの程度応えることができるのか」を検証した。

具体的にはWWFジャパンがLEAPに沿って質問を行い、南三陸森林管理協議会がそこに整合するFSCの原則・基準を選んで回答するかたちで進めた。

Lについての質問は「協議会が管理する認証林にはどのような自然があり、中でも重要な場所はどこか」、Eについては「認証林内で協議会はどのような活動をしており、その活動を続けるにはどのような自然の恵みが大切か」など、わかりやすさと回答のしやすさを考慮した。

結果は上の表のようになった。LEAPの4フェーズには、それぞれ4つずつ確認項目がある。表は、4フェーズ・計16の確認項目とFSC認証の整合性を色で示したものだ。結果はLとEで整合性が高く、Aはリスクに関しては高いものの機会に関しては限定的となった。Pは情報収集のフェーズではないため、整合性は評価しなかった。

WWFジャパン森林グループの天野陽介氏は、「FSCは LEAPが求める情報をほぼ持ち合わせていることを明らかにできた。認証林でなければ、ここまでの情報を引き出すことは難しかったかもしれない」と評価し、こう続ける。

「ただしそれらの情報をそのまま使えるわけでなく、TNFDに沿った紐付けや重みづけが必要になる。例えばFSCはリスクに重きを置いているため機会はそれほど意識していないが、TNFDの文脈ではリスク対策の取り組みをビジネスの機会につなげられるケースも少なくない」

■「森林の環境価値」の捉え方がポイントに

上の表は「L」の4項目について抜粋し、FSC認証の各原則・基準との整合性を詳細に示したものだ。「原則6:豊かな森林の自然環境を守る」との整合性が目立つ。EとAについても同様に、原則6と紐づく項目が多い結果になった。

FSCの国内基準策定に関わったメンバーでもある、WWFジャパンの橋本務太 (むたい)・金融グループ長は結果についてこう分析する。

「原則6は、多面的機能の維持や保全・復元をうたっている。多面的機能とは森林の環境的な価値を意味しており、生物多様性、水資源、土壌、大気、景観などさまざまな要素を含む。ここはまさに経済・環境・社会の全てを重視するFSCとTNFDが重なる部分であり、予想通りの結果になった」

橋本グループ長は、企業が「現場の目」を持つことが重要だと指摘する。

「TNFDの文書を読めば概念は理解できるが、現地に足を運べばその内容が腹落ちするはず。今回は国内のFSC認証林で情報収集に良好な条件が揃っていたが、調達先が海外であっても同様に取り組んでほしい。これは新しいことを求めているのではなく、従来のバリューチェーン管理の延長線上にある」

EとAの結果も含むパイロットプロジェクトの詳細は、WWFジャパンがホームページで公開している。

■生産現場を知り「顔が見える関係」の構築を

相馬真紀子・森林グループ長は、こう続ける。

「マクロでバーチャルな情報から戦略を考えることはもちろん重要だが、一次生産者と顔が見える関係を築くことも同じぐらいに重要。自社はどこで原料を調達し、それが自然破壊や人権侵害を引き起こしていないかを確かめるには生産現場まで遡るしかない」

相馬グループ長は「現場を知ることで、リスクを機会に変えるヒントが見つかる可能性も広がる」とも指摘する。

今回のパイロットプロジェクトは、23年8月時点で最新だったTNFDベータ版(草稿版)のバージョン0.4を用いた。9月18日公開の正式版では変更される部分が出る可能性に留意する必要がある。

WWFジャパンはRSPO (持続可能なパーム油のための円卓会議)、ASC(水産養殖管理協議会)、 MSC(海洋管理協議会)など他の認証でもLEAPとの整合性を期待しているという。

https://news.yahoo.co.jp/articles/ab6d7269fbd9e13ade5ce1c1eae1e9c31d458c3d


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アメリカの火山の地下に史上最大規模のリチウムが埋まっている鉱脈が発見される

2023-09-14 | 先住民族関連

カラパイア2023年9月13日(水)8時10分

 アメリカ、ネバダ州タッカー峠にある大昔の火山跡「マクダーミット・カルデラ」の一部には、史上最大規模のリチウム鉱脈が眠っているといわれている。

 そこに埋まっている「イライト」という粘土状の鉱物には、カルデラで一般的に見られる粘土鉱物の2倍ものリチウムが含まれており、今後アメリカ国内における重要なリチウム生産拠点になると期待されている。

  『Science Advances』(2023年8月30日付)に掲載された研究によれば、1600万年前の噴火で崩壊した火山のマグマが関係しているという。

・アメリカ最大規模のリチウム鉱脈

 スマホから電気自動車まで、リチウム電池は私たちの生活のさまざまなところで使われており、その世界需要は2030年までに5倍に成長すると予測されている。

 きわめて重要な資源だが、現時点でリチウムの産出国は主にオーストラリア、チリ、中国、アルゼンチンの4か国で、大きな偏りがある。

 そこで米国政府は、クリーンエネルギーの目標を達成するため、自国内でリチウムを生産しようとしている。

 その一つが、カナダの採掘企業「リチウム・アメリカズ社」が採掘を開始したネバダ州タッカー峠にあるリチウム鉱脈だ。

 ここは巨大火山の名残とされる「マクダーミット・カルデラ」の一部で、ネバダ州とオレゴン州にまたがる1000平方kmの範囲には、世界最大級のリチウム鉱脈が眠っていると考えられている。

