日豪プレス 2017年7月4日
ナオキ・マツモト・コンサルタンシー:松本直樹
5月24日から3日間にわたり、先住民の聖地であるウルルにおいて、先住民代議員250人による憲法会議が開催され、先住民の憲法内での認知に関する問題、他のオプション等が討議されている。また5月から6月にかけては、1967年豪州連邦憲法改正50周年記念や、92年最高裁判所マボ判決25周年記念、そして97年「略奪された子どもたち/世代」報告書の公表20周年記念と、豪州先住民史の中でも画期的な出来事の記念日が重なっており、そのため先住民関連の憲法改正問題が一層注目を集めている。ここで、先住民関連史の中でも特筆に値する上記3イベントについて概説すると共に、憲法改正問題の行方を占ってみよう。
67年憲法改正問題
豪州は改正の困難な硬性憲法の国である。豪州憲法はその第128条において、憲法改正の要件に関して規定しているが、それによると、豪州憲法の改正は連邦議会での発議自体は比較的容易である。すなわち、上下両院のそれぞれで過半数の支持があればよい。ただ、その後に実施される国民投票(Referendum)には、全国で過半数の支持、かつ6州の内の4州以上で過半数の州民の支持と、二重の足枷が設けられている。そのため1901年の連邦結成以降、最後に実施された99年を含めて計19回の国民投票があり、合計44件の憲法改正案が投票に附されたものの、成立したのは2割弱の僅か8件に過ぎない。ちなみに最後の99年の国民投票では、憲法前文と共和制移行の是非が問われたが、共和制移行については、俎(そ)上に載せられた「議会選出型共和制モデル」への不人気が祟って(注:国家元首を議会が選出するとのモデル。当時共和制移行自体への支持率は高かったが、国民の多くは元首を直接選挙によって選出することを希望)、全国での改正支持率は45.13%、また6州の全てで支持率は半数未満という、惨憺(さんたん)たる結果に終わっている。
そういった憲法改正の歴史の中で、67年の国民投票の結果は異彩を放つものであった。というのも、67年改正国民投票では、改正案への全国支持率が実に90.77%もの高率に達し、しかも6州全てで圧倒的な支持率を獲得したからだ。
67年改正の主要内容は、連邦の持つ専管的権限を記述した第51条の中の、第26号条項に関するものであった(注:この他に第127条を全部削除)。この26号条項とは、連邦のいわゆる対人種権限を定めたものである。これは、特定人種だけに適用される法の制定を連邦に認めたものだが、67年の改正前には特定人種の中に先住民は含まれていなかった。67年の憲法改正とは、それまで州政府が管轄していた先住民問題の所管を、連邦の所管として同条項に取り込むことであった。この改正によって、後述するように、キーティング労働党政権による93年連邦先住権法の策定、施行も可能となったのである。
92年「マボ最高裁判決」
82年5月、トレス海峡南マレー島の先住民である5人の原告団が、QLD州政府を相手取り、マレー島の領有権を巡る訴訟を豪州最高裁に対して行ったが、この訴訟は原告団の代表エディー・マボにちなんで、「マボ訴訟」と呼称されている。訴訟の中で原告団は、1879年に同島が現在のQLD州に併合された時、英国が島の主権を獲得したことは認めつつも、先住民の土地に対する権利は主権の確立によっても消滅していないと主張し、この先住民の権利が豪州慣習法体系の下で認知されることを要求したのである。
原告団の提訴からほぼ10年が経過した1992年6月、最高裁はドウソン判事を除く6人の判事が全員支持するという圧倒的多数をもって、原告団側の主張を認める判決、すなわち、マレー島に住む先住民メリアム族は、QLD州に同島が併合される以前に同島の先住権(Native Titles)を保持しており、また併合後もその権利を保持し続けたとの判決を下したのである。この判決は、植民以降200年以上にわたった「テラ・ヌリアス」概念(注:ラテン語で「誰にも所有・領有されていない土地」の意)を否定し、豪州への植民が始まる以前から、先住権なる土地関連の権利が存続してきたことを、慣習法体系下で初めて認知した画期的なものであった。
