東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

型抜きと型起し

2016-07-27 03:31:16 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 既に今年も折り返し点を過ぎたとかラジオやテレビで聞きますが、7月も終盤。ちょっと焦ります。というのも今年に入ってからレギュラーの仕事に明け暮れていたので、日頃からレパートリーを増やしたいという思いがあまり達成できていないのです。昨年でいうと7月に作品展をさせてもらえる機会があったので、それなら新しいレパートリーも、、と思ってその時点で3種類の人形を起こしました。

 先日まで型抜きして素焼きまで運んだ鉄砲狐に着色して早くお納めにあがりたい、という思いもあるものの、その次の動きを考えると色を使う前に既成の型の人形もある程度型抜きして貯めておいて早く乾燥させ、色塗りの裏で素焼きを済ませておこう、できればせっかく粘土いじりをするのだから、ひとつでも新しい型を起こして、それも型抜きして素焼きを目指したい、と思いました。

 常日頃から仕事場のスペースのことでぼやいていますが、実働する手は2本。できることに限りがあるのは当然ながら、ふたつ以上の作業を同時進行できるならば、気持ちを急くこともないんですが、、。

 今回起こしたのは福助とお福の夫婦。今戸の福助といえば、東京の古典落語の演目のひとつ「今戸焼」の最後のオチに出てくることでも有名です。落語の演目でもうひとつ有名なのは「今戸の狐」に出てくる鉄砲狐ですね。落語に出てくるくらいなので今戸焼の福助もどこにでもあったのでしょう。しかし思い出すのは昭和を代表する郷土玩具の愛好家であり研究家でもあった故・牧野玩太郎さんの文章の中に「未だ見たことないもののひとつ」として「今戸焼の福助」が記されていたことです。昭和40年代に芳賀書店から発行された「東京の郷土玩具」という写真集の巻末の文章だったと思います。

 ただ最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになった人形を昭和40年代に所蔵している人々を訪ねてカラー写真撮って、愛好家の間で頒布されたという今戸人形の生写真の中にはふたとおりの「福助とお福」があったように思います。後にある愛好家の方がその写真セットを貸してくださって、まとめてカラーコピーさせてもらったことがありました。

 その後紆余曲折あって、実際には結構今戸の福助やお福は明治までたくさん作られていたという実感を持つくらいに結構伝世品や近世遺跡からの出土が多いことがわかりました。

 昨日型起こしした福助とお福。実際に手がけはじめたのはもう何年も前のことだったのですが、100パーセント納得したという感じでもないのですが、とりあえず割り型を作ろうと決心しました。「組み物」というのはモデリングには厄介だと思います。先にできていたのはお福で、相手の福助ができあがらないとひとりだけ作っても、、、と思いずっとそのままでした。先の丑年に作った「お福牛」はこのお福を直して作ったものです。

 抜き出した状態での福助とお福。福助のほうが一日早く抜き出したので遅れて抜き出したお福とならべてみるとサイズが揃っていないようにも見えるのですが、福助のほうが乾燥が進んで収縮しているので、先年素焼きまでしておいたお福と並べてみました。

 福助が完全に乾燥しないとどうなるかまだわかりませんが、揃ってほしいです。今戸の福助には伏見人形由来の「叶福助」もあり、何年か前に作ったことがありました。今回の福助とお福のペアにもたくさんの型変わりやサイズの異なるものがたくさんあるので、今後今回のものをもとに変化させてみたいと思います。はやく素焼きして色塗りするのが楽しみです。(色を塗ってはじめてがっかりというケースもあるんですが、、。)

 

 

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曇り天気の水簸(すいひ)