 リチウム・アメリカズ社が掘ろうとしているのは、マクダーミット・カルデラに大量に埋まっている「イライト」という粘土状の鉱物だ。

 このイライトには、カルデラで見られる一般的な粘土鉱物の2倍ものリチウムが含まれており、バッテリーの素材となる高品質のリチウムを生産できると期待されるのだ。

 だが問題は、「なぜマクダーミット・カルデラにはそんなにも大量のリチウムが眠っているのか?」ということだ。その秘密が解明されれば、どこにリチウムが眠っているのかもっと正確に位置を特定できるようになる。

・火山のマグマが地下のリチウムを押し出した可能性

 かつてマクダーミットに存在した火山は1600万年前に噴火して崩れ、イライトが大量に眠るカルデラを残した。

 これまでの研究では、そこに含まれるリチウムは火山ガラスから溶け出して、たまったものだろうことが明らかになっている。

 だがリチウム・アメリカズ社の世界探査担当副社長であり、コロンビア大学の非常勤准研究員でもあるトーマス・ベンソン氏によれば、それだけではリチウムを豊富に含んだイライトが形成されたプロセスのすべてを説明できるわけではないという。

 そこでベンソン氏らの研究チームは、その豊富なリチウムの起源を明らかにするべく、カルデラ南部からサンプルを採取して分析を試みた。

 そこから導き出された仮説は、火山が崩壊したあとで、「熱水濃縮」と呼ばれる2番目の出来事が起きたというものだ。

 地下を流れるマグマがカルデラの中心部を押し上げて出来上がったのが、現在のモンタナ山脈だ。そして、このときに断層や亀裂といったものも生じている。

 マグマはこうした亀裂から地表に流出。地下にあったリチウムを地表にまで運び、カルデラ南部の縁に沿って粘土鉱物をイライトに変えていった。

 この鉱床が特別なのは、もともとリチウムが豊富だったところへ、さらにリチウムたっぷりの流体が大量に流れ込み、広範囲でリチウムを濃縮させたことだという。

 現時点においてこれはあくまで仮説で、決定的な証拠に欠けているし、疑問に思える部分もある。

 たとえば、モンタナ山脈を作り出したマグマの働きは、カルデラの北部にも断層を残している。今回の仮説が正しいのならば、そこにもイライトがあるはずだが、そうではない。

 ベンソン氏によれば、その原因は、カルデラ北部では熱水濃縮が起きていないことであるという。ゆえにリチウム・アメリカズ社が狙うのもカルデラ南部となる。

・リチウム採掘ははじまったばかり

 今のところ、リチウム・アメリカズ社が米国で採掘を進めているのはタッカー峠だけだ。

 実は今回のリチウム採掘は、アメリカ先住民族・環境保護団体・地元の牧場主たちから激しく反発され、長い法廷闘争が繰り広げられてきた。

 リチウムの採掘の工事が開始されたのはようやく今年になってからのことで、2026年までのリチウム生産が予定されている。

 またこれに関連し、米国の大手自動車メーカーゼネラルモーターズ社は1月、リチウム・アメリカズ社に6億5000万ドル(約950億円)を出資し、採掘の第一段階におけるリチウムを独占的に入手する権利を手に入れたと発表している。

References:Hydrothermal enrichment of lithium in intracaldera illite-bearing claystones | Science Advances/ The key ingredient to millions of EVs is buried under a former volcano ― but there’s still a lot we don’t know - The Verge/ Colossal Cache of Lithium Found in US May Be World's Largest/ written by hiroching / edited by / parumo

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0913/kpa_230913_7415872346.html


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軍事独裁政権下のチリで乳児連れ去り、欧米で養子に…組織的な人身売買の実態

2023-09-14 | 先住民族関連

日刊サイゾー2023/09/13 08:00

文=言問通(フリージャーナリスト)

 軍事独裁政権下で生まれたばかりの乳児が病院からさらわれ、勝手に養子にされていた。役人や医師、裁判官らが共謀し、欧米に送られた。9月11日、南米チリではピノチェト将軍による軍事クーデターから50年を迎えた。米国が支援した独裁政権下では乳児の連れ去りが組織的に行われた。チリでは軍政に反対する多くの市民が逮捕され、処刑、拷問の犠牲となったが、軍政の闇は乳児にものしかかっていた。

 チリでは1970年、民主的な選挙によってアジェンデ大統領率いる左翼政権が誕生した。最大産業である銅採掘の国有化や土地制度の見直しなど、強固な社会主義政策が導入された。このため左右両派の政治的対立が先鋭化し、経済は混乱した。

 東西冷戦の只中、ラテンアメリカでの社会主義化の拡大を食い止めたい米国は、アジェンデ政権打倒に向けた秘密工作を繰り広げた。CIA(米中央情報部)はアジェンデ政権に反対する民間企業や軍に深く入り込み、社会情勢を不安定にさせる陰謀に多額の資金を投入した。

 1973年9月11日、ピノチェト将軍率いる軍がクーデターを決行した。投降を拒否するアジェンデ大統領がいる大統領宮殿を空爆するなどして実権を掌握、16年以上に及ぶ悪名高い軍事独裁政権がスタートした。アジェンデ大統領は、軍が大統領宮殿になだれ込む直前に自殺したとされている。

 このクーデターを題材にした映画「サンチャゴに雨が降る」(1975年、フランス・ブルガリア合作)は各国で上映され、ピノチェト独裁政権とそれを庇護する米国に対する強い怒りが世界に広がった。

