東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

明け渡し

2012-10-27 19:18:05 | 日々

P1010951経済的理由で借りていたアパートを解約する決心をしてからというもの、自動車の運転もしないので、アパートに山積みされていたダンボールや古書の山、小さな家具までチャリの荷台にくくり付けてアパートと両親のいる自宅を往復する毎日でしたが、やっとアパートを空にしてお掃除を済ませ、今日家主さんと不動産屋さんとの立会いのもと状態の確認、そして鍵をお返しして引渡しまで済ませることができました。

数えてみてびっくりしたのですが、15年も借りていたのです。当時は勤めがちゃんとありましたので、余裕というほどのこともなかったけれど、最近はちょっとしんどくなってきていたのでした。

でもとりあえずこれからは家賃分の支出はなくなるので、少し肩の荷が降りたような安堵感。

意外だったのは、退出後のクリーニング代とか修繕費は当然差し引かれても15年前支払った敷金の一部が帰ってくるということ。うれしいです。

このアパートでの思い出と言っても、実際住んでいたのは隣の町内の両親のもとだったし、時々日本へやってくるドイツの友達たちが泊ることができるようにしていた時期もあったけれど、あまり自分自身の生活感というものは染み付いていないので、感傷的なものとか感慨とかあんまり湧いてこないですね。ひとつだけ、因果のように感じたことがあって、ここの引越しをはじめてモノもいろいろ処分しつつあったある日、ずーっと何年も音沙汰のない知り合いに偶然会う機会があったのにはびっくりしました。

引越しも済んだので暮れに向けてのの土いじりも本腰を入れていかなければと思います。ちょっと憂鬱なのは、アパートから自宅や仕事場へ移動させたモノの山。時間をかけて落ち着いて整理して早く切り崩したいです。


江戸博今戸焼報告書  執筆者に代わって訂正します。

2012-10-26 01:55:43 | How strange 江戸東京博物館

P1010737江戸東京博物館以外に今戸人形は存在しない!」、、、この夏の前に私にとってかなりショッキングだった江戸東京博物館の学芸員さんのご発言についてこのブログ上で記させてもらいました。その際、実際発行された報告書の中身についてもええーっ!!ということがあった由記したところ、それはどんなこと?知りたいというご意見もいいただいていたのですが忙しくてそのままになっていました。現在も結構いろいろ忙しくてドタバタしているのですが、自分としても「おかしい」「変だ」と思うことははっきり伝えきれていないと胃もたれが続いているような感覚だったので記してみたいと思います。

この報告書137ページあり、その中で最後の生粋の今戸焼の人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお残しになった土人形や写真資料等について触れているのが91ページから125ページまでの35ページにわたります。その中で春吉翁作の土人形が江戸博に寄贈された経緯、春吉翁についての思い出(故・牧野玩太郎さん)、春吉翁についての概要、そして春吉翁在世当時の写真資料と寄贈された土人形の図版ページと展開されます。金澤家から江戸博に多数のお人形が寄贈されてよかったと思う唯一の点はお人形がとりあえず図版となって発行され、多くの人の目に触れるきっかけとなることだと思います。ただせっかくカラーで図版になるのなら横面裏面底面とすべて画像でありのままを伝えてもらったほうがありがたかった、、というのは私の個人的意見であって、聡明な学問の世界の人(雲の上の人)のやり方ではこうなるしかないのかな?という感じでしょうか。実測図は遺跡の出土品などにも常套的なものではありますが、考古畑の人ならわかるのかもしれないけれど、私のような頭の悪い人間には却って形状を把握しにくいし、おそらく実測して図面にした人の癖によって同じ立体も変化して表現されているのではないかという不安を持ちます。断面図がありますが、何故そこで断面しなければならないのか?という不思議な図もあります。例えば頭から足の先まである人形なのに真ん中で断面すると頭から又までの胴体しが描かれない。足はどうすんの?というようなケースです。もしこれが美術系の博物館だったら画像も変っていたことでしょう。でもよくわからない実測図でも人形の形状を伝えようとしている努力というものは汲みとるべきでしょう。個人的にはありがた迷惑な感じもするのですが、、、。(遺跡の出土品でもないのに強引にそっちへ引き寄せられているという感じ?お人形を実測しているというのもなんだかねえ。仮に平田郷陽の人形だったらこういう扱いになっていたのかどうか?この辺は担当者の趣味によるものというべきか?それともご自分のお家芸をここぞとばかり披露したかったのか?絶対写真に代えてくれたほうが親切だとおもうけれど、、。)