2016-07-17 17:37:30 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 汗だくだく。数日前湿度100%なんて天気予報で言っていたのもそのはず。何をやってもすぐに服がびしゃびしゃになって一日何回も着替えては洗濯の繰り返し、、。前回水簸した泥のほとんどは吸水鉢で水抜きして大きめのタッパーに保存してあり、そろそろ掘ってきた土を攪拌して篩(ふるい)にかけなければ、、と思っていたところでした。厳しい照りの中はちょっと怖いので今日のようにどんよりしている天気こそ「やるなら今でしょ」。十五夜さんも玄関先から作業をご見物。左のバケツには半分ほど沈殿した泥しょうと半分の上澄み。まずは上澄みの水を他のバケツに移してから沈殿した分の泥しょうを沈殿用の第二バケツに移動させてから手前の攪拌用バケツのふやかした土を攪拌して、左のバケツで篩にかけながら移します。

 十五夜さんが「早く来て」とばかりに呼んでいます。

 

 「もう少しだから待ってね。」なんて言いながら、中腰状態で作業していると体じゅうから汗が噴出してきて顔中「袋田の滝」状態。泥だらけの手で顔を拭う訳にもいかず、、。

 そうしているうちにバケツいっぱいになりました。明日には沈殿してバケツ4分の一の上澄みが現れるはず。上澄みを移動させてまた同じ作業の繰り返し、、。

 


送り火

2016-07-16 22:05:35 | 日々

 今年は身辺がどたばたしていてちょっと片手落ちのお盆ではなかったかと思うんですが、とりあえすお仏壇を拭ってお花も安いのを買ってきてお供えし、盛り籠の安いのをお供えして、お茶を入れて取り換え、中日におはぎをお供えして、今日も新しく入れたお茶を取り換えてお線香をお供えしてから送り火をしたという程度、、。何が片手落ちしたか、というと入り前にお花とおがらを買いに行ったら、まこもの牛と馬が売り切れていたので、省略してしまったこと。なすときゅうりで作ってもよかったんですが、、。完ぺきにはいかなかったものの、気持ちは察してくださいよ、、てな感じでした。


今戸焼(53)焙烙(ほうろく)

2016-07-15 21:42:39 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 

 只今東京区部ではお盆です。地域地方によっては8月だったりしますが、、。今戸焼製の焙烙をまだ採りあげたことがなかったと思います。現在でもスーパーとか仏具屋さんで際物として取り扱っていますが、今戸焼製のものは現実的には葛飾区青戸の内山さんと同じく葛飾区四つ木の橋本さん製をもって生産に幕が閉じられてしまったので、まずスーパーや仏具屋さん荒物屋さんからは姿を消してしまっています。現在スーパーで流通しているものは今戸焼の焙烙とは形態の異なるものです。常滑など中京製のものが東京に今日流通しているケースも見られますが、他に国外産の輸入ものなども出回っているのかどうか、、、。

 地域によって使わないところもあるのかわかりませんが、東京の下町地域では必需品でした。お盆の迎え火送り火でおがら(蓮の茎の乾燥させたもの)を焚くときの受け皿として使います。送り火のときにはマコモ馬もこの上で焚き上げます。

 昔の人はお盆以外にも七輪に焙烙をかけて節分の豆を煎ったり、またお寺で焙烙灸といって頭に焙烙を被ってその上からお灸を焚くという行事もあるようですね。小石川のお閻魔さまの焙烙灸は全国的にも有名かもしれません。

 あと料理屋さんなどで焙烙焼きといって焙烙の上で鯛や海老を塩焼きにして出すというのをTVCMで見たことがありますがあれは関西方面のCMだったか、、?