 そのチリで、生まれたばかりの乳児が病院から連れ去られ、欧米で養子縁組されるという「人身売買」が組織的に繰り返されていた。チリではピノチェト独裁政権が誕生する以前の1960年代から連れ去りがあったとされるが、独裁政権になって本格化した。これまでの調べでは連れ去られた乳児は2万人を超えるといわれる。

 病院で出産直後、検査などの名目で母子が離れた際、乳児が連れ出された。病院は母親には「赤ちゃんが病気で死亡した。既に荼毘(だび)に付された」と説明していた。軍事独裁政権の元で医師や看護師、ソーシャルワーカー、教会の聖職者、裁判官らが共謀していたため、おかしいと思った親が訴えても誰も取り合わなかった。

 主に先住民のマプチェ族ら低所得層や母子家庭が標的となったとされ、連れ去られた乳児は米国やカナダ、オランダ、ベルギー、フランス、イタリア、ドイツなどで強制的に養子縁組され、事情を知らされていない養子希望者の親に育てられた。

 一連の流れの中で、関係者は報酬や賄賂を得ていたとされ、軍政下での「人身売買」の仕組みが出来上がっていた。

 この事実は1990年にチリが民政化された後も、しばらく表面化しなかったが、2014年、チリの報道機関が報じたことで世界が知ることとなった。自分がチリで生まれたと聞かされていた人々が続々と調査団体に名乗り出た。チリの支援者組織によるとこれまでに約650人が実の親との対面を果たしたという。8月にも米バージニア州に済む42歳の男性が、チリ中部のバルディビアに住む実の母親と再会し、米国で広く報じられた。

 ピノチェト独裁政権は民主化を訴える市民を容赦なく弾圧した。逮捕、処刑、拷問が繰り返され、4万175人が思想弾圧の対象となった。このうち3000人以上が死亡、現在も1469人の消息が分かっていない。

 ピノチェト独裁政権が乳児の連れ去りを組織的に行ったのは、少しでも貧困層を少なく見せるためだったという。貧困層の乳児を国外に連れ出してしまうことで、貧困層の人口を抑え、経済政策が成功していることを世界に知らしめようとした。

 独裁政権による乳児連れ去りはチリだけではない。隣国アルゼンチンでは1976年から1983年まで軍事独裁政権だったが、この間、約3万人が弾圧の対象となり逮捕、処刑、拷問された。

 政治犯を収容する刑務所で反体制派の女性が出産すると、その乳児をすぐに取り上げ、母親は処刑された。乳児は軍関係者や独裁政権の支持者らの養子となり、独裁政権に忠誠を誓うように育てられた。

 実の親から引き離された乳児は少なくとも500人はいるとされている。これまで、このうちの130人が実の親と再会した。

 スペインでは1936年から1975年までフランコ独裁体制が続いた。反体制派の子供が独裁体制に反対する思想を持たないよう、政権は思想弾圧の対象となった国民が生んだ乳児を出生後すぐに連れ去った。その数は30万人を超えるといわれる。

 いずれのケースも悪行の実態は十分に解明されておらず、独裁政権の闇は今も世界にのしかかっている。

https://www.cyzo.com/2023/09/post_355932_entry.html


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有機フッ素化合物「PFAS」による水質汚染、被害が大きい沖縄と東京多摩地区での実態と住民が抱える不安

2023-09-14 | ウチナー・沖縄

女性セブン2023.09.14 07:00 

2020年、米軍による泡消火剤の漏出(宜野湾市提供)

「子供たちの未来を創るための命の水を返してください。私たちはこの島に、ずっと住み続けていきたい。きれいな水とともに──」。今年7月、スイス・ジュネーブにある国連欧州本部の会議場に高らかな声が響いた。声の主は「宜野湾ちゅら水会」共同代表の町田直美さん。沖縄県宜野湾市でカフェを営む彼女は、沖縄の米軍基地由来とされる有機フッ素化合物「PFAS」による水質汚染の解決を求め、国連の「先住民族の権利に関する専門家機構」に参加。冒頭の声明を読み上げたのだ。

「沖縄では水道水や土壌に、人体に有害だとされるPFASが高濃度で含まれていることがわかっています。原因は米軍基地で使われた泡消火剤だとされており、政府にも米軍にも汚染源の特定や基地への立ち入り調査などを訴えているのに、まともに取り合ってくれなかった」(町田さん・以下同)

 その悔しさを訴えたいという一心で町田さんはスイスへ飛んだ。

「国連に訴えるのは簡単なことではなかったし、まだ解決したわけではないけれど、私たちが行動することによって行政を動かしていくしかない。特に小さな子を持つお母さんたちから、不安の声が多く上がっています。国連が調査し、日米両政府に勧告してくれることを期待しています」

 町田さんの声に後押しされるように、沖縄県は8月21日から全国に先駆けて、土壌におけるPFASの残留実態調査を開始。今年度末までに分析結果を公表する予定だ。

 PFASとは発がん性が疑われる「有機フッ素化合物」の総称で、PFOS、PFOAなど1万種類以上がある。科学ジャーナリストの植田武智さんが解説する。

「テフロン加工や撥水加工などに用いられるもので、分解されにくく残留しやすい性質を帯び『永遠の化学物質(フォーエバーケミカル)』とも呼ばれます」

 長く体内に留まることにより、健康被害も起こす。

「アメリカの研究では妊娠高血圧及び妊娠高血圧腎症、精巣がん、腎細胞がん、甲状腺疾患、潰瘍性大腸炎、高脂血症を引き起こすことがあると指摘されている。特に子供や胎児への影響も懸念されます。北海道大学の追跡調査では妊娠中の母親の血中PFAS濃度が高いと、生まれてきた子供に出生体重の減少、甲状腺ホルモンや性ホルモンの異常、免疫力低下、神経発達の遅延、脂質代謝異常などのリスクが生じるとの結果が示されています」(植田さん)