ここからが本題と思ってください。102ページから104ページまで「金沢武佑寄贈資料実測図リスト」という遺跡報告書でいうところの「観察表」のようなのがあります。はっきり言うとこの内容だとむしろない方が混乱がなくてよかった。とんちんかんです。例えて言うなら「日本にまだ来たことのない外国の方が"fujiyama","sakura","geisha"を想像して芸者さんがハイヒールを履いてパラソルをさして富士山に登っているような妙なへんてこな感じ」あるいは「外国の方がはじめて納豆を食べて書いた印象記のような不思議な」感じがします。当たり前のことは他のところでまとめて述べ、資料それぞれのつくりや特徴をこそ優先して述べるべきところなのに、大事なところは触れないで、尚且つ実物のつくりとはまったく違うことを書いている箇所さえある。そしてこうした誤りを訂正している様子もないので、この報告書でこれからお伝えする箇所の誤りを読んで、正しいと思って認識してしまう人も出てくる恐れがあります。「印刷物の誤りについては印刷物で訂正するのが本当なのかもしれませんが、貧乏な人間には自分のブログから発するくらいしかできません。たくさん訂正、加筆すべき箇所があるのでどこから手をつけたらよいのか戸惑いますが、これば絶対間違っているという緊急度の高いところから手をつけていきたいと思います。既に報告書をお持ちの方、お時間あったら実際に読んで比べてください。

危険度★★★明らかな間違い

①102ページ図版No9-33~9-38、資料名「土人形 五人囃子」の「状態/備考」「手びねり×→手びねりではなくて前後2枚割型から抜き出して成形したもの」

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②103ページ図版No14-58、資料名「土人形 大黒天×→大黒天ねずみ」ねずみ単体で裏に大黒天の朱書があるにもせよ、これはねずみであり大黒天というのはおかしい。江戸博内ライブラリースペースでパソコン検索で館収蔵品を検索できるというシステムがあり、「今戸焼」メニューの中に「大黒天」とあったのでクリックしたら「ねずみ」が出てきてびっくり。ご眷属ではあっても「大黒天=ねずみではない」

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③103ページ図版No16-69~16-72、資料名「土人形 〇〇狸」の「状態/備考」「手びねり×→手びねりではなくて前後2枚割型から抜き出して成形したもの。但しとっくり狸については持ち物を別パーツでつくり接合した可能性あり。」

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103ページ図版20-84、資料名「土人形 みこし」の「状態/備考」「手びねり×→胴体は手びねりではなくて2枚割型から抜き出して成形したもの」

危険度★★とんちんかんな表記

⑤ 102ページ~104ページのほとんどの資料の「状態/備考」「裏面は白塗り× 裏面は頭髪以外は白塗り×裏面は〇〇以外は白塗り×」→今戸焼に限らす、伝統的な郷土人形は素焼きの上に膠溶きの胡粉を地塗りしてから彩色をするのが常識であることを原則としてはじめにまとめて記述すべき。〇〇以外のところだけを白く塗るのではなく、白く地塗りした上に膠溶きの染料や顔料で着色するのであって白い部分は着彩しないで残っているだけのことで、土人形はわずかの例外を除いて、そういう手法でしあげられるのが原則。その原則を記していないことは大きな欠落で怠慢以外の何ものでもない。

危険度★★★実測しておきながらどうして記録できなかったのか?大きな手落ち。

上記の一部の「手びねり」と表記してある誤りのある資料以外にはどういう方法での成形であるかを全く明記していない。少なくとも「2枚前後の割型からの型抜きによる成形」であることぐらいは明記すべきこと。特に以下の資料の成形には2枚の割型だけでは抜き出すことのできない特殊で複合的な成形がなされているのだから、実測したときにどうして気がつかなかったのか?記録できなかったのか大きな手落ちと言える。成形について記されていないので、⑥~⑨の赤字の部分は私が補足します。

⑥103ページ図版No11-46、資料名「土人形 猫抱おかめ」の「状態/備考」→おかめ本体は前後2枚の割型から抜き出して成形しているが、猫は別の型より抜き出したパーツを本体に貼り付けて全体を仕上げているもので2枚型ひとつでは抜き出すことのできない形であること。