 少なくとも東京のお盆では馴染みのあるものです。画像の焙烙左上のは葛飾区四つ木の橋本さん製、右下のは葛飾区青戸の内山さん製だと思います。土の焼き色が微妙に違いますね。共通しているのは形態で、今戸焼の焙烙は口縁近くが耳たぶのように厚みがあります。

 常滑製では口縁のはもっと薄くて直角に立ち上がっていたりすると思います。このブログでも何度もとりあげている旧・今戸八幡に今戸焼屋たちによって奉納された狛犬には「火鉢屋」と「焙烙屋」という区分けが記されていて、火鉢と並んで焙烙が今戸焼の主要な製品であったことが偲ばれます。

 

 結局のところ先述の葛飾の今戸焼屋さんのおふたりを最後に今戸焼の焙烙は廃れてしまいました。しかもこのおふたりによる焙烙も植木鉢も地元の土を材料として作られていたわけで、よく遣う言葉として「江戸前」といいますが、本当の最後の江戸前だったわけです。廃れてしまってから残念がっても始まらないことですが、これも最後の今戸焼だったと言わねばなりません。

あ、そういえば歌舞伎の舞台でも焙烙を使う場面がありますね。「寺子屋」の終盤「いろは送り」で角火を焚くところ。それと「四谷怪談」の「蛇山庵室」でも確か、、?(記憶違いだったかな?)焙烙に限らず、歌舞伎の舞台上で今戸焼で作られた小道具があったものですが、最近では使われなくなったと聞いてます。何でも昔のように注文通りに作れなくなったので発注しなくなったとか、、。


今戸人形「狐 馬」(尾張屋春吉翁 作) ※★(検索 今戸焼 干支 馬 午)

2016-07-14 07:43:16 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。

この人形は手が込んでいて、馬と狐それぞれを別々に型抜きして成形してから組み合わせてできています。馬の部分だけ単体で仕上げた人形もあります。

春吉翁作の狐の人形の面描きですが、狐拳・子守狐・口入稲荷狐・羽織狐・三方狐・鉄砲狐の極く一部は鼻と口を描き分けていますが、鉄砲狐そしてこの狐馬は一点で省略しています。狸の人形と共通していますね。これはどんな意味があるのでしょうか?

狐馬の人形は都内の近世遺跡のあちらこちらからかなり出土しており、人気のある人形だったのではないでしょうか?また、作者も複数いたのかもしれません。

「狐馬」という言葉の意味ですが、、、

狐馬」とは、「狐に馬」もしくは「馬に狐」を略したことわざ。そのことわざは「馬の背に狐を乗せたよう」もしくは「狐の背に馬を乗せたよう」を略したもの。狐が馬に乗っているところから「落ち着きがないこと。言うことが当てにならず、信用できないこと」。狐が馬を化かして背に乗っているのか、もしくは狐がたぶらかされて馬の背に乗っているのか。すまして、でも居心地悪く馬の背に乗る狐。前を向いて、しかし不安に狐を乗せる馬。はたから見るとふらふらしていて危なっかしいけれど、何やら滑稽でもある。(以上はよそのページから引用させてもらいました。)

とあり、皮肉なモチーフで江戸っ子好みだったのかもしれません。春吉翁によるこの人形でもまた配色といい、筆の穂先の美しい面描きといい洒落たものだと思います。

本来今戸焼の土人形に限らず、全国の土人形の産地では「十二支」の干支ものを揃えて作るとか、縁起ものとして干支の人形をひととおり集めるとうことはそれほど盛んではなかったのではないかと思います。そのためどこの産地にも十二支が揃っているということでもなく、今戸の古典にもそれらしいものは確認できません。「狐もの」のくくりとしては今戸の狐のバリエーションは多く、春吉翁以前の時代にはより多くの種類があったという近世遺跡からの出土品の例が少なくありません。しかし、今戸の古典的な馬の人形に限ればいくつもあり干支の馬として拾えば、多いかもしれません。この「狐馬」はその代表的なものと言ってよいほど昔からポピュラーなもののひとつだったと思われます。

この記事はだいぶ以前にアップしたものですが、旧ブログサイトの閉鎖と引っ越しなどにより埋もれていたものを虫干しのため再度アップしたものです。

 

 

 

