東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」(鈴木 たつ 作)

2010-10-15 02:27:55 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010806 最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)以外にも戦前までは、代々今戸人形師の系譜をひく土人形作者の名前が辛うじて記録されています。旧浅草区今戸3丁目にいた、「鈴木 たつ」と「加野 とく」の2人です。

そのひとりが画像の人形の作者「鈴木 たつ」です。

有坂与太郎の著作に、今戸人形の全盛期であった嘉永年間の今戸人形の作者の地図(今戸町内の分布図)が掲載されています。(出典については定かに示されていない。)この中には上記、尾張屋・金澤春吉翁の養父である尾張屋・金澤兼吉翁の名がある他、「土直」こと「するがや惣三郎」という名前があります。また「あぶ惣」(虻惣)という屋号も記録されており、同じ家であるかのような記述があります。

この「あぶ惣」の末裔で後継者が「鈴木 たつ」であると述べられています。この人は今戸の長昌寺のそばに住み、芋屋渡世の傍らに「寒紅の丑」「貯金玉」「鉄砲狐」「口入稲荷狐と羽織狐」を作っていたとあり、特にこの「口入稲荷狐と羽織狐」それと「寒紅の丑」の作者として知られていたようです。この人の母親は「鈴木 きん」といい、同所で同様な人形を作っており、その妹が明治43年頃向島区寺島町に移った「江川 しん」で、「しん」が木地を作り、「きん」が彩色した、という内容が書かれていますが、その娘の「たつ」の場合どうだったのでしょう。

「芋屋渡世」とあるのは、生芋の卸し販売なのか焼き芋屋なのか、、、。仮に焼き芋屋だったならば、火を使う仕事なので、小さな人形の木地を焼くくらいのことは可能だと思います。雑器などの生活器物ではないので、ごく低温の甘い焼きであっても構わないのではないか、と勝手に想像しているのですが、、、。

この一家について詳しく記録されているものが少なく、今となっては知る手掛りもありません。今から20年ほど前、今戸町内で戦前から炭屋を営んでおられたお爺さんに昔の今戸焼屋さんについてお話を伺ったことがありましたが、「鈴木 たつ」についてはわかりませんでした。また、長昌寺付近の自治会の方にも戦前のことを伺いましたが、「芋屋」についてもわかりませんでした。

時既に遅かった上、この辺りは橋場の一部を除いて、ほとんど戦争で被災し、その後転出、転入のあった土地なので戦前の事でさえ難しいです。また、昭和戦前の記憶がある世代の男性だと、出征されて夭折されているケースもこの辺りでは多かったようです。清川の玉姫稲荷神社の神主様(おそらくご先代)にも伺ったのですが、わからないとの事でした。

仮に、地元で生れ育ったとしても、土の狐ひとつに関心がない限り、どこの誰が作っていたか、などと気にかけないほうが自然で当然なのかもしれません。

画像の狐の話に戻ります。「鈴木 たつ」による羽織狐ですが尾張屋さんの型とは微妙にモデリングが異なります。これが「あぶ惣型」というものでしょうか?股引きから爪先にかけて真っ黒に塗られていますが、草履の部分は前に出ぱっています。ちょっとロンドンブーツのようにも見えてしまうのですが、、。

羽織狐の近世遺跡からの出土例は意外と多くないのですが、一点、豊島区染井の遺跡から出土したものを記憶しています。そして、その出土品のモデリングは、この「あぶ惣型?」のによく似ていたと思います。

 

 

 

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Humpe・Humpe / YA・MA・HA

2010-10-13 23:31:33 | Meine Damen & Herrn

2007_0101_000000p1010805 Hallo Manfred-san!

Endlich habe ich das Lied  erreicht, das ich vor einigen Jahren bei Euch in Koeln zum erstenmal gehoert habe.

Lange habe ich missverstanden, dass das Stueck "TOSHIBA" heisst. Sogar wuste ich nicht ,was die Kuenstlerinen heissen.

