東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

干支の亥(猪)づくり① 「仁田四郎」

2018-08-31 01:24:56 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 来年の干支亥(猪)は今戸焼の古典人形には伝世品として伝わっているものを未だみたことがなく、少なくとも最後の生粋の今戸人形の製作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになった作品の中にも見当たりません。(案外、ごく少数作ったというケースがあったかどうか、、。)明治、江戸の伝世品の今戸人形についても見当たらないように思います。(確か施釉の箱庭細工にあったかどうか、確かめてみたいとは思います)

 昔の盛んだった今戸人形(少なくとも尾張屋さんの時代まで、それより遡った江戸からの人形作りの伝承の系譜の上での今戸人形)を再現したいというのが、本来の自分の思いではありますが、干支となると、どうしてもお手本のない年があり、亥(猪)のそのひとつです。そういう場合あくまで創作的に数を合わせることになりますが、ひとまわり前の亥(猪)年には「い川(猪川)の玉乗り」「てんてれつくの猪のぴいぴい」「瓜乗りウリ坊」の3種類を作りました。「い川の玉乗り」の方は作業場の収納の一番奥にしまった憶えがありますが、取り出すのが大変すぎるので、せめて「てんてれつくの猪のぴいぴい」と「瓜乗りウリ坊」の割型は出してあるので追って型抜きしていくつもりです。

 とにかくこれが今戸の昔の猪というお手本がないので、創作か他の産地の作例を参考に型を起こすことが、昔からどこの産地にもあったことなので、今回、名古屋の土人形の最後の作者であった故・野田末吉さんのお作りになった「仁田四郎」の人形を所蔵されている方に見せていただき、写真に撮り、それを参考に形を起こしました。写真からなので最終的に読み取れない形状の部分もありますが、名古屋人形の写しを作るというよりは、それを参考にして今戸っぽい感じにできないかと思っています。

 「仁田四郎忠常」は平安末から鎌倉時代にかけての武将で、頼朝の家来のひとりで、頼朝が催した富士の裾野での巻き狩りでは大猪をひとりでしとめたという勇壮な話があり、郷土人形の世界でもいくらか作例があります。伏見人形、出雲初瀬人形、三春張子人形などの他にもたくさんあるのではないかと思いますが、個人的な好みでは名古屋の野田末吉さんの作の構図が素晴らしく、お手本にして作ってみたいと思いました。構図の8割以上、写真を頼りに起こしましたが、誤差もあり同じにはなりませんが、その点今戸風に仕上げたいと思っていますので、例えば被っている笠の形状は微妙ですが意識的に違えてあります。

 割型をこしらえたばかりで、作った自分でさえまだ割型に慣れていないので型からはずしにくい感じですが、これから自分が型に慣れ、型自体もこなれていくと思います。まずは素焼きまで進めて、彩色をするまでどうなるかわかりません。

 亥(猪)に因んだ伝説とか信仰などを背景にしたネタで作ってみたいと思うイメージがこれ以外にもあり時間が間に合えば今後も原型を起こして割型を作っていきます。

干支の亥(猪)づくり②「下谷の摩利支天(猪乗り摩利支天) はこちら⇒                        


谷中「東京キッチュ」さん

2018-08-30 09:30:03 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 谷中。「よみせ通り」の西日暮里寄り。お地蔵さんのお堂の斜め向かいにあるオリジナル雑貨の「東京キッチュ」さん。はじめてこのお店を知った頃はもっと北側、道灌山裏といったらよいでしょうか。静かな住宅地の中にありました。そのお店が谷中に移転営業されています。

 「キッチュ」(ドイツ語のkitsch=俗っぽい。いかもの。)という言葉、昭和40~50年代の文化批評なんかの文章に使われていた言葉ですが、80年代のキースへリング をはじめとする現代アートが大衆に浸透していくあたりからよく聞かれるような言葉になりました。芸名で名乗る人までいましたね。

 自転車で上野、神田、日本橋、銀座へと出かける場合王子で関東ローム層の台地にあがり、滝野川一丁目から旧・藍染川の流れの道の沿って南下しますが、駒込駅横のアンダーパスから田端駅から来る通りとの交差点「矢田橋」を過ぎ谷中へ向かう途中にあったのを通りすがり気になって中を覗かせてもらったのがはじめでした。