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最後の今戸焼屋さん・・・故・内山英良さん

2016-07-12 23:06:38 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 

 入院中の家族がつい最近転院し、家から遠くなってしまいました。遠いのは二の次で快適な院内生活を送らせてくれることを第一に願っています。ただ遠いので通うのはチャリでこの暑さだと心配で、バスを乗り継いだり、電車とバス2本乗り継ぐとか選択肢はいくつかありますが、すいすいとは行けない感じ。反対に考えれば普段ご縁のない土地なのでこういう機会に乗り継ぎの合間にも土地を知るとか近場の興味あるところに寄ってみることも悪くないかとも、、。

 前書きが長くなってしまいました。今日も厳しい暑さでしたが、病院の面会時間の前に葛飾区青戸に寄ってきました。じつはここ、実質的な最後の今戸焼屋さんだった「内山英良さん」がお住まいだった土地なのです。言葉の綾で「あそこにまだいるじゃないか」という人もいるかと思いますが、実際の仕事の内容や使用された原料も含め掛け値なしで本当の今戸焼屋さんで最後の方になってしまった、、と私は思います。

 聞けば3年以上前にお亡くなりになられたそうです。京成青砥駅と高砂駅の間に流れる中川の畔にある内山さんをお訪ねしたのは、私は当時25歳でしたから30年近く前になります。当時は葛飾区内には白井善次郎家(白井本家)の白井和夫さんが宝町に、四つ木には橋本家が操業されていました。関東大震災、東京大空襲による被災や今戸近辺の宅地化などを理由に今戸焼屋さんの多くは葛飾や足立、または関西に移住し、戦後の今戸焼の実質的な生産の中心は葛飾区内に移りました。そして最後までご活躍された3人の中で最後の今戸焼屋さんが内山さんとなったわけです。

 内山さんの仕事場にはじめてお邪魔したときびっくりしました。敷地内に大きな土の山があって、「こっちはさくい(荒い)土」「こっちはねばい(粘りのある)土」で「どっちも地元の建設屋さんが運んで持ってきてくれんだよ。ふたつを練り込んで丁度いい土にして使うんだよ」と仰ってました。その時作られていた製品の多くは植木鉢と焙烙で粘土を詰めた「シッタ」を機会ろくろにセットして回転させ、こてを下ろして余分な粘土を刳りぬいて成形されていましたが、内山さんの場合当然手ろくろの技術を持った上で大量に規格を合わせて作るため機会ろくろを使われていたのでした。お邪魔すれば気さくに案内してくれました。体つきのがっしり大きなそれでいて心優しい感じのおじさんでした。

 その後お寄りする機会がないうちに亡くなられたということで、これで昔ながらの今戸焼屋さんはいなくなってしまったのだな、、と思っていたのです。

逆に言えば、宝町にお住まいだった白井和夫さんにも青戸の内山さんにもお目にかかって僅かですがお話を聞くことができたというのは幸いだったなと思います。(その当時、お話の中に出てくる技術的な話とか十分に咀嚼しきれていなかったということは、今になって残念でなりません。)

 さて今日青戸へ行ったのは亡くなられた内山さんがご生前お作りになられた製品が青戸に工場のある老舗の手焼煎餅屋さんである「神田淡平」さんに少しだけ残っていてそれを頒けてくださるということでお邪魔したのです。

 お店は内神田にあるそうですが、作っている工場の佇まい、素敵です。お話によれば五百数十年前の応永年間からこの地(今は青戸という町名ですが昔は一帯「淡之須」と呼ばれていた)に居を構えていらっしゃるそうで、もともと武士でだったのを武を捨て「平ぜむ殿」として人々に親しまれ、自ら「淡平」と名乗られたのが今まで続く屋号のはじまりなのだそうです。今日お邪魔してご主人からお時間いただいていろいろ教えていただいたのですが、乾燥した煎餅の生地を網に乗せて焼く工程では、放っておくと熱で反り返ってしまうので鏝で力を入れて押さえるのだそうで、その鏝が昔は今戸焼製のものが普通だったのがいつからか他の素材に変わっていった。草加辺りでも昔は今戸焼製の鏝だったのだろうが、今では他の産地、例えば益子産で施釉されたものを使っているらしい、、との由。本来今戸焼の素焼きで使用されていた理由は素焼きだと熱の伝導が鈍いので熱くならないで使いやすく、施釉とか堅い焼焼き物だと熱くて使いづらいのではないかということでした。また昔はお煎餅の生地屋さんから生地を仕入れる場合、生地屋さんが今戸焼の鏝を添えて卸していたものだそうです。