この先住権であるが、実は統一した定義が存在するわけではない。というのも「マボ判決」によれば、先住権の内容は特定先住民の伝統的法や掟に拠るとされるからだ。それゆえ掟、習慣が異なれば、当然のことながら先住権の内容は異なるものとなる。ただ、その内容はケース・バイ・ケースで、単一的には定義できないものの、先住権には共通項もある。
まず第1に、先住権は他の土地権利とは異なり、先住権を保持する先住民以外に売却したり、譲渡したりすることは出来ない。ただしこれには例外があり、仮に特定先住民部族の伝統的掟、習慣の中に、土地の売却が存在する場合にはこの限りではない。また主権を獲得したクラウン(注:政府)は、先住権保持者より先住権を取得出来る。
第2に、一般に先住権は個人ではなく、先住民コミュニティー全体によって保持される権利と考えられている。
そして第3に、先住権はクラウンによって消滅され得る。
要するに先住権とは、先住民のさまざまな土地関連諸権利の集合体であり、ある場合には排他的土地所有を保証する自由保有権と同一なもの、他の場合は土地の用益権的な権利と言える。
具体的には、(1)土地の所有、(2)特定地、例えば聖地へのアクセス、(3)狩猟、採取、釣り、(4)儀式の実施のための土地使用、(5)水の使用、そして(6)例えば資源採掘の排除といった、土地の形状保持、等の諸権利を指すものと考えられている。
ただし、豪州への植民が開始されたころには、一部の土地を除き豪州大陸に遍(あまね)く存在していたとされる先住権も、植民後現在に至るまでに、かなりの土地で消滅したとされる。その理由は、第1に、先住民が土地との結びつきを喪失するなど、肝心の先住権の有資格者が時代と共に減少してきたからだ。第2に、先住権保持者が自ら先住権を放棄した場合にも、先住権は消滅する。そして第3点として、これが最大の理由であるが、上述したように、主権を確立した植民政府はさまざまな手段により先住権を消滅させることが出来、また実際に政府の諸行為が先住権を消滅させてきたからだ。
具体的には、①法律の制定、②公共目的の政府の行為と先住権の内容が強く競合する、③政府の付与した土地関連諸権利と先住権の内容が強く競合する、等の場合には、先住権は消滅する。
いずれにせよ、「マボ判決」における先住権の認知は、豪州の既存土地権利体系を揺るがすものであり、各層に甚大なショックを与えるものであった。そのため、先住権を取り込んだ新しい土地権利体系の構築が要請されることとなったのである。そして、それを具現化したのが、当時のキーティング労働党政権が策定した「93年先住権法」であった。
「略奪された子どもたち/世代」報告書
「略奪された子どもたち/世代」とは、70年代まで続いた歴代政府の同化政策に基づき、強制的に親元から離され、宗教系の施設や白人家庭で育てられた、主として混血先住民の子どもたちを意味する。この言葉は、97年5月に公表された人権擁護・機会均等委員会の調査報告書のタイトルに由来するものだが、同問題が大きく世間の耳目を集めたのも、犠牲者の悲惨な経験を暴いた委員会報告書が公表されてからであった。
2008年2月に労働党のラッド新連邦首相が政府を代表して行った「略奪された子どもたち/世代」犠牲者への公式謝罪を受けて喜ぶ先住民の子どもたち(AFP)
同委員会はその中で、当時の政府の施策を大量虐殺的な行為、あるいは人間性に対する犯罪といった、あたかも極悪戦争犯罪人に使用するような激越な言葉で批判すると共に、政府に対して、先住民犠牲者への明瞭かつ公式の謝罪、贖罪のため国民の日を設定、そして犠牲者への公的な賠償支払い、等を強く提言したのである。
ところが、大量虐殺的な行為といった過激な言葉に反発した当時のハワード保守政府は、委員会の提言内容を悉く拒否している。その際に、ハワード政府が公式、非公式に繰り返し主張していたのが、(1)過去の政府あるいは世代の行為に対して、現政府、世代が謝罪するのはお門違い、(2)公式謝罪は先住民からの公的賠償請求を惹起(じゃっき)する、といったことであった。
また、ハワード政府がその後も頑なに拒否してきた理由としては、(3)謝罪といった「シンボル」的な問題に拘泥(こうでい)するよりも、「実利」の問題、すなわち先住民の健康、教育といった生活水準の向上こそが肝要かつ火急の用、(4)過去の先住民政策を全て誤り、悪とする、自虐的な歴史観に対するハワード個人の反発、等が挙げられよう。