 キッチュなものというと、「絵に描いた幸せを具現化させたような表現とか、チープな幸せ」というイメージを個人的に抱いているのですが、お店に並んでいる商品がまた、見て思わず笑ってしまうような楽しいアイデアのものばかりです。

 「たい焼き型のお財布」ふわふわした手触りで可愛いですね。私も以前買ったのですが、可愛くてもったいなくて飾ってます。

 干物のペンケース。このシリーズには違う種類の魚のも出ています。

 富士山の形になるようプリントしていあるハンカチ類など、小鉢とかおちょこの形状を富士の高嶺の雪みたいに焼き付けてある器もあります。また実用として昔ながらの唐草模様の風呂敷も取り扱っていて、私も持っています。

 以前から店主の松村さんとお話していたことで、谷中は猫の聖地のようなところで、猫目当てに訪れる人も多く、猫をテーマとした雑貨店も複数あり、「夕焼けだんだん」を降りたところの「谷中銀座」の軒の上のディスプレーとして庇の上に猫のオブジェが並んでいますし、路地裏に入って、地元に暮らす猫さんたちにカメラを向けている人もよく目にします。谷中といえば都内有数の寺町であり、江戸の市井の雰囲気を濃く残すところ+猫の街というイメージのところですので、江戸に生まれた「丸〆猫」をお店に置かれたらどうか、、というお話をしていました。猫の雑貨といえば今では「何でもあり」な感じですが、谷中という土地で昔の古い姿の丸〆猫をお客さんたちの目に入れてもらえたらうれしいと思っていました。永いこと被官さまへの納めなどで手が廻らなかったのですが、昨日やっと数点お持ちして、並べていただきました。

 拙作の丸〆猫をお求めの方、お探しの方、谷中の「東京キッチュ」へお問い合わせいただくか、訪問されてお問い合わせください。

「東京キッチュ」さんのHPはこちら→

 


縄文展へ

2018-08-29 23:52:59 | 日々

 結論を言えば、もっと早く出かけるべきだったと思いました。会期が煮詰まってきているので当然平日でも混んでいます。この夏、前半は宮城県大崎市内の稲荷神社への半堤式の稲荷の納で手一杯だったのと、この暑さで自転車で出かけるのが心配でした。それと深夜の作業のほうが少しでもしやすいので夜型生活になって日中眠気に苛まれていた。幸い今日はは照っていないので幾分ひりつくような暑さでもなく、雨が心配ではあったものの展示を観終わるまで天気が持ってくれさえすれば帰りはずぶ濡れでもいいかと思って自転車で出かけました。

 平成館の建物入口のテントのところで入場規制をしていました。せいぜい5分10分くらいの待ちだったですが混んでいます。会場内撮影OKではあったのですが、カメラを携帯するのを忘れたのと、ケースが黒山の人だかりで展示品が見えず、しぶとく並ぶのも体力が必要なので無理と思うところは流して近づけるところだけ観て帰ってきました。(これが会期はじめの頃だったら見直しに出かける考えも湧いたかも、、。)

 第一展示室、第二展示室とも集まったという感じの豪華さでしたね。この勢揃いも空前絶後のサミット的な感じで、ひとつひとつを現地に追いかけて観に行くというのは無理でしょう。すべてをじっくり味わったと言えないのですが、第一展示室のはじめのほうにあった尖底土器の単独ケースに入っていたものに何だかわかりませんが粘土紐を編んだような細長い装飾がありすごいと思いました。何を表しているのだろう?、、と。これまであんまり気を入れて眺めることをしなかったので今回改めて驚いたのですが、土器でも土偶でもどうやって作っていたのだろう、、信じられないということを感じました。火焔土器でも尖底土器でもひもづくりで底から積み上げていったのでしょうが、大きさに比べそんなに厚みがないという印象。乾燥させて焼き上げてあの大きさなので成形するときはもっと大きいはずなのと積み上げながら下のほうがへたることがありそうなのに、、。当時の特別な職の人が作ったのでしょうが、地面を掘って土を採取することから始めて、当時は水簸(すいひ)などしなかっただろうから、不純物を取り除きながら練り込むところから始まりますね。