 「淡平」さんのお宅も今戸焼の「内山さん」のお宅も揃って中川の西岸にあり、地続きで内山さんに昔ながらの今戸焼製の鏝をお願いして以来久しく作ってもらっていたそうです。一番上の画像の向かって右が内山さん製の鏝です。お煎餅が反り返らないよう、力をうんと入れて押さえることもあり「持ち手」も部分が割れてしまったものなのだそうですが、特別に頂戴しました。壊れているといっても、これこそ実際に使われた証拠。内山さんとしては手間がかかって大変なのをお願いして作ってくださったそうです。

 画像右は「淡平」さんの創業周年記念の折り、内山さんに「土器(かわらけ)」を作ってもらった残りであまり残っていないのをお譲りいただきました。「神田淡平」という陰刻(落款)が入っています。この土器(かわらけ)こそ内山さんの最後のお仕事になったのだそうです。 

 それにしても戦後の実質的な今戸焼の中心であった葛飾区内から最後まで操業されていた内山さんがお亡くなりになったということは実質今戸焼の終わりとも言えることで残念のひとことで片付けられない現実です。あと余断ですが、ずーっと前、それも昭和40年代頃からマスコミで取り上げられた記事の中では葛飾の今戸焼屋さんたちに光を当てるものが少なかったのではないかと思います。葛飾の今戸焼屋さんたちがまだ操業されていた当時に既に「最後に残る一軒の今戸焼屋」という形容を他の家だけが受ける記事って少なくなかったと思います。何とも皮肉で矛盾した話です。その理由のひとつとして今戸焼という言葉からのイメージというものが戦後ほとんど大衆から離れてしまったからではないかと思います。「今戸焼?今川焼のことですか?」というやりとりは単なるギャグではなくて実際に何度も耳にしています。それと戦後「今戸焼」という言葉は郷土玩具の愛好家によって「今戸焼の土人形」という狭いイメージになっていったということもあるのではないでしょうか。葛飾区内には戦前までには今戸焼屋さんで人形も作っていたという記録もありますが、実際には今戸焼屋といっても製品はさまざまで人形を作る家だけが今戸焼屋なのではなく、人形屋さんは今戸焼屋さんの中のごく一部だけでした。また今戸人形屋さんは浅草今戸町内の尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~明治19年)を最後に伝統は途絶えてしまっています。

 さびしいな、時代の流れとはいってもはじまりません。それでも今日最後の今戸焼屋さん「内山英良」さんの製品に触れることができて何よりでした。「神田淡平」さんにはお世話になりました。

 「神田淡平」さんでは今戸焼の鏝にちなんだ「今戸焼」というお煎餅も出されているそうです。今日工場でお尋ねしたのですが神田のお店のほうに出荷された後のようなので、今後お店に行って買って味見してみたいと思います。奇しくも亡くなられた永六輔さんは長年にわたってこちら「淡平」さんとは御懇意だったそうで、お店の商標をはじめコピーライトも永さんによるもの。生前のお付き合いからTV局からコメントの撮影を先日受けたとのこと。浅草生まれの永さんにとって江戸東京このみのお煎餅が好物のひとつだったようです。

神田淡平さんのHPはこちら→


猛暑+余熱

2016-07-12 09:54:31 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 この時期の焼成というのは厳しいですね。汗だくだくです。