 危険性を認識したアメリカでは規制が順次強化されており、今年3月に米環境保護庁が初めて発表した飲み水の規制値案は、PFOSとPFOAはそれぞれ1リットルあたり4ng(ナノグラム)となった。一方、日本では環境省による暫定指針値が定められているのみであり、それもPFOSとPFOAを合わせて50ngまで。米基準と比べると、非常に緩いと言わざるを得ない。

小さじ1杯の泡で貯水池を汚染する

 太陽の光を浴びて輝くハイビスカスにエメラルドグリーンに輝く美ら海。風に揺れるさとうきび──美しい自然環境にある沖縄だが、現地の住民は知らぬうちにPFASの脅威にさらされてきた。沖縄の地元紙「琉球新報」記者・安里洋輔さんが説明する。

「沖縄でPFASの問題が顕在化したのは2016年1月。米軍嘉手納基地を通る大工廻川や同基地周辺の比謝川で国が定めた暫定指針値を大幅に超える高濃度のPFOSが検出され、大きな問題となった」

 PFASは、ストックホルム条約(2001年)で国際的に製造・使用が制限され、国内でも原則的に使用・製造が禁止されている。だが、基地内では航空火災に用いる泡消火剤として使用が続けられ、県内各地の米軍基地周辺で高濃度での検出が相次いでいる。

「2022年、市民団体が行った血中濃度検査を受けた387人のうち、アメリカの目安値を超えた人が40.1%(155人)いました。彼らの多くは基地周辺に住んでいて、汚染が米軍由来である可能性は極めて高い。にもかかわらず、県が汚染源特定のために求める立ち入り調査を米軍は拒否し続けているのです」(安里さん)

 宜野湾市内で高濃度のPFAS(令和4年度冬季調査でPFOS、PFOAの合計890ng/l)が検出された湧水「喜友名泉」を訪ねた。カーグヮー・ウフガーと呼ばれる2つの石造湧泉で構成され、国の重要文化財にも指定されている。この泉の近くで育った女性(77才)が話す。

「アメリカ統治下の時代、小学生の頃に水道が通りましたが、私はずっとこの水を飲んできました。料理や洗濯、水浴びもすべてここの水でした。いまもきれいな水が湧いていますが『飲めません』との看板が出ている。いまさら、飲むと体に悪いなんて……」

 3人の子の母でもある沖縄県北谷町議会議員の仲宗根由美さんが話す。

「北谷町の全世帯に供給される水に有害物質が入っていると聞いて、本当に驚きました。上の2人の子には、簡易的な浄水器だけで水道の水を飲ませてしまっていた。勉強会で“妊婦がPFASを摂ると有害物質がへその緒を通じて胎児に行く”と聞いてかなりショックを受けました。いまはPFASが除去できるという逆浸透膜の浄水器をレンタルしていますが、月4900円と決して安くはありません」

 何より恐ろしいのは、将来的に子供の健康に何らかの影響が出ることだ。

「『PFOAは体内の時限爆弾』と書いてあった本もありました。徐々に症状が出るのではなく、蓄積したものがあるとき爆発的に病気になって出る物質だと……。いつ、どんな病気が出てくるのか本当に不安です」(仲宗根さん)

 PFASが大量に流出する大きな事故も起きている。

「2020年4月に普天間飛行場の格納庫で誤作動があり、PFASを含有する泡消火剤が漏出。宜野湾市の宇地泊川周辺に風に乗るような形で泡が飛散し、大量の泡が川や道路、住宅街にまき散らされました。漏出量は米軍発表で22万7000リットル、うち基地外に出たのは14万4000リットル。消防が泡を吸い取りましたが、多くは海に流れました」(宜野湾市基地政策部担当者)

 宜野湾市の住民が当日のことをこう振り返る。

「広報スピーカーから“白い泡は危険なので触らないでください”と何度も注意喚起の放送が流れていたことを覚えています。小学生だった子供たちは危険であることを理解できずに触りたがるし、何よりこんな近くに有害物質があることが恐ろしかった」

 PFAS汚染の問題を報じるウェブサイト「ミリタリーポイズンズ」の米国人ディレクター、パット・エルダーさんはこう警鐘を鳴らす。

「泡消火剤は小さじ1杯の泡であっても、中規模都市の飲用貯水池を充分汚染する威力があると考えられています。それが大量に漏出したとすれば、非常に重大な問題です」

 アメリカ国内の基地でも同様の汚染が社会問題化し、疑いがあるとされる施設は701か所にのぼる。本国では水質浄化や土壌除染を進めているが、日本の米軍基地ではそのような動きはみられない。

「障壁になっているのは日米安保条約の締結とともに発効された日米地位協定。沖縄県は2015年に締結された環境補足協定に基づく立ち入り調査を求めていますが、米軍側は調査が認められる条件の『環境に影響を及ぼす事項が現に発生した場合』に該当しないという認識を崩しておらず、いまだに実現していないのです」(安里さん)