⑦103ページ図版No14-56、資料名「土人形 狐馬」の「状態/備考」→台つきの馬と上に乗る狐はそれぞれ別の2枚の割型から別々に抜き出されたものを接合して成形している。通常のひとつの割型からこの形全体は抜き出すことは不可能だし、それぞれ2つのパーツに残る型の合わせ目を見ればわかるはず。

⑧103ページ図版No16-66、資料名「土人形 かっぱ娘」の「状態/備考」→かっぱの本体及び篭の部分は前後2枚の割型から抜き出しているが、篭に乗っている「きゅうり」だけは別の型から部品を抜き出し、篭に貼り付けている。きゅうりが引っかかって前後の2枚型では抜き出すことができないから。

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⑨103ページ図版No17-76、資料名「土人形 牛」の「状態/備考」→本体は前後2枚の割型から抜き出して成形しているが、額の上の宝珠は別の型より抜き出したパーツを本体に貼り付けて全体を仕上げているもので2枚型ひとつでは抜き出すことのできない形であること。

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以上の9点は急ぎ足で特に目立ったおかしな点を訂正したものですが、、あっもうひとつあった。

●102ページ図版No8-30、資料名「土人形 平重盛×」は「小野道風」です。

「実測表」といっておきながら、ここで10箇所も間違っていたりとんちんかんだったり、、。執筆者は何を見ていたのかといいたくなります。または寄贈者から話を聞いていなかったのか?

但し江戸博学芸部の内情に詳しい人が言うには 「江戸博の学芸の仕事は忙しい。そのなかでこれを執筆、発行させたのだから、、、。」というお言葉ですがなんだかおかしい。要するに内輪の事情により不正確な内容があっても仕方がない、、、。というのは外部の人間に通用する理屈でしょうか?重病人を前に執刀するお医者さんが忙しいからといって手術を失敗してもよいという理屈と同じじゃないですか。

たまたま今戸焼、今戸人形に興味のある私の目についたおかしな点について記してみたのですが、今戸焼以外の江戸博での展示や研究紀要の中身、外に向けての学芸の対応についておかしいとおっしゃっている方はあまたいます。雛飾りの時変な飾り方をしてるのにどうしてわかる人に聞かないのだろう?地口行灯について訪ねたら「有明行灯のことですか?」と言われた、、、ETC。なぜか?? 想像するに、江戸博の学芸員たちの仕事の分担や取り組みそのものが、良い展示、親切な博物館を目指す以前に担当している学芸員のキャリアとしての足場固めへの欲のほうが強くて、人に尋ねることによってキャリアを人に取られてしまう、と恐れているのではないか、だからひとりで決めておかしなことになってしまうのだろう、、、。いろいろな人と話してそうした結論に落ち着くことがよくありました。

再びこれら今戸焼報告書の執筆発行に至るまでの当時のことを考えて見ると、春吉翁の娘さんである花さんやお孫さんの武佑さんのお気持ちを汲んで江戸博へ寄贈の橋渡しをされた故・浦野慶吉さんや、春吉翁の思い出について語っていらした故・牧野玩太郎さんに、この担当者である学芸員は当然接触しているはず。もし編集の段階でこのおふたりに質問するなり原稿に目をとおしてもらい確認してもらっていたならば、このような10箇所以上のおかしな間違いを活字に残すようなことにはならなかったはず。故・浦野さんは郷土玩具の世界きっての研究肌の方で今戸人形については特に調べておいでだった方。故・牧野さんは戦前からの収集家で、特に今戸のことは直接春吉翁にもあっているなど昔をよく知っている方だったはず。しかし実際にこの学芸員先生は人に確認してもらうこともせず独断でとんでもない誤りを残してしまった。どうしてかといえば、イソップ童話の「橋の上の欲張り犬」のように、当の学芸員さんは自分の手柄を独占したいばかりに人に尋ねることをしなかった。もし尋ねていれば当然このようなミスは生じなかったことでしょう。同時に学芸員はこのおふたりを利用するだけ利用しながら「学者や学芸員ではない単なる趣味家、好事家」くらいに内心馬鹿にしていたと想像することもできる。この点についてはこの学芸員による他の江戸博報告書の記述にも表れている。更には金澤花さんや武佑さんの話も真剣に聞いていなかったから勘違いが多かったことも考えられる。