 縄目で文様をつける前に装飾の凹凸をつける道具として2本平行に爪を持つへらのようなもので平行曲線をつけるんでしょうね。NHK特集で紹介されていたように火焔風の装飾に空いている孔がトローチの笛のように入口と出口の孔の間に空間があるようで、観る方向から二つの孔のずれによって月の満ち欠けを感じさせるというのもすごいです。基本的にシンメトリーに展開する文様と「ねじれシンメトリーとも」いうべき配置を持つものもありました。土色もそれぞれ微妙に異なり、当然焼具合も異なるのでしょうが、発掘された遺跡=作られたところ とは限らないのでしょうね。例えば身びいきになりますが、山形県舟形町西の前遺跡出土の土偶が舟形の土なのかということです。ヒップの表現の感じが長野出土のものに感じが似ていますし、群馬出土のハート顔土偶の足腰にも似ています。

 びっくりしたのはまた土器に赤漆が塗られたいるものがあったこと。縄文で既に漆の技術があった?漆って耐熱性があるとかいいますが、塗り終わって乾くまでは傷んだり扱いが難しいとか聞いたような、、。

 第二室の後半から出てくる容器に顔がついている式のものは確かに縄文ではあるのに何か牧歌的な感じがして面白いと思います。どこの何かは思いつきませんが、同じような印象を持ったものが海外にあったような気がします。

 会場では心行くまでじっくりということができず、同時に早くここから脱出したいという気持ちとで葛藤しましたが、これから図録でじっくり味わいたいと思います。(本当なら図録を観てからもう一度観るのが贅沢。)

 本館の仏像や陶磁なども観たかったのですが体力の限界で、そそくさと自転車で帰路につきました。

 博物館を離れ、谷中の裏道の静けさの中で持参のお茶で一息。

 旧・藍染川の流れだった道沿いに北上して田端のお不動様前。可愛い箱庭っぽくて楽しいと思いませんか。

 霜降橋近辺の路地裏で見かけたおしろい花。黄色の花が混じっておらず、ピンクも淡い。あまり観たことがことがないので撮ってみました。昼抜きでお腹が空いていたので急いで赤羽まで戻って最近お気に入りの麻婆豆腐麺とハイボールで一杯やりました。

 

 


めし喰いだるまのぴいぴい

2018-08-28 05:50:40 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 土曜日に山形から戻ってから「時差ぼけ」的な調子になっていて、疲れすぎて眠れないような変な感じです。NHKの「チコちゃんに叱られる」で「新幹線はタイムマシンである」ようなことをいっていたので、往復の強行軍での時差+精神的にもタイムマシンで昔に戻ったような気分になっていたことと併せての時差ぼけなんだろうかと思っていましたが、そろそろ焦らなければならない時期なので鞭打ってやりかけの原型から割型をひとつ起こしました。画像の「めし喰いだるまのぴいぴい」の型です。こういうナンセンスな感じの人形もかつては今戸にあったわけですね。お箸と茶碗を持ってかっこんでいるところです。昔の「ポンチ絵」的な感じがするので明治のおもちゃ絵などでだるまの百面相的なものがあった時期に連動して生まれたものでしょうか。割型から抜き始めているばかりです。他のやりかけの原型からも早く割型を起こしていきたいです。


舟形

2018-08-26 03:38:30 | 日々

 昨日は叔父(亡父の弟)の一周忌があり、強行軍で父の実家である山形の舟形町へ往復してきました。始発の新幹線で新庄に着いたのが午前10時頃。今日は新庄の祭りの山車の合同渡御の日なので新幹線の指定が心配なのでかなり早くから往復の指定を取っていたのですが、案外指定席が満席という感じではなかったものの列車が新庄に着いた頃には駅前が黒山の人だかりになっていました。従兄が車で迎えに来てくれたので助かりましたが、こういう日だと駅前から各町内の山車の運行経路に交通規制がかかって市内往来が面倒なので、巡行経路ではないほうの出口から舟形まで連れていってもらいました。

 舟形の亡父の実家です。屋根は茅葺の上にトタンで補強され内部もリフォームされていますが作りは昔のままで向かって右のところは山形に多い「兜造り」になっています。幼稚園の頃から高校生くらいまでは受験の年を除いては、夏休みいっぱいここで過ごさせてもらっていたので、ここでの経験や思い出が今の自分の感覚的なものにかなりの影響を与えていると言ってもおかしくないかと思います。