更に当時のハワードの強硬姿勢の背景には、キーティング労働党政権下で高まっていた保守系有権者層の不満、反発が、ハワード政権が誕生したことで一挙に噴出し、右傾化のムードが醸成されていたとの事情もあった(注:好例が「第1次ハンソン現象」の発生)。
実はそのハワードも、97年5月には、犠牲者に対して私人として陳謝すると共に、99年の8月には、豪州先住民への過去の仕打ちに対する政府謝罪決議を議会に上程し、これが実際に採択されてもいる。ただし同決議では、一部先住民指導層や野党労働党が要求していた「Sorry」という言葉は使われず、代わりに「衷心からの遺憾の意」(Deep and sincere regret)という「弱い」表現が使われたため、先住民や親先住民層からは特段の評価も受けずに終わっている。
附言すれば、当時の国連人権委員会も、2000年3月に公表した豪州の先住民問題に関する報告書の中で、ハワード政府に対し謝罪、犠牲者への賠償などを主張し、これにハワード政府が激怒したという経緯がある。
さて、2007年11月の選挙でハワード長期保守連合政権にも終止符が打たれ、ラッド率いる労働党政権が誕生すると、先住民問題を取り巻く状況は再度変化を遂げている。具体的には、「シンボル」面での画期的な進展であった。すなわち、新首相のラッドが野党時代の公約を遵守し、08年2月に連邦議会において、「略奪された子どもたち/世代」の犠牲者に対し、連邦首相として、連邦政府を代表して、そして連邦議会に成り代わり、公式に謝罪(Sorry)を行ったのである。
ラッド政府による明確な謝罪表明の背景には、先住民の生活水準の向上を目指した実利政策が重要とは言え、その推進のためには、やはりシンボル問題での大きな進展が不可欠とのラッドの信念があった。ラッドは政権発足の直後に京都議定書への批准を決定し、環境保護団体ばかりか、多数の国民からも喝さいを浴びたが、批准にしても、先住民への謝罪にしても、ラッドは金を1銭もかけずに、あれだけの注目、賛同を得た訳で、当時のラッドの手腕は確かに見事なものであった。
ただ過ちを正式に認めはしたものの、労働党政府は公的な賠償、補償については否定し、賠償問題は個々の犠牲者が裁判所を通じて追求すべきとしていた。
先住民関連の憲法改正問題
最後に、先住民関連の政治的懸案事項だが、実はギラード労働党政権の時代から、豪州における先住民の意義、あるいは先住民が特別な位置付けにあることを豪州憲法内に明記することなどを目指す、憲法改正運動が再度活発化している。
硬性憲法の豪州では、超党派的であること、関連各層からの支持があることが改正成功の要件だが、現在のところ、先住民指導層内、あるいは主流の先住民指導層と政界との間でも意見が分かれていることもあって、憲法改正問題にも不透明感が漂っている状況である。しかも、ここにきて先住民指導層の要求が強いものとなりつつある。すなわち、先住民が文字通り豪州の「先住民」であることを憲法内に明記するといった、いわゆる「ミニマリスト」アプローチでは不十分、不満足との声が高まっているのだ。
そしてより「サブ」を伴った、具体的には、先住民問題に関する意思/政策決定過程への先住民の強い参画、役割の強化、例えば憲法内で認知、保証された、先住民の代表で構成される先住民諮問機関を創設するといったことが、先住民側から提言されているのだ。それどころか、一部先住民指導層は引き続き、「条約」の締結という過激な要求を行っている。
かつて自由党のハワードは、先住民との和解問題に関連して、「条約」とは国家間で取り交わすものと主張すると共に、先住民との条約の締結は国家内国家を認めるに等しいものとして、これに断固反対していた。ハワードに限らず、先住民関連憲法改正問題では前向きな国民にも、「ミニマリスト」を超える改正には消極的な人びとが多い。いわんや条約については、強い拒絶反応を示す人々がほとんどである。
以上のような分裂状況に鑑(かんが)み、近い将来に憲法改正国民投票が実施される可能性も低いと言わざるを得ない。
http://nichigopress.jp/nichigo_news/tenbo/145560/
