東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

やすりがけ

2013-01-25 01:01:54 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011062干支のものがひとまず終わったので、初午前にお納めすべき鉄砲狐にとりかかりました。昨年の夏に集中して素焼きまで済ませてあったので、素焼きの表面にサンドペーパーをかけて肌をきれいにします。この工程は昔だったら省略して済ませてしまうケースもあったのではないかと思います。

ことに画像のような鉄砲狐は奉納用の消耗品として、あまり手をかけないで量産させることに比重がかかっていたのではないかと思うのです。今作っている鉄砲狐も祠にお祀りされたあとは戸外だったら雨風で色が流れてしまったり、ほこりをかぶったりしながら自然に帰る運命のものです。

でも、少しでもきれいな肌あいに仕上がって欲しいのでやすりがけも省略しません。このあと濡れ雑巾できれいに拭い、乾いたら胡粉で地塗りに入ります。


NHKの取材

2013-01-19 20:07:19 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010006_3昨日NHKの取材のみなさんがわが家を訪れ、土人形作りの工程のさわりを撮影したり、インタービューを受けたりしました。近所の工事現場で材料となる土をもらっている場面や、土を水で溶かして篩にかけ、水簸(すいひ)にする場面、仕事場で粘土をのばして型に詰め込んだり、型から外す場面、彩色の一部などをカメラの前でさわりだけ行いました。一番しんどかったのは水をいじる場面でした。普通ならば水温が温む4月5月以降にやっている作業ですが、とにかく水が冷たくて手が麻痺してしまうようでした。

ひととおり撮影された画像は編集されてどんな感じになるのか楽しみでもあり、客観的に眺める自分の姿が怖いような複雑なところです。

NHK総合テレビの平日午前11時代にやっている「1と6けん」という番組の1月25日(金)放送の中で紹介されるということです。


今戸人形「太夫」(尾張屋春吉翁 作)

2013-01-15 21:29:25 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011056今戸焼の土人形最後の作者であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による「太夫」です。これまでの太夫に比べると裲襠のラインのつっぱり加減が甘くなってきてはいますが、前記2体の「太夫」と同じ型、あるいは前記の型からの型抜きによって形が甘くなったものではないかと考えています。春吉翁によるこの「太夫」の人形の裾には画像のように松が描かれていることが多いので「松の太夫」と呼ばれることが多いようです。春吉翁は裲襠を水色系統で塗ることが多かったのではないかと思うのですが、色違いとして画像のように鉛丹のような顔料で塗るケースもあったのでしょう。帯の緑色はレーキ系の顔料で、酸化銅ではありませんが、混色して昔の発色を出しているのではないかと思います。上からまがい振り金(真鍮粉)を巻いています。

裲襠を水色系統に塗ったものもあるので比較のため画像をアップしておきます。

同じ型の人形でも時代や作者により異なった印象になるという描彩や配色の変遷のごく一例としてとりあげてみました。

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今戸人形「太夫」(幕末~明治はじめ?)

2013-01-15 21:08:42 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011057_2型としては先の植物煮出しによる彩色の太夫とほぼ同じものですが全体的に顔料によって塗られているので、天保以降から幕末、明治はじめくらいにかかる可能性のある人形ではないかと思います。面描きはややユーモラスで稚拙な感じになっています。これは彩色者の違いによるところだと言うこともできます。裲襠は紫土べんがら、着物の胸元と褄は鉛丹のような赤い顔料で帯は緑青(酸化銅)、裲襠の襟周りは石黄で塗られています。裾の部分には緑青で「早蕨手」のような模様が描かれており、まがい振り金(真鍮粉)が蒔かれています。

先の人形とこの画像の人形とのあいだに実際どれくらいの年代差があるのでしょうかちょっとわかりませんが、それでも裲襠を薄紫色に塗ろうという意図は植物煮出しと顔料の違いはあっても共通しているように感じられるので、太夫さんの裲襠は紫系統という色の指定なり、世間の好みがあったものかどうか空想しているのですがどうでしょうか?


今戸人形「太夫」(江戸時代後期?)

2013-01-15 20:49:10 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

Photo生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)を最後に、江戸明治と伝統が受け継がれていた今戸焼の土人形の流れは廃れてしまいました。

時代を経て都内の再開発や建て替えの工事の際に江戸の近世遺跡から出土する当時の食器や生活道具に混ざって、色のとれてしまった土人形もかなりの種類と数が確認されているようです。

その中には伏見人形をはじめとする関西や中京かと推測される産地のものもありますが、東京の土で作られたもので、尾張屋春吉翁がご生前に製作されていた人形の種類と同じと考えられるものもあります。

また伝製品の古い今戸人形も残っており同じ型同じ姿の人形であっても時代や彩色者によって色の変遷をみることができます。

画像は江戸時代後期の作と考えられる「太夫」とよばれる人形です。色のとんでしまっている部分もありますが、残っている色から裲襠の薄紫色のように発色しているのは顔料ではなくて植物煮出しの「蘇芳」と「きはだ」の液体の混合で膠をつなぎとして塗られているものです。帯と褄の部分は墨、着物は緑青(酸化銅)、襟元に朱または鉛丹を置いています。額の生え際の表現が速筆のようでありながら鋭く、面描きも穂先の鋭いタッチです。