私はこの学芸員さんにはたった一回しかお目にかかったことがなく、「とんかつ」だか「メンチカツ」だか「チキンカツ」のようなお名前だったような、、。「水漏れこうすけ」みたいな人だな、、という印象をかすかに覚えているのと「江戸博以外に今戸人形は、、、」という発言にショックを受けたという実体験を持っているだけですが、もしかするとこの学芸員さんだからこそ、こうした独断でミスを残してしまったともいえるのかな?と思うようになりました。テーマが郷土人形にかかわるものなので、戦前に書かれた文献に目を通せばある程度てがかりがあるものなのに、この人は自分は学者で、自分のアカデミックな学問の方法によって出てきた内容いしか信じない、戦前に書かれたものはくだらないくらいに思っているのです。そのくせ変なところで学問らしくない独善的な決めつけをする癖があるようです。「天上天下唯我独尊」。お釈迦様のように偉い人なんでしょうね。とんかつさんは、、、。「自分以外はみんな馬鹿だ」とお思いあそばしている。でも頭にくる。浦野さんを利用するだけ利用して馬鹿にしているなんて、、、。あんまり頭にくるからこのとんかつ学芸員の顔にとんかつソースとからしをたっぷり塗ってやりたくなる。

話は変ってつい最近ある人から聞い話、このとんかつ学芸員さんご家老様くらいには出世しているだろうくらい思っていたのですが、何と某・小金井市にある江戸東京博物館〇〇園の「イチジク様」(最高管理職)までご出世あそばされたそうで大慶至極にございます。(イチジク○腸ってありますね?。)こういう役職って、自分から立身出世を志さなければなれないはず、、。日吉丸から太閤秀吉様へ。次は両国のイチジク様へ?そのあとどこかの大学の先生?秋の園遊会のご招待を受け、褒章をめざす?ノーベル賞はちょっときつい?上昇志向は結構なんですが、報告書なんかの活字に間違いを残すというのは後後の学習者への大きな迷惑になってしまいますよ。お偉くなったからもうやらないなんて考えないで訂正表でもお作りになったら如何でしょうか?イチジク様。私たち世俗の人間と違ってあなたは学究の世界の聡明で高貴なお方、アカデミックな世界を極めるお方なのですから、過去の間違いもきれいに訂正なさったほうがいいと思いますよ。また今後変な頑固さでおかしな誤りをこれ以上残さないでくださいね。イチジク様「天上天下唯我独尊」だと思し召すのはご勝手ですが。この報告書を信じて一生懸命読んでいる人には気の毒です。イチジク様の放屁まで沈香のように拝んで嗅げと強制されているみたいで、、。

今回の「今戸焼報告書」のほかにもちょっと納得のいかない研究報告があるのでそれについてもまた改めて記してみたいと思います?。

お時間あったらこちらもお読みくださいね。→

追記 その後この担当学芸員とその奥様によりとんでもない行為が行われていました。→

 

 

 

 


今戸人形「大黒天ねずみ」(尾張屋春吉翁 作)

2012-10-25 20:16:48 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010934今戸焼の土人形の最後の生粋の作者と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた人形です。

いで立ちは今戸焼の人形の中でも特に知られている「口入稲荷の男狐」に似て裃姿。但し手にしているものは絵馬ではなくて二股大根に宝珠です。同じ裃姿ではあっても口入狐に比べて肩が低く袴の前方への張り出し方も強くないので、口入狐を細工してねずみに直したというよりももともと別の型から直したものではないかと考えています。

口入れ狐のほうは裃雛の男雛から直したもの。画像の大黒天ねずみはおそらく福助お福の夫婦の福助の型(叶福助ではなく)から直して作られた型なのではないかと思うのです。

画像の人形は裃が胡粉に墨か黒の顔料を少しだけ混ぜたような淡い灰色、着物部分は朱色ですが、同じ型でも色違いがあり、裃が弁柄(酸化鉄)、着物が群青という配色パターンもあり、後者の配色は江戸以来の今戸人形の福助の配色と共通するからです。

背面に朱色で「大黒天」と記されていますが、どこかの神社仏閣の授与向けに作られていたものなのかどうか、、、?知っている限りの古い文献でこの人形の授与に関する記録というものを未だ読んだことがないので、もしご存知の方がいらっしゃれば是非ご教示くださいませ。