とりあえず鉄砲狐一回の納め分は焼いたのでのこり色々な種類のもの、、頼まれていたもの、そのほか必要あってぬきつつあるものなど焼いています。外気は33℃以上いっているうえ、素焼きは炉内800℃をピークにして焼いていて、いつもながら炉内500℃に達するまでは蓋を半開きにして水分を逃がすようにしているので結構周りにもダイレクトに熱が放射されます。

 500℃を過ぎて蓋を閉めてからも結構余熱があるので暑いです。窯の炉内温度は表示されますが、考えてみると周りには温度計を置いていないので買ってきて今度測ってみたいとは思いますが、本当に暑い。窯のあるスペースには断熱材が貼られています。

 冬場の底冷えするような次期ではこの余熱によって廊下も寒くないという利点になりますが、夏場は、、、隣にトイレがあり、冬場はほっこり温かくっていいですがこの時期のトイレ内はサウナのようです。

 夏でもせめての余熱の利用法としては、石膏の吸水鉢を傍に置いておくことで乾燥を促すことができ、毎朝取り替えて除菌して乾燥させる吸水ダスターも吊るして超特急に乾燥できるくらいでしょうか。

 でもやっぱり暑すぎるのは辛いです。


豪徳寺の招福猫(昭和戦前風)

2016-07-07 04:47:23 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 

 このところ浅草の被官さま(浅草被官稲荷神社)へお納めすべき鉄砲狐の抜き出しから素焼きの焼き貯めに明け暮れていたためご無沙汰していました。一回のお納め分の素焼きまでは今やっと済んだところです。

 まだ手がけていないもの、手がけたいもの山ほどあってうずうずしていますが、実際早く仕上げておかなけならないものを優先させなければならないのでちょっと難しいところです。そんな中、自分の欲求解消のためにもやってしまいたかったのがこれ。「豪徳寺の招福猫」(昭和戦前風)です。

 この白黒画像は西沢笛畝 著「日本郷土玩具事典」(岩崎美術出版社)の東京の項に掲示されているものです。以前からずーっと気になっていました。

しかしこの猫の現物に接することは未だもって機会がありません。我が物にするということが形を把握するためには最善の方策ではありますが、それにばかりこだわっているわけでもなく、所蔵されているところがあればお願いして見せてもらう、写真に撮らせてもらいたい、、と思って所蔵先をいろいろお尋ねしていたのですがまだわからないままです。少なくとも笛畝さんのコレクションには含まれていたからこそ、こうした画像が残っているわけです。

 笛畝さんのご生前は板橋の常盤台近辺にお住いだったそうですが、後に埼玉県越生に越生梅林に「笛畝記念人形美術館」という形で公開されていたのが閉館に至り、その所蔵品の一部はさいたま市に納まり、現在岩槻に人形博物館を開館する準備中ということで準備にあたっている学芸員の方にこの猫の存在についてお尋ねをしたものの、含まれていないようです。他にも調布市立博物館や世田谷区代官屋敷資料館などにも問い合わせたりしたもののまだ出会うことは叶っていません。

 結局のところこの一葉の白黒画像しかなく、寸法やモデリング、色彩など全くわからない状況ですが、だからと言って待っていても始まらないので想定して作ってみました。そんなに大きなものではないだろうということは確かだと思います。実物が猫本体(前後の割り型)と台座になっている盥(たらい)状のパーツを接合してできているのは画像からわかります。猫本体のモデリングについてはこの画像から割り型の前面は想定して作ってみましたが、背面は類型的なイメージで想定しました。

 いうまでもなくこの猫は正面向きに招いていて江戸東京の例えば今戸焼古来の横座り顔だけ正面向きのポーズではなくて、西日本由来の正面招きです。豪徳寺は招き猫の産地ではなくて、瀬戸や常滑などよその産地から取り寄せて授与してきたので、今戸の古式とは違うのは当然かもしれません。しかし、この猫に限ってみると筆の枯れた表情といい今戸風な描彩の雰囲気に近いものを感じて、それがこうやって作ってみたいという気持ちの原動力になった訳です。実際のところどこで作られたかという情報は知りえないので、、。