 目の前に流れる小国川。東方向に眺めた景色で遠くに淡く見える山並みは瀬見温泉の方向だと思います。小国川は松尾芭蕉の「奥の細道」に出てくる堺田「封人の家」辺りの奥羽山脈の分水嶺から西に流れてここからふたつ下流の村である堀内というところで最上川に合流します。松原鮎というブランドで知る人は知るみたいですね。不思議なのは小国川源流の堺田の東はこけしで有名な鳴子で、分水嶺から東に流れる川には鮎はいないということです。

 同じ位置から南西方向の下流を観る景色です。遠に見える山は葉山大権現の葉山です。葉山の右裾方向にこけしで有名な肘折温泉があります。子供の頃虫に刺されて痒くて掻きむしった痕を心配して叔父さんたちや従兄が肘折に連れて行ってくれて温泉に入り、持って行ったたくさんの空き一升瓶に炭酸水を汲んで風呂桶に入れてくれました。子供の頃芋煮会をやりましたが、ここらでは二度芋(ジャガイモ)に川で突いたカジカを入れたり、鯨の皮や鮭缶を入れ、味噌や醤油で煮ていたもので、かなり後まで里芋に牛肉に醤油という芋煮を知りませんでした。

 山形名物で自分でも大好きな「だし」も、ここではきゅうりやなす、茗荷をザク切りにしたものを大皿に盛り、自分で小皿に取って醤油や酢、練り辛子をつけて食べるものがあり、今日親戚にみんなに聞いてみたのですが、「だし」という呼び方は昔していなかったようです。子供の頃から体育とか運動というものが苦手で、体を動かすことを目的に動くということはダメでしたが、虫取りとか花摘み、カエル捕り、そして川で魚を素手で捕ったりするときは夢中に動いてました。 

 川を見下ろす足元には蕨だらけ。そして狐のかみそり。

 別に珍しくもなく蕨が茂っているんです。蕨を灰汁抜きしてから叩いて鰹節と味噌とで和えてご飯に乗せて食べるのは昔から好きでしたが、同じ山形県内でも置賜地域のお年寄りで、そういう食べ方をしたことがない、と言われたことがあるので最上の食べ方なんでしょうか。

 葛の花。いつの間にか秋が来ているという感じですね。

 女郎花(おみなえし)これは伯母さんが植えたものだそうですが東京と違ってよく咲いてます。  

 東京ではこのところ暑くてあまり外を歩いていなかったのですが、ここにきて既にススキがところどころ穂を出していて、いかにも秋ですね。舟形の隣が尾花沢ですが、ススキにまつわる地名ですね。

 お祖父さんが存命だった頃から大きな木だった梅の木。

 今日は叔父の法事で、亡父の四十九日と納骨の際、叔父が体を押して参列してくれたその半年後のことで、ただ参列させてもらうことしかできませんが、同時にこのような懐かしいところへ来ることができる機会でもあり、ありがたいと思いました。法要のあと、お斎で村山風の芋子汁(芋煮)をご馳走になりました。

 十五夜さんを家に残して外で夜を越すことはしたくないので、日帰りですが、本当後ろ髪ひかれる気分です。川の流れる音やカエルや虫の音を聞きながら寝入り、鶏の声で目覚めるという昔の感覚が愛おしく思います。思い立ったら下駄をつっかけて河原へ降り、素足を水に入れてメダカを追いかけたあの頃、、。スイカを抱えて河原へ降り冷やして食べたときの味と空気と音、、。 あの頃はここで過ごす日々が一年のピークという感じがしました。         


お盆さがして東へ西へ

2018-08-23 14:05:25 | 日々

 今すぐ急がなくてもよかったのですが、秋口の催事では小さなどろめんだとかひねり鳩など細かなものはお盆に並べて落ちたりしないようにしていて、例年「みそろぎ人形展」で使っている3枚の角長盆の一枚だけみつかって残り2枚が行方不明なので、探しておこうかと思いつくと、もう我慢できない性分(♪あーどぉにも止まらない♪)で暑さが戻った一昨日の午後は自転車で赤羽→志村→仲宿→十条(パンクして自転車屋さんで直してもらい)→王子→梶原→大関横丁→山谷→かっぱ橋→入谷→日暮里→神谷→東十条→赤羽とまわって心当たりの道具屋やリサイクルを探してみたのですが、「さがすと見つからない」のが常。これまで使ってきた3枚もどちらかといえば何気なく入った店にたまたまあって安かったから先々のことを思って買ってあったというもの。新品を正札で買う根性はなく、ネットで見てもいい感じの中古が見当たらない、、、、、。そこで思い出したのがNHKの「72時間」で観た多摩市永山のBookoffでした。