環境省は住民の血液検査に消極的

 問題は沖縄だけではない。豊富な地下水を水道水として利用している東京西部・多摩地区の住民からも高い血中濃度のPFASが検出されており、米軍横田基地の影響であると推測されている。

「実際に高い数値が出た国分寺市に住む70代の女性は、スポーツが好きで食生活にも配慮し、体形もスリムなのに高脂血症だと診断されていました。医師も『原因がわからない』と首をひねるばかりでしたが、PFASの問題が発覚して納得がいったそうです」(現地住民)

 因果関係は確認できていないが、PFASは高脂血症を引き起こす原因物質である可能性が高いと考えられている。

 今年6月、市民団体が住民の不安に応える形で立川市の病院を会場に血液検査を実施。当日は横田基地から離れた町田市の住民が多かったが、受検者の表情はみな硬く、口々に「水にそんなものが含まれているとは考えたこともなかった」と不安げな表情だった。高校生の娘を連れて採血に訪れた40代の母親が言う。

「娘は検査なんてイヤだと言うのですが、彼女には就職や結婚、出産など大きなライフイベントが控えています。何かあってからでは遅いと思い、無理やり連れてきました」

 それから3か月経った9月、「多摩地域のPFAS汚染を明らかにする会」の共同代表で横田基地に詳しい高橋美枝子さんが、フェンスの外から現場を案内してくれた。

「横田基地からのPFASを含む泡消火剤の漏出はこれまで7件確認されています。2012年11月には基地内消防署のタンクから全量が漏出、3030リットルにも及んでいます。基地の東側では航空火災の消火訓練も長年行われてきた。当然使われるのは泡消火剤で、大気に飛び散って畑に降り注いだり、土壌に染み込んで地下水に流れ込みました」

 多摩地区では現況を重く見た有志の医師たちによる血液検査後のフォロー体制もある。立川相互ふれあいクリニックで「PFAS相談外来」を担当する医師の青木克明さんが話す。

「相談外来にはこれまで60人ほどが受診されました。ガイドラインに沿って腎臓がん、精巣がん、甲状腺疾患、脂質異常症、潰瘍性大腸炎などに重点を置いた診察をしています。いまのところ腎臓がんが見つかった人はいませんが、受診者には脂質異常症のかたが多いように思われます」

 誰もがPFAS入りの水を口にしている可能性がある以上、血液検査の実施と結果を分析できるような体制が求められると青木さんは続ける。

「環境省は住民の血液検査を広く行うことに後ろ向きです。厚生労働省、内閣府食品安全委員会も動きが鈍い。私たちは岐阜、大阪などでも血液検査をし、データを集約する予定です」(青木さん)

 米軍基地周辺以外にも高濃度のPFASが検出されている場所がある。名古屋空港や自衛隊小牧基地がある愛知県豊山町でも血中濃度がアメリカの指針値(7種類のPFASの合計値20ng/ml)を超えている住民が22人いた。

「石油コンビナートや大型立体駐車場、化学工場、ゴミ埋立地などに近い場所の地下水は汚染の危険性が高い。兵庫県明石市では川の上流部にある産廃処理場からPFASが流出した例もあるほか、大阪府摂津市ではPFASを作っていた化学工場周辺の地下水が汚染されたケースもあります」(植田さん)

 パット・エルダーさんは、PFAS問題は飲料水の問題に留まらないと指摘する。

「米軍は、PFASを摂取する主な経路は飲み水だけだと日本人に信じさせようとしている。しかし、欧州食品安全機関は体内のPFASの最大86%が食品、特に魚類に由来するとしている。中でも河川に含まれるPFASは、人間の健康にとって最大の脅威。なぜなら魚の体内で生物濃縮されたPFASは、その濃度が水から摂取したときの数百倍から数千倍にもなることが考えられるためです」

 汚染土壌で育った野菜から高濃度PFASが検出された例もあるため、暫定指針値を超えていない(測定していない)地域に住んでいても、PFASを摂取してしまう可能性があり、口に入るものの安全は大きく脅かされているのが現状だ。京都大学准教授でPFAS問題に取り組む原田浩二さんはこう指摘する。

「水道水は厚労省の暫定指針値である50ng/l以下であれば、上限に近い数値であっても問題なしとする自治体がほとんど。そもそも調査が義務づけられているわけではないため、行っていない水道事業者もある。国が汚染源を積極的に特定せず自治体任せにしていることは大きな問題です。環境省や他省庁も含めて、水に限らず対策を考えていく必要があります」

 日本の水や食品は安心──そんな神話はPFASによってもう崩れ去っている。

※女性セブン2023年9月28日号

https://www.news-postseven.com/archives/20230914_1903954.html?DETAIL


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カナダで67年前に取り違えられた2人は「他人の人生」を生きてきたのか

2023-09-14 | 先住民族関連

クーリエ9/13(水) 12:00

67年前に生まれたカナダの2人の男性は、一方は先住民として、もう一方はウクライナ系移民として、境遇も文化もまったく違う人生を過ごしてきた。ところが、DNAテストにより、この2人は「取り違えられていた」ことが判明する。

老人になってから真実を知った2人は、自らのアイデンティティとは何かという問いを突きつけられ、苦悩する。

白紙に戻ったアイデンティティ

2021年、リチャード・ボーヴェのアイデンティティは白紙に戻されてしまった。それは、彼の娘のひとりが祖先に関心を持ったことがきっかけだった。彼女は自らに流れる先住民の血に関心を持っており、先住民のタトゥーを彫ることも考えるほどだった。それで父親に、家でできるDNAテストを受けさせたのである。