Praktish, man kann heute das auf den Netzseiten  hoeren . Aber auch kann man  die Kuenstlerinen auf den Bildern gucken.    Traumhaft!

Jetzt  kenne ich, dass diese Platte vorher auch bei uns herausgegeben  wurde, obwohl  ich das gar nicht wuste.  Wahrscheinlich  gibt's bei uns nicht so viele Leute ,die  dieses Lied kennen, wie ich vorher nicht.,,,,,glaube,,.

Das ist aber echt  exotisch.  Wunderbar!

Link→YouTube  "Hunpe・Humpe / Yama-Ha"

Link→YouTube "Humpe&Humpe / Yama-Ha"


今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-13 21:51:18 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010783_2 最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた土人形たちです。

右の2体が「口入稲荷」の裃狐と女狐、、通称「口入狐」、左の立ち姿のが「羽織狐」です。

言わずもがなの事ですが、口入稲荷は清川にある「玉姫稲荷神社」の境内に鎮座する社で、元禄14年、新吉原の廓内に高田屋七兵衛という口入所があって、家内に稲荷の社が鎮座されていたが、霊感に基づき同社を現在の地に移したため、それから口入の呼称がおこったとか、、。

また、羽織狐は玉姫稲荷の土蔵裏から狐の像が発掘され、それに倣って作られたもので、これは祈願する時にその使いとして用いられるが、念願の叶った時には裃を着けて額を持った狐を奉納するきまりであると、有坂与太郎の戦前の記述にあります。

また、ある説には、現在吉原神社に合祀されている九郎助稲荷の荒廃するに及んで、羽織狐も口入稲荷から授与されるようになったのだといわれるが、憶測の域を出ない、、とあります。

羽織狐の姿は遊び人のようで、左手を羽織の中でげんこつに構えていざという喧嘩に備えているポーズで、このポーズを「やぞう」と呼ぶところから、この狐を「やぞう」と呼ぶ人もあったようです。

尾張屋さん作のこの人形をはじめて見るまで知らなかったのですが、草履を履いているのですね。鼻緒を描かれているのです。草履の先がしっかりと出っ張って造形されています。知らなかった頃は裸足なのだと思っていました。

「口入狐」の画像の女狐が両手を前に正座していますが、これとは別に宝珠を抱いているのもあります。

 

 

 

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十五夜さん

2010-10-12 09:11:59 | おともだち

2007_0101_000000p1010792 十五夜の宵に出会って以来、雨が降らない限り、差し入れをもって会いに行っています。

この間、かなりのどしゃ降りの晩もあって、その都度心配していましたが、思っていた以上に無事に雨を凌いでいるようです。

すっかりお馴染みになって、私の自転車の音がわかるようで、走って出てきてくれます。

いつもお腹が空いているようで、はじめは集中して食べますが、ある程度収まると、余裕ができるのか、耳や尻尾をすりすりしてきたり、足元でごろごろしながら合間にまた食べるといった感じです。

そろそろ帰るね、というとお名残り惜しそうに見送ってくれます。

2007_0101_000000p1010790 2007_0101_000000p1010793


秋冬モードへ

2010-10-11 03:55:10 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010781 この春以来、暑くなって膠が使えなかったので、専ら土いじりをしていました。

溜まった木地を窯入れして素焼きするのもこれで3度目です。漸く秋らしくなってきたので、素焼きに色塗りしなければ、と思いつつ、掘ってきた土も手がかじかむ水温になる前にせっせと水簸しておきたいと、心戸惑う今日この頃です。

とにかくまずは、木地にやすりをかけなければ、、、。


今戸人形 「子抱き(小)」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-11 03:39:24 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010785 最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた土人形です。

戦前の有坂与太郎の著作では「子抱き(小)」と表記されている人形です。「子抱き(大)」とは型が異なります。

この型は明らかに京都・伏見人形からの型どりで、そのもととなったと思われる伝世の伏見人形がありますし、現在でも伏見人形の窯元「丹嘉」さんで作られています。

伏見の人形よりもふたまわり以上小さく、彫りも甘くなっていますが、今戸での土人形製作が、伏見人形からの型どりから発展しているという一例と見てよいかと思います。

春吉翁によるこの人形の配色ですが、着物の部分が青灰色といったらよいのか、微妙な色合いです。姉さん被りの部分のように単純に群青色に胡粉の白を混ぜた色ではありません。藍色が混ざっているのか、幾分黄色みや黒みを感じられる色だと思います。