授与云々についてはわかりませんが、この人形の名称「大黒天ねずみ」は戦前の複数の文献にも記されています。ねずみは言うまでもなく大黒様のご眷属なので、日本全国に分布する伝統的な土人形産地の人形の中にも。大黒様と一緒だったり、大黒様の姿をしたねずみであったりすることが多い中、この「大黒天ねずみ」は裃を着て擬人化されてはいますが、大黒様の装束とは直接関係のあるイメージではありません。

しかし手にしている大根こそがミソで、「恵比寿大黒」→「恵比寿大根喰う」(えびすだいこくう)という地口になっているのです。「大黒」→「大根喰う」なんですね。「ねずみ大根喰う」→「ねずみ大黒」とも言えるわけです。

こういう趣向がいかにも江戸っ子好みだと喜んでしまうのは私くらいでしょうか?

春吉翁より以前に作られた同じ型の古い人形や出土品を未だ見たことがないですが、有坂与太郎あたりの記述に、この型の人形が春吉翁一代による創作とも記されていないので、もっと昔からあった型なのだろうと考えているところです。

来年の干支でもないのに何故今頃ねずみなのか?とお思いの方もいらっしゃるかと思いますが今後の記事の展開の伏線としてご紹介させていただきます。

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今戸焼(49) おかめの火入れ③(瓦質)

2012-10-23 22:45:48 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1010932_2昔の今戸焼や今戸焼の土人形を広く観ていただいて、地場産業として盛んだった頃の今戸焼の製品についてこういうものがあった、とあくまで氷山の一角ですが知ることを共有してもらえたらと思ってのカテゴリーなのですが、春以来日々の話などに偏っていてこうしてご紹介するもの久しぶりです。

画像は瓦質のおかめの火入れです。

以前このカテゴリーで土人形式の素焼きに胡粉地塗り、顔料で彩色したおかめの火入れ2点をご紹介していますが、今回のものは瓦質なので真っ黒いだけです。

こういう仕上げは今戸焼といっても土人形などを作った人々とは別の瓦屋さんとか黒物屋さんといった職分の人たちの手で作られたものなのだと思います。

しかし画像を観ていただくと、型としては以前ご紹介した土人形式の火入れ①ともとは共通するモデリングなのではないかと思うのです。画像のものは地面に接する辺りがいくらか寸詰りになっていてその分顔と胴との割合が半々くらいに見えますが、型としてはもとはもっと裾の部分が長い元型から型どりする際に裾を詰めたのではないかと考えれるような気がするのですがどうでしょうか?画像では真底を撮っていないのですが、この火入れの底の処理は土人形式の火入れとは異なっています。土人形式のものだと多くは底はあげ底に作られていますが、画像のものは下から3枚目のたたら(土板)をただ平に当てただけです。画像正面の底に接する部分から上に底に当てた「たたらの厚み」が見えます。使い勝手とか機能性で考えるならば、底があげ底になっていたほうが、火入れの中に入っている火種からの熱の伝わりが少なくてよいのではないかと思うのですが、これは真っ平らです。

今戸町内または川上の隣町である橋場あたりで瓦が焼かれていたというのは明治も早い時期で明治終わりには瓦を焼く家はいなかったとか。しかし瓦を焼く家はもっと川上の荒川区の小台とか宮城、北区の豊島あたりにもっとあとまで残っていたと聞きますし、川向こうの墨田区、さらに東の葛飾区足立区あたりには昭和はじめくらいまではいたのではないでしょうか?

また黒物屋さんといって火消し壷とか手あぶり、火鉢、土風炉などを作る家は昭和のはじめの記録までは今戸町内にいたようですし、元今戸にいて代々東に移った人々もあったそうです。明治のはじめに今戸に橋本3兄弟という黒磨きの名人と呼ばれた兄弟の職人さんがいたという話はよく目にしたり聞いたりしました。