ボーヴェは当時65歳。それまでの人生を「メティス」、すなわち「フランス人と北米先住民の混血である」と思って生きてきたし、メティスの集落にある、祖父母のログハウスで育ってきた。

それゆえに、彼の出自には先住民もフランス人も含まれておらず、かわりにウクライナ人、アシュケナージ(註:ドイツ・東欧のユダヤ人)、ポーランド人を祖先に持つ、とDNAテストが示したときも、彼はその結果を間違いだと一蹴し、ブリティッシュコロンビアの漁師かつビジネスマンとしての日常に戻っていった。

ちょうど同じころ、マニトバ州のエディ・アンブローズは、家族のなかにいる探究心旺盛な若者により受けさせられた同様のDNAテストのせいで、生まれたときからのアイデンティティを失ってしまった。アンブローズはウクライナのフォークソングを聴き、ウクライナ人たちとミサに出て、ピロシキをパクパク食べて育った。しかし、彼はウクライナ系ではなかったのだ。

そう、彼はメティスだった。

67年前の真実

その後、件のテストのウェブサイトを通じて両家は初めての接触を果たし、メールと苦渋にみちた電話のやりとり、眠れない夜は数ヵ月続いた。そして、ボーヴェとアンブローズは生まれた直後に取り違えられた、という結論にたどり着いたのだ。それが2年前のことである。

67年前、カナダの田舎にある病院で、1時間差で生まれたボーヴェとアンブローズは、違う家族のもとに連れて帰られた。

2人は65年の間、他人の人生を歩んでいたのだ。ボーヴェは、カナダ政府の残酷な先住民政策によって、ただでさえ苦しい幼年期がさらにトラウマ的なものになった。かたやアンブローズは、ウクライナ・カトリック文化色の強い家族とコミュニティで、幸福で何不自由なく育った。それらは本来の出自とは無縁のものだったのだ。

テストの結果によって本来のルーツが発覚したことで、彼らは本当の自分は何者かという問いに向き合うこととなった。彼らは、それぞれの断片をつなげることで、自分が生きるはずだった人生はどのようなものか、そしてその帰結はどのようなものかを探ることにした。

「家に泥棒が入ったような感じでしたよ」と話すのはアンブローズだ。「私のアイデンティティを奪われた、そんな感じでした。私の過去が全部消えてしまいました。私には、未来に向けて開かれた扉があるだけです。自分の未来を見つけなければいけません」

2人が初めて交流したのは、気まずい電話口でのことだった。ボーヴェは、アイスブレイクのために、自分の親が「2人の赤ん坊のうちの可愛いほうを取って、醜いほうを置いていったのだ」とジョークを飛ばした。だが、話題がシリアスになるにつれて、彼らはお互いに、真実が明らかにならなければよかったのにと打ち明け合った。

「私たち2人は、もしあの結果を自分以外誰も知らなかったとしたら、それを見なかったことにして、決して誰にも言わなかっただろうと言いました。そして、それまで通りに人生を歩むのです」。そうボーヴェは語った。

生まれたときから入れ替わった人生

マニトバ州の州都ウィニペグから約113キロ北に位置する街、アーボーグ。そこの小さな公営の病院で、2人の子供の人生は、そのスタート時点から異なるものになってしまった。

2人の両親は、いずれも息子の出産のために近郊の街からこの病院にやってきた。

カミーユ・ボーヴェはフランス系カナダ人、その妻ローレットは先住民のクリー族とフランス系カナダ人の血を引くメティスだった。

ボーヴェ夫妻は、フィッシャー・ブランチという街に住んでいた。夫妻を知る住民3人の話によると、ボーヴェ夫妻は、屋内にトイレがない簡素な住居に住んでいたという。こうした家屋は、1950年代のフィッシャー・ブランチでは一般的だった。カミーユは、カナディアン・ナショナル鉄道で保全係として働いていた。

「彼は本当の紳士でした。礼儀正しい人で、誰にでもにこやかに挨拶をしていましたよ。私は彼の友人でした」と91歳のカビー・バレットは回想する。

グラディス・フメニュク(96)は、ローレットについて「英語が話せないからいつも人付き合いを避けていました」と回想する。ローレットは、長い歴史を持つ「サン・ローラン」というメティスの集落から引っ越してきたのだが、そこではクリー語とフランス語が話されていたのだ。

一方、ジェイムスとキャスリーンのアンブローズ夫妻は、ともにウクライナ系移民の子供だった。彼らは裕福な農家であり、レンブラントという街には雑貨店と郵便局を持っていた。

エディが生まれるまでに、アンブローズ夫妻の間には娘が3人いた。「だからエディは、唯一の男の子ということで、父と母の寵愛を一身に受けていました」。そう語るのは、夫妻の長女エブリン・ストッキ(75)だ。「父とエディはものすごく仲良しでしたよ」

エディ・アンブローズは、父を「信頼できる相談相手だ」と述べ、「彼のような人間になりたい」とも語った。

ウィニペグにある、エディが妻と住む簡素な家でおこなったインタビューでは、彼は両親と3人の姉に大切に守られて育ったことを回想した。

「本来は、リチャードが愛情に満ちたこの家で育てられていたはずだったんだ」。室内装飾職人を引退したエディ・アンブローズは語る。「それは彼が受けるべき恩恵だったんです。彼こそが本当に愛されるべきだったんだ」