 そして昨日夕方京王線の橋本行きに乗って出かけてきました。昔明大前にあった高校へ通っていた頃に比べると電車がものすごい高速運転になったみたいで、調布から先の区間はかなり速いですね。京王多摩川以南は数えるくらいしか出かけたことがないので車窓から見える景色も珍しく、梨畑とかかなり山里風の風景の中に開発されたSFチックな家並みが見えたり、ここなら絶対狸が出そうとかカエルが合唱していそうという景色もありました。永山の駅から送迎のバスがあるという前情報は耳に入っていたものの着いたのがもう夕暮れ時だったのでタクシーで行ったのですが道をくねくね、案外遠い感じで知らずに探し探し歩いたら大変なことになっていたかも、、。

 店内に入って食器のコーナーへ。案の定さすが長角盆だけでもかなり揃っています。それと安い。ただ希望どおり100パーセントというものは、、。とりあえず控えの品として2枚ゲット。

 ついでに古着売り場もチェック。お目にかかったことのある方であればご存知かと思いますが、服のサイズで苦労しています。日本のサイズで3L。西洋サイズだとLかXL、場合によってはMでも入ることがありますが、やっぱりこういう大きな店舗でも自分の着れるサイズというとなかなか、、一枚だけ嫌いではない感じで入るのをゲット。古書のコーナーはざっと観て欲しいものはなく、ついでにCDコーナーを観ていたらちょっと聴いてみたいのがあってゲット。

 みつけたお盆はというと、、。この鉄線の花みたいのが残念。でもサイズとしては合格、何とかサンドペーパーをかけるなりして絵をなくしたいですね。もったいない。卵に疵。

 もう一枚のは如何にも蕎麦屋の出前用という感じで抵抗はありません。

 話の顛末をいうと結局行方不明だった2枚が出てきて、、、、

 結局前の3枚のほうがよかったという話。

 それでも「隠れ鉄」というか電車に乗るのと知らない土地に行くのは大好きなので結構楽しかったです。記憶での最古の永山だったか多摩センターだったか、高校生の頃「多摩八十八箇所」歩こうとこの辺りに来たときは車窓から茅葺の古民家が自然に残っていたし、鶴川方面にに抜けるバスのコースが信じられないのどかさだったのを思い出しました。帰りは送迎バスで永山の駅へ、夜も8時すぎくらいだったか多摩市の辺りでは月の光がとても澄んでいて秋風らしき涼やかな風が吹いてました。新宿に戻ってホームの外気がまた熱帯風でマレーシアかどこかに降り立ったような感じでした。同じ都内でこうも違うとは、、、。

※慌てて出かけたのでカメラを持参するのを忘れ、現地や店内の画像は他のサイトからお借りしました。

 

 

 

 

 


お知らせ 「北区伝統工芸展」 2018

2018-08-21 00:36:40 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 今年は9月の第二週だった「みそろぎ人形展」の開催が10月にスライドしたので、今後最初に来る催事がこの「北区伝統工芸展」になります。本日打ち合わせ会があり内容についての説明がありましたが、だいたい昨年までと大きな変化はなさそうです。自分のことについてお伝えしますと、ブースの場所は昨年の位置のとなりで、即売もその向いになると思われます。

 自分のブース内では今まで同じ感じで、隅田川、荒川流域から採ってきた土を精製した「地元、東京の土」で人形の型抜き成形を体験していただくことになりそうです。今回使用できる割型についてはまだ準備中ですが、狐や招き猫等を準備したいと考えています。体験材料+送料+梱包材料代としてブースでお預かりして、お作りいただいたものを乾燥、焼成までお預かりしてお宅へ発送させていただくようになります。