ナオキ・マツモト・コンサルタンシー:松本直樹
5月24日から3日間にわたり、先住民の聖地であるウルルにおいて、先住民代議員250人による憲法会議が開催され、先住民の憲法内での認知に関する問題、他のオプション等が討議されている。また5月から6月にかけては、1967年豪州連邦憲法改正50周年記念や、92年最高裁判所マボ判決25周年記念、そして97年「略奪された子どもたち/世代」報告書の公表20周年記念と、豪州先住民史の中でも画期的な出来事の記念日が重なっており、そのため先住民関連の憲法改正問題が一層注目を集めている。ここで、先住民関連史の中でも特筆に値する上記3イベントについて概説すると共に、憲法改正問題の行方を占ってみよう。
67年憲法改正問題
豪州は改正の困難な硬性憲法の国である。豪州憲法はその第128条において、憲法改正の要件に関して規定しているが、それによると、豪州憲法の改正は連邦議会での発議自体は比較的容易である。すなわち、上下両院のそれぞれで過半数の支持があればよい。ただ、その後に実施される国民投票(Referendum)には、全国で過半数の支持、かつ6州の内の4州以上で過半数の州民の支持と、二重の足枷が設けられている。そのため1901年の連邦結成以降、最後に実施された99年を含めて計19回の国民投票があり、合計44件の憲法改正案が投票に附されたものの、成立したのは2割弱の僅か8件に過ぎない。ちなみに最後の99年の国民投票では、憲法前文と共和制移行の是非が問われたが、共和制移行については、俎(そ)上に載せられた「議会選出型共和制モデル」への不人気が祟って(注:国家元首を議会が選出するとのモデル。当時共和制移行自体への支持率は高かったが、国民の多くは元首を直接選挙によって選出することを希望)、全国での改正支持率は45.13%、また6州の全てで支持率は半数未満という、惨憺(さんたん)たる結果に終わっている。
そういった憲法改正の歴史の中で、67年の国民投票の結果は異彩を放つものであった。というのも、67年改正国民投票では、改正案への全国支持率が実に90.77%もの高率に達し、しかも6州全てで圧倒的な支持率を獲得したからだ。
67年改正の主要内容は、連邦の持つ専管的権限を記述した第51条の中の、第26号条項に関するものであった(注:この他に第127条を全部削除)。この26号条項とは、連邦のいわゆる対人種権限を定めたものである。これは、特定人種だけに適用される法の制定を連邦に認めたものだが、67年の改正前には特定人種の中に先住民は含まれていなかった。67年の憲法改正とは、それまで州政府が管轄していた先住民問題の所管を、連邦の所管として同条項に取り込むことであった。この改正によって、後述するように、キーティング労働党政権による93年連邦先住権法の策定、施行も可能となったのである。
92年「マボ最高裁判決」
82年5月、トレス海峡南マレー島の先住民である5人の原告団が、QLD州政府を相手取り、マレー島の領有権を巡る訴訟を豪州最高裁に対して行ったが、この訴訟は原告団の代表エディー・マボにちなんで、「マボ訴訟」と呼称されている。訴訟の中で原告団は、1879年に同島が現在のQLD州に併合された時、英国が島の主権を獲得したことは認めつつも、先住民の土地に対する権利は主権の確立によっても消滅していないと主張し、この先住民の権利が豪州慣習法体系の下で認知されることを要求したのである。
原告団の提訴からほぼ10年が経過した1992年6月、最高裁はドウソン判事を除く6人の判事が全員支持するという圧倒的多数をもって、原告団側の主張を認める判決、すなわち、マレー島に住む先住民メリアム族は、QLD州に同島が併合される以前に同島の先住権(Native Titles)を保持しており、また併合後もその権利を保持し続けたとの判決を下したのである。この判決は、植民以降200年以上にわたった「テラ・ヌリアス」概念(注:ラテン語で「誰にも所有・領有されていない土地」の意)を否定し、豪州への植民が始まる以前から、先住権なる土地関連の権利が存続してきたことを、慣習法体系下で初めて認知した画期的なものであった。