 配色についても白黒画像から推定しながら選んで塗ってみてはいるもののどうでしょうかね。白黒画像から推定すると、首輪は昭和のはじめなので「赤」や「紅」系統なんだろうと思いますが(江戸時代の調子だったら丹(朱色系統)、明治の調子だとコチニールとかスカーレット染料とか新洋紅って感じに赤系統の色でも時代で異なります)、口や耳の発色はもっと淡い感じに写っているので白を混ぜた桃色みたいな色なんだろうか????しかし桃色だと甘くなってしまうので、丹(朱色系統)ぽい色で、。正面胸に見える「招福」の文字は首輪並みにはっきりと発色して見えるので首輪と同じなのか?それとも墨なのか?色の変化という意味で群青か????とも考えたのですが、古い白黒画像の常として群青色は画像ではもっと淡く写るものなのでパス。寺社仏閣由縁のものならば、丹(朱色系統)で文字入れしたほうがしっくりするだろうという判断で入れてみました。文字の崩し方も枯れた感じで「五体字典」で調べてみるとなるほどこういう崩し方か?という例もあって真似したつもりですが、難しいですね。

 問題の盥(たらい)の色と内側の強い感じの色について、、。そもそも何でこの猫はこういう台座に乗っているのか???、、、という疑問から考えているのですが、当時の確かな状況についての解説文など何もわかっていないので、仕方なく自分で推定して塗ってみました。なせ盥(たらい)に入っているのか。行水している?盥舟(たらいぶね)に乗って浮かんでいる?いろいろ考えたのですが、豪徳寺との結びつきととしてしっくり来ない。豪徳寺は禅宗のお寺だからご本尊は釈迦牟尼仏(お釈迦様)で、お釈迦様のお姿は施無畏印(せむいいん)与願印(よがんいん)のポーズの立ち姿、座り姿はよくあるのですが、花祭り(灌仏会)の誕生仏の姿というものもあり、それならば甘茶をかけるのだから仏様はお茶を受けるための器のようなものにお乗りになっている。つまり花まつりのお釈迦様のお姿になぞらえて「天上天下唯我独尊」という感じに似せてパロディーみたいにしていると考えれば豪徳寺と猫の姿とのつながりのようなものがあるように見える。それなら盥(たらい)は黄色系統の色で内側は「甘茶」になぞらえた色、ということで、実際の甘茶の色は緑がかった黄色ですがお茶というのを強調して深い鶯色、深緑系統と考えて塗ってみました。色のコントラストを考えれば群青色だともっと映えるんですが白黒画像では群青色はこんなにはっきり写らないとおもいますし、、。

ということで塗ってみました。

 盥(たらい)の形が丸っこすぎて点心の「エッグタルト」とか「ココナッツタイル」みたいになってしまっていますが、片面型で抜きやすくと考えて角を落とし過ぎたので、今後更に改良できるかな、、?とも。

 一体全体に関するデータが皆無なので、今後わかればそれにあわせて直すしかないかと思っています。どこかで持っている人がいらっしゃれば是非見せてもらいたいものです。

 戦前の豪徳寺の招き猫にはいろいろな産地からいろいろな姿のものがあったようですが、その中でもこの白黒画像のものが一番面白いと思います。但し、戦前の豪徳寺の猫全てに共通するのは胸に「招福」という文字か「丸〆猫」ならぬ「丸に福」と描かれていることです。戦後はこうした特徴は忘れ去られてしまい現在のものに至ります。

 今戸焼とはいえないものですが東京っ子のひとりとしてこうしたものも作ってみたかったのです。「とんだ勇み足」といわれてしまうかもしれませんけど、、。

 

 

 

 

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