 ポスターが今までと随分変わりましたね。今までは錦絵にタイトルが勘亭流というパターンでした。伝統という意味合いを含んで文字を勘亭流にしているのだろうとは思っていましたが、勘亭流だと使う言葉によりけりで、場末のラーメン屋で「味自慢」とか屋号が「十八番」なんて感じにつながってしまうかな?トラック野郎の電飾なんかにも通じるチープな感じに陥ってしまいそうだと思っていました。

 変わっての今回の新しいレイアウト。目新しく感じますが、メインタイトルの文字が何か昔の「新東宝」の怪談やホラー映画、、「怪談お玉が池」「地獄」「吸血何たら」のタイトルロゴのような怪奇趣味っぽく見えるあるいは「祟り」がありそうに見えるのは私だけでしょうか。「王子」といえば「狐」だから怪奇な字体なのかな、、と推理しています。お祭りの縁日の「お化け屋敷」の看板とか「覗きからくり」の木戸口の口上で「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」てな感じですかね。

 まずはお時間ありましたら「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」ということでよろしくお願いいたします。


みそはぎ

2018-08-19 10:50:01 | 街角

 先日調べものに十条台の北区の中央図書館へ出かけた帰りの岩槻街道(日光御成街道)沿いにあるクリニックの敷地に咲いている「みそはぎ」の花を撮りました。ここでは水辺の植物を栽培しているようで、ハスや菖蒲、スイレンなども植わっています。この季節、みそはぎの花が満開です。お盆につきものの花で、昔だったら田圃の畔や庭先に咲いたのを切って仏様にお供えしていたものが、今では花屋で一本¥200くらいついていたりするか、代用の紫色の花が並んでいたりまします。都内だと畑ののこる地域とかビオトープのあるところだとまだ咲いていそうですが、下町の密集地だと観ることが少ないのではないでしょうか。

小学生の頃から「萩」の花とは姿が違うのになぜ「ハギ」と名前がついているのだろうか、「ミソ」は「味噌」と関係あるのだろうかと不思議に思っていました。20代の頃、上野の下町風俗資料館に勤めていた頃、長屋の仏壇を昔のような盆飾りにしようと丹波ほうずきやみそはぎなどと茹でたそうめんで飾りつけをしたのですが、ナスを賽の目に切ったものを盛ってお供えしたところへみそはぎの花房を束ねたものを水につけてナスに水をふりかけるということをしました。館の資料として残っていた古老からの聞き取り記録や「東京風俗誌」を参考にしたように思います。山形の亡父の実家でも仏壇前に組み立ての盆棚を飾っていましたが、茹でたそうめんをぶら下げるということはしていなかったと思います。山形の置賜地方の「亀岡文珠」というお寺の近くの遊ばせている田圃が一面みそはぎだらけで、夕日を浴びてワインレッドに色づいて見えた景色を思い出します。


濡れ手で粟

2018-08-14 01:00:34 | 日々

 昨日は定期的な通院日で例によって自転車で王子から権現坂を関東ローム層に上がり、昔の藍染川沿いに出かけてきました。陽射しが強い中、しんどい感じでしたが、病院に着く前あたりから空がゴロゴロし始め、病院に着いたところで稲光やらものすごい雨が降り出しました。診察や会計が済んで、帰ろうとしましたが、あんまり強い降りなので待合室でうとうと小一時間待って、まだ止まないので、どうせ暑さでバケツを被ったようになるのと変わらないと腹を据え染井経由でずぶ濡れになって帰りました。雨のせいか気温も楽になり行きほどしんどくはありません。例によって駒込と染井の間にある小さな庭。ここにはミニ田圃があるのでもしや、、、と思い寄ってみました。

 鳴き声はしませんが、畔を踏むと一匹の泥カエルがぽちゃん。雨降っているのに鳴いていないですが遭えてよかったです。

 写真には撮れなかったのですが、、。

 このあいだ気が付かなったですが、ウドの大木。

 東屋からの眺め。いい感じです。

 庭を離れて染井霊園へ向け自転車を進めていると取り壊したばかりの更地が目に入り、ままよ、、、と自転車を降りて地面を見ると、、、、、。

 ぼけぼけですが何だかわかりますか。「竿の雫か 濡れ手で粟 思いがけなく手に入るどろめん こいつあ夏から縁起がいいわえ 」

文字通りずぶ濡れなので粟のようについてきてくれたのでしょうか。

ひととおり周りも物色しましたが、これだけです。昔、豊島区の遺跡報告書で染井の遺跡という巻で今戸の羽織狐(尾張屋型ではなく「あぶ惣」型)の出土が報告されていたのを観て、染井は本郷の外ではあるけれど、植木だの人の往来の盛んなところだったから出てきたのだろう、と思っていたのでその時の印象とつながった感じです。