この先住権であるが、実は統一した定義が存在するわけではない。というのも「マボ判決」によれば、先住権の内容は特定先住民の伝統的法や掟に拠るとされるからだ。それゆえ掟、習慣が異なれば、当然のことながら先住権の内容は異なるものとなる。ただ、その内容はケース・バイ・ケースで、単一的には定義できないものの、先住権には共通項もある。
まず第1に、先住権は他の土地権利とは異なり、先住権を保持する先住民以外に売却したり、譲渡したりすることは出来ない。ただしこれには例外があり、仮に特定先住民部族の伝統的掟、習慣の中に、土地の売却が存在する場合にはこの限りではない。また主権を獲得したクラウン(注:政府)は、先住権保持者より先住権を取得出来る。
第2に、一般に先住権は個人ではなく、先住民コミュニティー全体によって保持される権利と考えられている。
そして第3に、先住権はクラウンによって消滅され得る。
要するに先住権とは、先住民のさまざまな土地関連諸権利の集合体であり、ある場合には排他的土地所有を保証する自由保有権と同一なもの、他の場合は土地の用益権的な権利と言える。
具体的には、(1)土地の所有、(2)特定地、例えば聖地へのアクセス、(3)狩猟、採取、釣り、(4)儀式の実施のための土地使用、(5)水の使用、そして(6)例えば資源採掘の排除といった、土地の形状保持、等の諸権利を指すものと考えられている。
ただし、豪州への植民が開始されたころには、一部の土地を除き豪州大陸に遍(あまね)く存在していたとされる先住権も、植民後現在に至るまでに、かなりの土地で消滅したとされる。その理由は、第1に、先住民が土地との結びつきを喪失するなど、肝心の先住権の有資格者が時代と共に減少してきたからだ。第2に、先住権保持者が自ら先住権を放棄した場合にも、先住権は消滅する。そして第3点として、これが最大の理由であるが、上述したように、主権を確立した植民政府はさまざまな手段により先住権を消滅させることが出来、また実際に政府の諸行為が先住権を消滅させてきたからだ。
具体的には、①法律の制定、②公共目的の政府の行為と先住権の内容が強く競合する、③政府の付与した土地関連諸権利と先住権の内容が強く競合する、等の場合には、先住権は消滅する。
いずれにせよ、「マボ判決」における先住権の認知は、豪州の既存土地権利体系を揺るがすものであり、各層に甚大なショックを与えるものであった。そのため、先住権を取り込んだ新しい土地権利体系の構築が要請されることとなったのである。そして、それを具現化したのが、当時のキーティング労働党政権が策定した「93年先住権法」であった。
「略奪された子どもたち/世代」報告書
「略奪された子どもたち/世代」とは、70年代まで続いた歴代政府の同化政策に基づき、強制的に親元から離され、宗教系の施設や白人家庭で育てられた、主として混血先住民の子どもたちを意味する。この言葉は、97年5月に公表された人権擁護・機会均等委員会の調査報告書のタイトルに由来するものだが、同問題が大きく世間の耳目を集めたのも、犠牲者の悲惨な経験を暴いた委員会報告書が公表されてからであった。
2008年2月に労働党のラッド新連邦首相が政府を代表して行った「略奪された子どもたち/世代」犠牲者への公式謝罪を受けて喜ぶ先住民の子どもたち(AFP)
同委員会はその中で、当時の政府の施策を大量虐殺的な行為、あるいは人間性に対する犯罪といった、あたかも極悪戦争犯罪人に使用するような激越な言葉で批判すると共に、政府に対して、先住民犠牲者への明瞭かつ公式の謝罪、贖罪のため国民の日を設定、そして犠牲者への公的な賠償支払い、等を強く提言したのである。
ところが、大量虐殺的な行為といった過激な言葉に反発した当時のハワード保守政府は、委員会の提言内容を悉く拒否している。その際に、ハワード政府が公式、非公式に繰り返し主張していたのが、(1)過去の政府あるいは世代の行為に対して、現政府、世代が謝罪するのはお門違い、(2)公式謝罪は先住民からの公的賠償請求を惹起(じゃっき)する、といったことであった。
また、ハワード政府がその後も頑なに拒否してきた理由としては、(3)謝罪といった「シンボル」的な問題に拘泥(こうでい)するよりも、「実利」の問題、すなわち先住民の健康、教育といった生活水準の向上こそが肝要かつ火急の用、(4)過去の先住民政策を全て誤り、悪とする、自虐的な歴史観に対するハワード個人の反発、等が挙げられよう。