この人形はもとは伏見人形の「太夫」の型から型抜きされたものだろうと故・浦野慶吉さんがおっしゃっていました。時代が下って尾張屋春吉翁が「松の太夫」としてお作りになったものと型は同じだろうと考えられます。おととしで創業300年を迎えられた江戸東京のお人形の老舗「吉徳」さんに残っている天保年間の人形玩具の彩色絵手本である「玩具聚図」の中にも数点の今戸人形の配色が描かれています。その中にはこの「太夫」はありませんが、当時の今戸人形の配色には植物煮出しの指定はされておらず、顔料中心の配色になっているので、その点から画像のような植物煮出しで彩色する方法はそれより以前のやり方なのではないかと思われます。


横浜行

2013-01-11 20:57:16 | 日々

P1011053昨日は定期的な通院のあと2ヶ月以上ぶりに横浜まで行ってきました。

目的は2つ。絵具屋さんと中華料理。どちらも関内駅から歩ける距離です。

絵具屋さんですが、一番よく行く店は神田の淡路町にありますが、時々違う店のものも入手してみて試しに塗っています。店によって似た傾向の絵の具であっても同じとは限らないものなので、横浜へ行くと、ここで買い物をします。今日は胡粉と面相筆数本を買いました。そのあと中華街に直行。

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いつも関帝廟通り付近で食べます。

いつもながら貧乏くさいかもしれませんが、1980円で食べ放題という店に入ります。一番の目的は2つ食べたいものがあるのです。

ひとつは点心で湯葉で具をくるんだものを揚げてからおつゆとともに蒸して出てくる料理。もうひとつは海老のすり身を団子にして衣をつけて揚げたもの。このふたつはわが家の近所でやっている店がないので、はるばる食べにくるのです。本当は食べ放題にしないで食べたいものだけ注文するような店のほうがおいしいかもしれませんが、財布が心配で、、。悪循環になってしまいますが、こうしたお店に入ればあれもこれもと注文してしまうし、出てきたものはきれいに平らげないと気が済まない性分なのでいつも帰りはげっぷ状態で帰ってきます。浅ましいと思いながら、こうなってしまいます。

P1011055いつも帰りに食材を買ってこようと思っているのに腹いっぱいになって買い物をする余裕のなくなるパターンでした。

横浜だけではありませんが、近いようで案外近くない。横浜にもいろいろなところがあるはずで、最近行かなくなった弘明寺界隈とかまだ全然足を運んだことのない伊勢佐木町界隈も観てみたいとかねがね思っています。

二ヶ月ぶりの横浜でした。


仕事はじめ

2013-01-03 22:58:42 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1011038_2暮れに仕事部屋の床のスペースをつくったので、やっとストーブを使うことができるようになりました。ごく当たり前のことなんですが、鉄砲狐をお納めする前までは、青いコンテナボックスが山積みになっていて中身もいっぱいだったので逃げ場がありませんでした。

中身の狐が空になったのでコンテナ6個は棚の上に、残りは冷蔵庫の上に移動させました。微妙な差でしかありませんが、これでやっとストーブがつけられるというものです。

元旦に特別何か作るというのでもなく、干支の数の足りなくなりそうな分を数個型抜きしたり、土練したりして数時間過ごしました。

外には黒ぶちさんが御年始のあいさつまわりにきていました。

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氏神様詣で

2013-01-03 22:46:00 | ご近所

P1011050_2新年あけましておめでとうございます。今年も旧年同様よろしくお願いいたします。

年を越しまして、わが家の昨年来の話ですが、父は元旦の夕方まではまだよくありませんでしたが、母も私も案外高熱を出して、、ということにはならず、食べるものも食べていたという感じでした。大晦日にどたばたしていたので、お節とかお雑煮などの支度をしても、食べる元気があるかわからなかったのでつくりませんでした。

父も今日ではだいぶ食欲も戻ってきてはいますが、もうしばらく様子をみる必要があるかもしれません。

元旦は若い頃だと明治神宮だの大宮の氷川神社、拝島大師、川越の喜多院などでかけたものですが、人混みの中動けなくなるのが嫌で、遠出しなくなりました。わが家の氏神様である赤羽西の香取神社でお参りしてきました。P1011051
ここは西口の高台の上にあり、昔はおそらく遠くは富士山や筑波山も見渡せた立地だとおもわれますが、普段はひっそりとした境内もかなり賑わっていました。神社境内向かう石段は南向きで、狛犬は嘉永年間の建立のもの。狛犬さんの眺める景色も随分変わったことでしょう。真下の谷間にはかつて石神井川から分岐した「稲付川」が流れていたそうで、今では暗渠になっていますが、神谷の隅田川への合流地点辺りでわずか姿を現します。谷の向こう側は十条仲原、そして上十条で遠くにサンシャイン60も見えます。

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