ちょっとよくわからないのですが、瓦焼きの場合、「松の枝を焼成の途中で炉に投げ込んで密封しておくと煤けて瓦になる」という話を読んだり聞いたりしたことがある一方、「黒磨き」や「雲華」仕上げにする場合、「素焼きの生地を磨いてから黒鉛の粉を溶いて塗り再び焼いてから磨く」のだと読んだり聞いたりしてもいるのですが、画像のような場合は松の枝なのでしょうか?それとも黒鉛なんでしょうか?わかる方にお教えいただきたいです。20年くらい前に今戸で燃料品屋さんをしていた明治生まれのおじいさんがいらっしゃって、昔のことをたくさん聞かせてくれたのを思いだします。その中で松の枝は船で茨城県の岩井辺りから運ばれてきて窯元に収められていたというのです。船は大きな帆をもった船だったとか。

おかめの火入れ①の画像はこちら→

おかめの火入れ②の画像はこちら→

 

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人形感謝祭

2012-10-16 21:21:25 | 日々

P101091810月14日(日)は明治神宮の人形感謝祭の当日でした。先の「思い出人形展」の展示準備ともども20~30代の頃には例年お手伝いの参加させていただいていたのですが、その後勤めが忙しかったり、そのしわ寄せで日曜日には寝込んでしまったりで久しく参加できませんでしたが、今年は本当に久しぶりでお手伝いに加えていただきました。今年で第24回。来年で25回を数えるのだそうです。昔の記憶と違って驚いたのは当日お人形を持ち込まれる数の多さです。画像で見えますが、はじめお人形さんたちは、ご社殿の門を挟んだ回廊に設置された2段の仮設台に並べられていきます。門を挟んで両側の回廊の台がいっぱいになると、今度は台の真下に白布2列分のスペースを追加して並べられていきます、それもいっぱいになると回廊の中側にさらに白布2列分のスペースを追加。さらにそれがいっぱいになるとまたその内側に白布を敷いて、、、とスペースを追加して並べていくのです。昔は回廊がいっぱいになるくらいだったのが、こんなにお人形さんの数が増えたとは!!!!聞くところによると昨年度がこれまでの最高受付数の記録で、今回はそれに次ぐ記録なのだそうです。お人形をお持ちになられる方々は、受付で人形をお預けになって、それらを係に人間が並べていきます。その代わりお人形さんはお払いを受け、紙でできた人形(ひとがた)にその魂が移され、人形(ひとがた)にお名前やメッセージを記入して納所される流れになっていますが、長いこと一緒に生活してきたお人形さんとの別れを惜しむご家族の皆さんは回廊の中を探して並べられたお人形さんと記念写真を撮られることも多いようです。できるだけ最後をきれいに並べてあげたいと思いますが、莫大な数のお人形さんでご家族の方に十分満足いただけるよう並べることができているかどうか気に留めながら作業していたつもりではありますが、、、、。P1010917
 お声がかかり、わが家の人形とお別れの写真を撮りたいのでカメラのシャッターを、、。とかもう少し整えて並べて欲しいとかいうご要望をいただくこともありました。外国からの観光で参詣される方々にはやっぱり不思議な光景でもあり、また特別に日本的な光景にも見えることでしょう。記念写真を撮られる方も少なくありませんでした。お雛様、五月人形、五月飾りからリカちゃんやバービー、ぬいぐるみに観光記念のお人形、アイヌの木彫りの熊にミッキーミニー、こけし、だるま、ウルトラマンなどのキャラクター人形、手作り人形、博多人形に郷土人形郷土玩具、貯金箱などなど、顔のあるものに対する日本人のもつ優しさが伝わってっくる年中行事でした。

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思い出人形展

2012-10-13 20:29:25 | 日々

P1010914明日10月14日は明治神宮の御本殿で例年執り行われる「人形感謝祭」の日です。すでに20数年来執り行われている恒例の祭事となりました。

当日には各地から、それぞれご家庭で大切にされてきたお人形さん、ぬいぐるみ、おもちゃなどがご本殿まで持ち込まれ、お人形へ感謝しながらお払いを受け魂を抜いて、旅立っていくというお祭りで、仏教のお寺さんで執り行われるところの「人形供養」にあたりますが、神式なので「感謝祭」と呼ばれています。日本人の文化の一面に触れるといえばよいのか、とても不思議なことは「人形」という言葉ひとつでも持ち込まれる人形は市松さんやお雛様に限らす、ぬいぐるみ、キャラクター、海外の風俗衣装人形、こけしやだるま、土人形に木彫りなど顔のあるものなら際限なくあります。西洋の文化圏ではお人形とおもちゃははっきりと区別され、顔があっても玩具は玩具というすっぱりとした考えがあるように思われますが、顔のあるものを単なるごみとして捨てたりしないで、大事に感謝祭や供養をするというのは日本人独特なものではないかと思うのです。