更に当時のハワードの強硬姿勢の背景には、キーティング労働党政権下で高まっていた保守系有権者層の不満、反発が、ハワード政権が誕生したことで一挙に噴出し、右傾化のムードが醸成されていたとの事情もあった(注:好例が「第1次ハンソン現象」の発生)。
実はそのハワードも、97年5月には、犠牲者に対して私人として陳謝すると共に、99年の8月には、豪州先住民への過去の仕打ちに対する政府謝罪決議を議会に上程し、これが実際に採択されてもいる。ただし同決議では、一部先住民指導層や野党労働党が要求していた「Sorry」という言葉は使われず、代わりに「衷心からの遺憾の意」(Deep and sincere regret)という「弱い」表現が使われたため、先住民や親先住民層からは特段の評価も受けずに終わっている。
附言すれば、当時の国連人権委員会も、2000年3月に公表した豪州の先住民問題に関する報告書の中で、ハワード政府に対し謝罪、犠牲者への賠償などを主張し、これにハワード政府が激怒したという経緯がある。
さて、2007年11月の選挙でハワード長期保守連合政権にも終止符が打たれ、ラッド率いる労働党政権が誕生すると、先住民問題を取り巻く状況は再度変化を遂げている。具体的には、「シンボル」面での画期的な進展であった。すなわち、新首相のラッドが野党時代の公約を遵守し、08年2月に連邦議会において、「略奪された子どもたち/世代」の犠牲者に対し、連邦首相として、連邦政府を代表して、そして連邦議会に成り代わり、公式に謝罪(Sorry)を行ったのである。
ラッド政府による明確な謝罪表明の背景には、先住民の生活水準の向上を目指した実利政策が重要とは言え、その推進のためには、やはりシンボル問題での大きな進展が不可欠とのラッドの信念があった。ラッドは政権発足の直後に京都議定書への批准を決定し、環境保護団体ばかりか、多数の国民からも喝さいを浴びたが、批准にしても、先住民への謝罪にしても、ラッドは金を1銭もかけずに、あれだけの注目、賛同を得た訳で、当時のラッドの手腕は確かに見事なものであった。
ただ過ちを正式に認めはしたものの、労働党政府は公的な賠償、補償については否定し、賠償問題は個々の犠牲者が裁判所を通じて追求すべきとしていた。
先住民関連の憲法改正問題
最後に、先住民関連の政治的懸案事項だが、実はギラード労働党政権の時代から、豪州における先住民の意義、あるいは先住民が特別な位置付けにあることを豪州憲法内に明記することなどを目指す、憲法改正運動が再度活発化している。
硬性憲法の豪州では、超党派的であること、関連各層からの支持があることが改正成功の要件だが、現在のところ、先住民指導層内、あるいは主流の先住民指導層と政界との間でも意見が分かれていることもあって、憲法改正問題にも不透明感が漂っている状況である。しかも、ここにきて先住民指導層の要求が強いものとなりつつある。すなわち、先住民が文字通り豪州の「先住民」であることを憲法内に明記するといった、いわゆる「ミニマリスト」アプローチでは不十分、不満足との声が高まっているのだ。
そしてより「サブ」を伴った、具体的には、先住民問題に関する意思/政策決定過程への先住民の強い参画、役割の強化、例えば憲法内で認知、保証された、先住民の代表で構成される先住民諮問機関を創設するといったことが、先住民側から提言されているのだ。それどころか、一部先住民指導層は引き続き、「条約」の締結という過激な要求を行っている。
かつて自由党のハワードは、先住民との和解問題に関連して、「条約」とは国家間で取り交わすものと主張すると共に、先住民との条約の締結は国家内国家を認めるに等しいものとして、これに断固反対していた。ハワードに限らず、先住民関連憲法改正問題では前向きな国民にも、「ミニマリスト」を超える改正には消極的な人びとが多い。いわんや条約については、強い拒絶反応を示す人々がほとんどである。
以上のような分裂状況に鑑(かんが)み、近い将来に憲法改正国民投票が実施される可能性も低いと言わざるを得ない。
http://nichigopress.jp/nichigo_news/tenbo/145560/