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鉱物の部屋へのいざない

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人間原理的鉱物美学試論

2014-02-18 13:01:45 | 日記・エッセイ・コラム

今日は「人間原理的鉱物美学試論」です。その言葉からは難しそうな雰囲気が漂っているとは思いますが、私が以前から漠然と思っていた事を少し書いてみたいと思います。

まず、人間原理とは物理学や宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方の事です。人間に都合が良い様にこの宇宙は出来たのだ、というような解釈の事です。そのような解釈は宇宙の観測事実に基いており、宇宙を支配する物理法則、物理定数など、ありとあらゆる物事が、人間が今存在するために最適となるようになっている、という事実から成り立っています。このような解釈は一見、強引で本末転倒的な解釈に過ぎないようにも思えますが、個々の事実の積み重ねを検証してゆくと、そのように解釈せざるを得ない、という事実があり、決して無視できないような解釈でもあります。

同じような事は地球史を学んでいく中でもあります。個々の事実については書きませんが、奇跡の星・地球の歴史は本来偶然性の積み重なりで出来てきたはずですが、そのような歴史の結果、現在の人間存在がある、とも解釈できます。

そのような人間原理的な解釈で鉱物の美を考えるとどうなるでしょうか?

鉱物はしばしば綺麗な結晶をなしますが、それらの透明感や色艶や対称性を秘めた多面体形態など、自然が造った造形美には人間の持つ美的感性が刺激されます。鉱物に関しては主に鉱物学的な科学的な側面から理解されてきましたが、そこには科学的知的好奇心とはまた別の美学的側面も存在します。

そのような鉱物の美学的側面を考えると、面白い事に、まず人間的なサイズの問題が現れます。

美しい鉱物とは何でしょうか?

本来、ほとんどの鉱物は他の鉱物の間を埋めるので、中々美しい外形を持つことができません。ほとんどの鉱物は顕微鏡的なサイズであり、その鉱物の理想的な形が現れる美しい自形結晶は希であり、大きくなることも珍しいのです。鉱物の結晶はサイズが大きくなると指数関数的にその個体数が減りますし、美しい結晶の割合も少なくなります。大きな結晶の標本価値が高いのはそのような理由からでもあります。

鉱物の顕微鏡による観察でもその小さな世界に鉱物の自己組織化を通してつくられる美しい幾何学模様や規則性を見出すこともあろうかと思います。ただ、肉眼的なサイズの鉱物結晶に比べるとミクロの世界は決して一様に均質ではなく、試料の置かれた偶然性によって結晶らしい姿を現します。美しい結晶美に遭遇する事は希だと言えそうです。さらに、ミクロの世界の結晶にも美しい結晶面は少なく、小さいながらもその世界なりの大きな欠けや傷の存在を見出してしまいます。

そのように考えていくと、不思議な事に鉱物の美しさは人間サイズが最も美しいのではないか?というような気がしてきます。人間サイズとは肉眼的に鉱物結晶が美しく見えるサイズ、例えて言えば手の平サイズが最も美しいと言えるかも知れません。人間サイズの鉱物結晶は理想的な標本サイズでもあります。標本が商品となる由縁はその辺にあるとも言えます。

人間サイズはルーペという器具によって10倍程度のスケールの幅に拡張します。鉱物の種類によっては大きく結晶しないものもあり、そのような場合はルーペを通してその結晶美を愛でる事ができます。

鉱物が美しく結晶してくれる人間サイズとは手の平サイズをベースとしてせいぜい10の-2乗から+2乗くらいの狭い範囲のような気がしてきます。

これは形態の問題だけではありません。

色の事を考えると、同じような現象がある事に気づきます。例えば、電子顕微鏡の世界では色彩がなくなります。モルフォ蝶の美しい色彩やCDの表面に見える虹色も顕微鏡サイズでは単なる凹凸の構造しか見出せません。鉱物の世界の構造色も同じです。美しい色彩は人間の目に映る可視光線の波長に合った構造色なのです。それは電磁波の中の狭い範囲の現象です。

人間が感じる美しいという現象は人間サイズの狭い範囲の中の現象なのかも知れません。逆に考えると鉱物の美とは人間が美しいと思うように出来ているような気がして来ます。

今日は「人間原理的鉱物美学試論」というやや乱暴な仮説でした。

コメント (4)
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