今戸人形の典型的な配色というと、一般的に群青に朱(または丹)あるいは染料のスカーレットを主に塗られている、というイメージがありますが、これらは天保あたりからの色遣いだと考えられます。群青色が舶来の新色として入ってきたのが、その頃らしいのです。

春吉翁の養父である尾張屋兼吉翁(天保4年?~大正8年)が人形を製作された時代が群青の導入された以降の時代でしょう。しかし人形によっては、群青以外の青の発色で変化をつけることもあったのかもしれません。

春吉翁作のこの「子抱き(小)」の人形も着物部分に生の群青で塗られたものがあるのでしょうか?

以前、このブログの「今戸人形」のカテゴリーで「浅草と深草」(8月)という記事で、伏見人形と今戸人形の「子抱き」を並べた画像を貼りつけていますので、よかったらご覧ください。

 

 

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今戸人形 「子抱き(大)」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-11 02:23:56 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010782_2 最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた土人形です。今戸人形の中でもよく知られた型です。また春吉翁作の人形の中でも比較的大きな部類に入るものではないかと思います。

背面の帯部分に四角い枠の中に「尾兼」という印があり、型としては春吉翁の養父である尾張屋5代目・金澤兼吉翁(天保4年?~大正8年・76歳)が起した型なのだと思われます。

「子抱き(大)」という名称は、有坂与太郎による著作に表記されているとおりで、(大)に対し(小)とある人形はこの型とは別の形です。

赤子に乳を与えている構図の人形であることは共通しています。

土人形で似た構想のものは、他の地方にもあるようで、山姥と金時になっていたり、マリア様に見立ててあるものもあるようです。

この尾張屋さんの人形は純全たる風俗スケッチという感じです。お母さんは既婚だから眉を落としていて、ほほ笑んだ口には鉄漿(おはぐろ)の黒が覗いて見えます。

子守狐同様、このお人形もまた母性豊かな表情ですばらしいと思います。

戦前で途絶えてしまった人形ですが、戦後になって、途絶えてしまった今戸人形を惜しみ、当時の郷土人形の愛好家がそれまで人形製作をしていなかった白井孝一さんに人形作りをすすめたのを機に、現在に至っているのはみなさん御存じのとおりです。この「子抱き」(大)については当時の愛好家のおひとり、湯島で飾職をしていた袴田穣さんがご自分が大切にされていた今戸人形を戦時中湯島天神下にあった防空壕の中に油紙に包んでおいたものが湿気でやられて色がとれてしまったものを白井に提供された型どりを促したのがきっかけだそうです。現在ではそういった経緯が忘れ去られ、白井さんでは背面の「尾兼」の刻印を消して「今戸焼」という刻印を入れて作っていらっしゃいますが、本来尾張屋さんの人形の型であった事実を風化させたくありません。

 

 

 

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区境

2010-10-09 00:29:46 | ご近所

2007_0101_000000p1010761 のんびりとした商店街の通り。

この通りが区境だと意識すると、何となく緊張感が湧いてくるのは私だけでしょうか。

右手が北区赤羽西6丁目。左が板橋区蓮沼町です。これがもっと大きな国道だったり、川だったり、山の尾根だったりすると、さもありなん、、という感じですが、、。

境を道路で直角に通り抜ける場合は大きな標識があったりしますが、ここの場合何もありません。

通りを挟んだ両側にお住まいの方たち、お互いにお向かいの「~さん」「・・・・さん」のお付き合いなはずですね。北区側の人が打ち水をすれば、板橋区に飛ぶ、って感じでしょう。何より猫さんたちはそんな事お構いなしに越境されているわけですね。