最初の通話の時、アンブローズはボーヴェの子供時代のトラウマがどれほど深いものか想像できなかった。

「リチャードは、私なら生き延びることができなかっただろうとすら言いました。それほどまでに残酷なものだったのです」とアンブローズは続ける。「私は自分がそういう目に遭わずに済んだことは、あるいは幸運だったと思います。ですが、そんなことを彼には言えません」

先住民の苦しみ

ボーヴェの少年時代の理解は、記憶の断片と「人々から聞いたこまごまとした話」で描き出された。彼へのインタビューは、ブリティッシュコロンビアのシーシェルトという海辺の街にある、彼の家でおこなわれた。彼と妻は、その広大な敷地に馬を飼っている。

ボーヴェが3歳の時、父親は病気で亡くなった。母親のローレットは、息子ボーヴェと2人の娘を、故郷であるメティスの集落、サン・ローランへと送った。それからボーヴェたちきょうだいは、祖父母のログハウスに一緒に住むことになった。ハイウェイとは沼地で隔てられており、そこは春と冬のあいだだけしか通ることができない。

一家はクリー語とフランス語を話した。祖母は、子供たちが暖かく眠れるようにと、タンポポ酒を造ったり、薪ストーブで石を温めたりしてくれた。

ボーヴェは、「悲しいことに、私は祖母の名前を知りません」と言う。しかし、祖父母の姓は覚えていると付け加えた。リチャード。それは彼の名前と同じなのだ。

祖父母が亡くなると、ボーヴェがきょうだいの面倒を見ることになった。彼は、誤って妹をおむつのピンで刺して出血させてしまったこと、食べ物を求めてゴミ捨て場に行ったこと、地元のバーの「女性用出口」の前で、母が出てくるのではないかと待っていたことを覚えている。

8歳か9歳の時、彼の言う「人生最悪の日」がやってきた。政府の役人が、それまで放置しておきながら、子供の監護権の行使という名目で彼らのログハウスにやってきたのだ。

ボーヴェは、泣いている妹を平手打ちした役人を殴り、蹴ったのち、低い屋根から投げ落とされたのを覚えていた。彼らは最終的に、ピンクの壁の部屋に収容された。彼によれば、彼らきょうだいは「まるで子犬のように」里親に引き取られていき、ボーヴェは「最後まで残った」のだった。

「まったく無慈悲でした。先住民相手であれば、政府は容赦しませんでした」

後年、ボーヴェは、彼ら子供たちが引き離されたのは「シックスティーズ・スクープ」という、カナダの同化政策の一環だったことを知る。先住民の福祉問題は一切顧みられることがないかわりに、先住民の子供たちが大規模かつ、時に強制的に、白人家庭へと養子縁組された。

ボーヴェが言うには、彼は幸運にも優しい家族に引き取られた。里親のプール家と彼は、今日(こんにち)まで絆を保ち続けている。彼は英語を学び、フランス語とクリー語を忘れた。ボーヴェは、彼の母が彼らきょうだいの親権を取り戻そうと訴訟をしたので、裁判所に行ったことを覚えている。しかし、その試みはうまくいかなかった。

マニトバの田舎町は、毛皮貿易の時代から先住民と白人社会が交流してきた場所である。それゆえ彼は、この2つの世界を容易に往来できたという。

16歳になり、ボーヴェは、商業漁業に従事するため、ブリティッシュコロンビア州へと移った。そしてついには溶接会社と商業漁船のオーナーになった。彼のもとでは、先住民と非先住民が一緒に働いている。

彼は、一度もメティスとしての公式な認定を受けようとしなかったため、政府からの給付金を一切受け取っていない。彼は、カナダの先住民政策が急激に変化するのを目撃してきた。

カナダは、強制的な先住民同化政策から、謝罪と賠償、そして先住民文化の祝福を通じた和解へと舵を切ったのである。

「私の頃は先住民であることはつらいことでした。今のようにクールなことではありません」。ボーヴェはそう述べた。

喪失感と消せないアイデンティティ

今でも、ボーヴェはアンブローズとの最初の通話の時と同じような気持ちを抱えているという。彼は、自分の新しいアイデンティティを前にしてどうしていいのかわからないままなのだ。ボーヴェは言う。

「私は67歳ですが、突然ウクライナ人になってしまいました。ウクライナ人と関わったことなんてないですよ。ウクライナのジョークを口にしてみたことはあります。でも私はそれを待望していたんでしょうか?」

新しく発見された自身のルーツについて、これから調べようと思うか聞かれると、彼はそう語った。

他方でアンブローズは、最初の通話の後、自身についての徹底的な調査に乗り出した。すると、生物学上のきょうだいにあたる女性がたまたま近所に住んでおり、メティスの伝統的なビーズ細工をしているとわかったため、協力を得ることができた。

また、アンブローズが原動力となり、ビル・ギャンジ弁護士を2人の弁護人に立てて、マニトバ州に彼らの取り違えに対して謝罪と賠償を要求する裁判を起こした。

マニトバ州政府の役人は、取り違えの起こった病院は当時、アーボーグの自治体が所有、運営していたため、この件についてノーコメントであるとした。現在のオーナーであるインターレイク・イースタン地域保健局の広報官は、当時の出生記録はもう残っていないとした。

アンブローズはメティスとしての公式認定を求めた。その理由の一つは、彼の孫が先住民の補償金を受けられるようにするためである。その一方、彼自身は先住民であることで差別を一切受けてこなかったと認めている。