当日お払いを受け、魂を抜かれたお人形さんたちは、旅立っていくのですが、その中から、これは後世のための資料として保存すべきものは日本人形玩具学会の人たちで選定して、保存し、そして画像のように「思い出人形展」として「感謝祭」に合わせて展示公開されます。

私も20代から30代にかけては毎年、感謝祭の資料の選定に参加させていただいていましたし、「人形展」の展示準備もさせていただいていたのですが、その後勤めが忙しくなり、休日もヘトヘトでお手伝いから久しく外れていましたが、今年久しぶりにお手伝いに参加させてもらっています。 画像は昨日のまだ公開前の展示準備の風景です。ほぼ出来上がったところです。本当に久し振りですが、お手伝いのメンバーの方々は昔と変わらぬ、顔見知りの方ばかり、変に緊張することもなく作業できる楽しさ。そして一歩室外へ出れば、神宮の森の木々の香りに鳥さんたちの声、時間を忘れてしまうようです。

最近は家庭の事情で遠くへ出かける機会もなかったのですが、東京でもこうような環境のなかで作業に没頭できるというありがたさ、、、しみじみと感じました。

明日は感謝祭の当日で私も久しぶりに選定係のひとりとして腕章をして会場に立っています。「人形展」はご本殿の東側の社務所の一階で催されていますのでお近くの方、是非ご覧になってください。(拝観料は無料だと聞いたような、、、。)

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不思議なコピー

2012-10-07 12:33:20 | ご近所

P1010866三社様に狐をお収めが住んでホーっとしていたのも束の間、ここに来て、やらなければならないことが山積みで気の重い毎日です。

実は、経済的な理由があって、今まで本や今戸焼やがらくたなどの物置のため、借りていたアパートを解約することにしました。とりあえず明け渡しまで十分な猶予をとってありますが、すべてひとりでものを運ぶので一日に最低5往復以上の目標で自転車で運んでいます。まだ氷山の一角しか切り崩していないのと、荷物を自宅と仕事場へ分けて収納しなければならないのですが、どのように収納するか結構大変です。例年この時期干支の人形作りに入るのですが、明け渡しのこともあり、落ち着いて取り組んでいられない変なパニック状態。寝ても起きても落ち着かないのです。

話は変わって、よく通る環七脇の靴屋さんの店先の様子。手作りのコピーなのですが、いつも不思議だなと思って見ています。「転ばぬさきの杖」ではなくて「ケガする前」といっているのです。それと左下の「男女男、、、、」というのも不思議でしょう?

手作りなのがいいですね。


狐をお納めに

2012-10-01 23:20:21 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010882ことの他狭い仕事場なので、出来上がって段ボールに詰め終わった段ボールの一群を早くお納めさせていただきたい、とお願いしたところ、いつでもOKという三社様からのお返事。しかしゆうべは東京には台風が接近して大荒れの天気でした。週明け月曜日は天気はどうなのか案じていたところ、明けて良すぎる天気になりました。嵩もあり重いのでひとりで抱えて電車で向かうのは無理。タクシーを拾って三社様まで直行しました。とりあえず無事お納めできて安心しました。(今年度2回目3回目の納期はまだありますが、、、。)お礼申し上げて、三社様を後に、、折角浅草まできたのでお昼は例によって観音通りのラーメン屋さんへ。

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それにしても今日は日差しが強く、夏に逆戻りしてような暑さでした。観音様のお堂や宝蔵門も空の色ともどもくっきりと映っています。

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それにしても月曜日といえども人で賑わっていますね。まあこの町は一年じゅうがイベントの街といってもいいのかもしれませんね。

しかし久米平内堂は閑散としていました。何を隠そうこここそが、浅草での折紙つきの「縁結びの神様」の老舗なわけで、かつてはもっと大き目のお堂に参詣する人が絶えなかったところ。今戸焼で作られた久米平内像も売られていたそうです。流行神の盛衰は時代とともに変わるとはいえ、、、、。でも縁結びといえば平内様でしょう。ここ浅草では。  

暑いので禁を破って観音通りのジェラート屋さんでごまとあずきときなこのジェラートを食べて帰ってきました。

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