昔、東西冷戦の頃、ベルリンの壁が一軒の家を貫いている景色を観た憶えがあります。

そこまでドラマチックではなくても、もっと変わった境目の走り方って結構あるのかもしれませんね。


お竹如来

2010-10-08 23:09:06 | ご近所

2007_0101_000000p1010758 赤羽西6丁目にある「善徳寺」さん。赤羽といっても板橋区との区境まであと数十メートルというところです。

このお寺はかなりの古刹だそうで、創建は享徳2年(1453)もともと現在の皇居の吹上御所の辺りにあったものが徳川家康の江戸入城により場外の平川口へ、ついで日本橋馬喰町へ、その後浅草松葉町(現・松が谷)へ移転。関東大震災の被災により、ここへ移られたそうです。

ここの境内の一角に「お竹如来」様がお祀りされています。

「慶長の末期、武州比企郡の一行者が奥州湯殿山に参詣して「生身の大日如来を拝したい」と祈願したところ、その満願の日に枕元に如来様が現れ、「わが姿を拝したくば、江戸大伝馬町佐久間方の女中お竹を拝すべし」とのお告げがあったので行者は喜び勇んで江戸に出て行った。」

「このお竹というのは江戸大伝馬町の資産家佐久間家の女中で、非常に慈悲深い人だった。人出入りの多い大家だけに台所をあずかるお竹は流しの端に麻の袋を吊るしておいて、その端に溜まった飯粒や野菜の屑を一切とっておいて夜遅くこっそり煮て食べて、自分の食べる分は貧しい人々に恵んでいた。その事を知った主人が隙間から覗いてみたら、そのお竹の体に後光がさしていた。 

お竹は常に悩める人の相談相手となり、多くの人に仏の道を説き、慈悲の行に終始して多くの人を助けていたが 、延宝8年5月19日臨終に当たり、「われこそ大日如来なり」と告げられたので、時の人は大日如来の化身であった言い、臨終と共に昇天されたのであると語り伝えられている。」

「お竹如来の名は日本全土にひろまり、悩み事のある人が願かけをすれば、必ず恵みをたれると言われ、また人を求める人が願をかければ、よき人を世話されるとの言い伝えから今でも縁組、求人などの願かけの人があとを絶ちません。」

以上は善徳寺さんのご由緒書から引用させていただきました。

このお竹さん、江戸の流行神として有名だったようです。拳遊びが流行した頃の錦絵で、新宿正受院の奪衣婆と日本橋翁稲荷のお爺さんとこのお竹さんの3人で拳を打っている図を見たことがありますし、歌舞伎の「八百屋お七」の演目によく出てきます。昔観た河竹黙阿弥の「吉様参る」にも出てきて、悪人に縛りあげられて折檻される場面があったように憶えています。

若い頃、羽黒山に登った時、博物館にここのお寺の木像「お竹大日如来像」が出開帳されているのにびっくりしたこともありました。地元に住んでいながら、「灯台もと暗しとはこのこと」と思ったものです。

話は脱線しますが、昔、九官鳥だったか、おうむだったか、決まって「オタケサン」と言ったように思うのですが、これも「お竹如来様」から来ているのでしょうか

2007_0101_000000p1010760 2007_0101_000000p1010759


物干し

2010-10-07 23:30:08 | ご近所

2007_0101_000000p1010768 ここは十条仲原と赤羽西との境近く。

子供の頃、よくカブトムシやクワガタを探しに行っていた「どんぐり山」というクヌギの木の林のあったところの近くです。

この物干し、いいですねえ。

子供の頃はそんなに珍しいとも思っていませんでしたが、今見ると、もう懐かしさでいっぱいです。

それに背景もまた素晴らしいです。ブログではそれなりに琴線に触れたご近所の風景を採り上げているのですが、ここは最近での大ヒットだと思います。

2007_0101_000000p1010772 勝手な思いではありますが、できるだけ残っていて欲しい風景です。

カメラを向けていたら、背後から猫さんの声。私に声をかけているのです。「何やってるんだ?」とでも言っているのかな、、、?寄ってみても、物おじしないで、すり寄ってきました。珍しく人見しりしない猫さんでした。