「私は正当に自分のものを手にすることはできるでしょう。しかし、それを要求しません。生まれたときに取り違えられたからです」

ボーヴェは、彼の生きてきた人生を変えることはしないという。

「もしあの日の病院に戻って取り換えることができたとしても、私はそうしないでしょう。なぜなら、私は2人の美しい娘、素敵な妻、3人の素晴らしい孫娘に恵まれたからです」とボーヴェは語った。「もちろん、取り違えられなくても、ほかの誰かとそうなっていたでしょう。ですが、それはこの子供たち、この妻ではないのですから」

だが、彼はDNAテストにより先住民の血が流れていないことが判明したことの喪失感から抜け出せずにいる。

「私が持っていた、先住民であるという感覚は、誰にも奪うことはできないと思います」とボーヴェは言う。彼はいまだに、カナダ先住民を語る際には「我々先住民は」と言う。

「今や私は先住民ではないですが、心はずっと先住民のままです」

Norimitsu Onishi

https://news.yahoo.co.jp/articles/9b0d4a8bdcb7fe1f4f9e3a59df504718dbe1bc70


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第2次岸田再改造内閣発足 首相、経済対策10月策定 臨時国会に補正予算案提出へ

2023-09-14 | アイヌ民族関連

会員限定記事

北海道新聞2023年9月13日 23:48

 第2次岸田再改造内閣が13日、皇居での認証式を経て発足した。岸田文雄首相は官邸で記者会見し、経済対策の具体的な検討を月内に指示し、10月中の策定を目指す方針を表明した。「ガソリン価格対策の継続を含め、国民生活を応援する大胆な対策を実行する」と強調。必要な財源を確保するため、10月中旬にも召集する臨時国会に2023年度補正予算案を提出する考えを示した。看板政策に掲げる「次元の異なる少子化対策」実現に向けた関連法案を来年の通常国会に提出することも明らかにした。

 首相は、改造内閣は「変化を力にする内閣だ」とし「経済、社会、外交・安全保障の三つを政策の柱として、強固な実行力を持った閣僚を起用した」と述べた。

 ・・・・・・

 首相は改造内閣で、過去最多に並ぶ女性閣僚5人を起用。首相を除く閣僚19人のうち13人が交代した。初入閣は11人。沖縄北方担当相とアイヌ施策担当相は、自見英子地方創生担当相が兼務する。副大臣・政務官人事は15日に行う。(村上辰徳、小林史明)

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/908667/


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NZ野党、政権奪還へ攻勢 総選挙まで1カ月、経済争点に

2023-09-14 | 先住民族関連

時事通信9/13(水) 20:35

 【シドニー時事】10月14日投開票のニュージーランド(NZ)総選挙まで1カ月となった。

 支持率で先行する中道右派の最大野党・国民党が6年ぶりの政権奪還へ攻勢をかけ、中道左派の与党・労働党は防戦に必死だ。インフレと景気後退で経済政策が最大の争点となり、論戦が激しさを増している。

 ラジオNZ集計の平均支持率は、国民党が37.6%で、労働党の27.4%をリード。自由主義を唱えるACT党が12.5%、環境政党の緑の党が12.3%で続く。一院制議会の基本定数は120。比例代表で全体の議席配分が決まる小選挙区比例代表併用制のため、どの党も単独で過半数を制するのは難しい情勢だ。国民党は政策的に近いACT党との連立を視野に入れる。

 NZの国内総生産(GDP)は昨年10月から2四半期連続のマイナス成長で、物価と金利の上昇が家計を圧迫している。NZ航空の最高経営責任者(CEO)から政界に転じた国民党のラクソン党首は「労働党政権の経済失政が現状を招いた」と批判。大型減税や道路建設などインフラ投資を公約の柱に据えて経済再生を訴える。

 これに対し、ヒプキンス首相率いる労働党は中低所得者支援を重視し「国民党のやり方は家計支援を危うくする」と反論。青果物の消費税免除や歯科治療の無償化を打ち出した。だが、国民的人気の高かったアーダーン前首相の下で圧勝した2020年の前回選挙と打って変わり、不祥事による4閣僚辞任で支持が低迷している。

 ACT党は歳出の無駄削減、緑の党は再生エネルギー拡大を主張。先住民政党のマオリ党、保守のNZファースト党も候補を立てている。 

https://news.yahoo.co.jp/articles/aa301f6d8b36363ab8858b73614e4e6d77e1cb1f


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およそ800人の観光関係者が参加 体験型観光の商談会「ATWS」 アジア初のリアル開催

2023-09-14 | アイヌ民族関連

STVニュース北海道 / 2023年9月13日 8時4分

アジア初のリアル開催となった、体験型観光の商談会「アドベンチャートラベルワールドサミット」の開会セレモニーが、大倉山ジャンプ競技場で開かれました。

札幌の大倉山ジャンプ競技場で開かれた、ATWS=「アドベンチャートラベルワールドサミット」の開会セレモニー。

アジアで初めて開催されているATWSは、アクティビティを通じて自然や文化に触れる体験型観光の商談会で、およそ60の国・地域から800人の観光関係者が参加しています。

セレモニーではアイヌ民族の伝統的な歌や踊りが披露されました。

ATWSはあすまで開かれ、各国の旅行会社との商談などが予定されています。

  • 9/13(水)「どさんこワイド朝」
  • 9/13(水)6:54更新

https://news.infoseek.co.jp/article/stv_1074466104310547088/


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