2007_0101_000000p1010773


今戸焼(32) 薄茶器 (白井善次郎 作)

2010-10-07 12:55:15 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010753 底に陶印があり白井本家の「善次郎家」で作られたもののようです。白井和夫さんかそのお父上の善次郎さんの作でしょうか。

茶道のことは全くわからないので、何のための器なのかずっとわからないでいたのですが、江戸千家で棗の代りに使われる、「大渡し」という薄茶器なのだとか、、、。

蓋の裏が金色に仕上げられています。

一見、東京の土を焼いたような色に見えるのですが、よく見ると、取り寄せの白い土で成形して、表面を化粧した色なのです。

茶道のことを知らないので、「猫に小判」「豚に真珠」のようですが、今戸焼でこういう形のものも作られていたということは知ることができます。

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今戸人形 「親子狸」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-07 12:17:59 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010755 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による土人形です。

秋葉原駅のすぐそば、神田川をはさんだ対岸に柳森神社というお社があります。現・神田須田町。

神田お玉ヶ池に住んでいた親子狸を祀ったもので、お玉ヶ池はもともと別のところにあったそうです。

「この付近一帯には、徳川初期まで「お玉ヶ池」という高大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人がらも品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名がついたという。現在その由縁の「お玉稲荷」が岩本町2-5に都の旧跡に指定され残っている。」(以上他のHPより引用させてもらいました。)

柳森神社は「お玉ヶ池」一帯が開けてから現在地へ移ったものだとか、、。神社からは親子一対の小狸を授与していて、明治24・25年頃に遡るそうです。親狸は「壽」、子狸は「福」を授けんという霊夢によって創りはじめられたとか。

現在でも画像の尾張屋春吉翁の作と同じ大きさ、形のお狸さまが授与されているのではないでしょうか。(神社の方にお訊ねしたところ、現在のお狸さまは日暮里のほうで作られているのではないか、、とのお話でした。)以前、私も神社で授与していただきましたが、お狸さまと一緒にキャンディー一袋を授かりました。聞けば、お狸さまは甘い物が好きで、お供えして心願するのだそうです。

春吉翁によるこの人形は親狸の背面に「福壽」という彫りがあります。画像のはお腹のところが黄色い染料で塗られていますが、黄色い顔料で塗られているのもあります。

 

 

 

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お訊ねの件に関して

2010-10-05 17:52:05 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1010749 bowさんのコメントのお訊ねに関して。赤羽に「ピクニック」という喫茶店があったか、どこにあったか、ですが、聞いたことがあるような、ちょっとうやむやでした。

昔、赤羽には加盟店で発行していた「あかばね漫歩」という今でいうフリーペーパーというのかタウン誌がありました。

加盟店の店先に山と積まれていて、自由に持ち帰ってよいものでした。

昭和60年代前半の「漫歩」を見てみると、ありました。「喫茶 ピクニック」。場所はOK横丁の文房具屋さんの仲屋さん側(牛丼の松屋さん側)から入ってすぐの曲がり角あたりですね。

ここだと、私は入ったことないです。「あかばね漫歩」ってなかなかローカルでいい味の読み物だったし、地元でこういうものを作っていた頃の町の活気がすばらしかったな、と今になって思います。

ついでに店があったであろう現在の景色を撮ってみました。

2007_0101_000000p1010751 2007_0101_000000p1010750

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中華「大豊」さん

2010-10-03 21:58:10 | おいしいもの

2007_0101_000000p1010747 今夜も行ってきました。

わんたん麺を食べてきました。

このあいだはカメラの調子が悪くてお店を撮ることができなかったので、今晩改めて撮ってきました。

繁華街の中ではないので周りは真っ暗。虫の音が聞こえ、猫さんたちが歩いているという風情です。

今風のラーメンがお好きな方にはお勧めしませんが、昔風の懐かしい味好みの方、脂っ気のない味が好きな方はどうぞ。