 染井霊園内のけいとう。雨に表れて葉っぱがつややかな感じ。

 明治通りを越えて石神井川傍の緑地のぽんぽん百日草。美しいというよりキッチュな感じで農家の庭先なんかによく植えてある花。日持ちがよくてすぐに切って仏さまにお供えしているのを昔よく見ました。そういう意味で懐かしい夏らしい花だと思います。由美かおるさんとか水原弘さんの傍に咲いているというイメージです。この花は雨で濡れているより強い日差しの中カラカラな感じに咲いているほうが似つかわしいかと思います。それと染井の辺りで焙烙で迎え火をやっているお宅がありました。わが家は先月済ませたので今日が入りの日だというのをうっかりしていました。

 家に帰って古歯ブラシでそーっと洗って、、。蜘蛛の巣の模様のようです。

薄葉紙で擦りだしてみました。妖術とか妖怪とか子供好みの趣向でしょうか。


小判の山

2018-08-12 22:23:52 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 小判の塊が10ずつでひと山。実際は切り餅(小判25枚で紙で包み封印捺印)なんで紙で包まれているけれど、これは無尽蔵の小判なので包まず。天保の50両の切り餅もあったというからひと塊で50両。10個ひと山で500両。干し板の上には18山あるから500両×18=9000両

 今の値打ちで1両=12万円~13万円くらいだそうなので

一両=12万円なら ¥120000×9000=1080000000(10億8千万円?)

一両=13万なら  ¥130000×9000=1170000000(11億7千万円?)

干し板に乗っているだけで、、、、。

まだある まだある、、、、、、、。


窯出し待ち

2018-08-11 21:50:17 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 これから秋冬正月に向けてバンバン型抜きをして乾燥させ素焼きを貯めておきたいところです。このところ笛づいています。鳩笛に福良雀の笛、などなど。それと今までやっていない如何にも際物っぽいものも準備中で、そのパーツになるものの大きさの調節をしているので、窯満杯にして素焼きに入るのが理想ですが、型の調節のため満杯でなくとも稼働させています。

 素焼きは800℃マックスで一時間ならして切れるように稼働していますが、稼働を始めて炉内が500℃に達するまでは蓋を半開きにして炉内の水分を逃がし、500℃を越えたら蓋を閉める。800℃のならしが終わると運転は切れるが、炉内が100℃以下になるまで蓋を開けてはいけないので何度も現在の炉内温度を気にするわけです。特に炉内200℃から100℃までの待ち時間がひどく長く感じますね。千秋の思いとはこんな感じでしょうか。中身を早く確認したくてうずうずします。


謎の 「東京ゴマイリ」

2018-08-09 08:13:46 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 昨夜、2階を整理していたら出てきた「東京ゴマイリ」。まだ若かりし頃、お手本となる昔の今戸人形(当然尾張屋さん以前の今戸人形。「今戸焼」というロゴの入っている人形は自分にとってはお手本にはならない。)を探して歩き回っていた頃にどこかの露店の道具屋さんで入手したもの。

「東京」という名前が入っているからといって必ずしも「東京製」であるとは限らない。「東京ばな奈」「東京ミルクプリン」などなど「東京」を冠した商品名の類は浜の真砂のよう、、。画像では実物より色が濃いめに写っているが、手取りといい、ほとんど焼が入っていない。不思議。これを生業として製造していた窯元でたまたま焼を忘れた状態で残り、古道具として仕入れられたものなのか、、?

或いは、製造者には焼成窯などなく、割型に土を押し当てて抜き出し、口の孔を切り出し、バリを取って乾燥しただけの状態で販売していた? ゴマイリなのだから火にかけて使用を繰り返せば甘いが焼は入る。しかし、途中で濡れたりすれば水に溶けてしまう。火にかけて焼焦げた痕はほとんど見られないので未使用な状態。

 それにしてもこの意匠。この強気で不遜な笑い。たらこのような唇。誰かを連想させる顔である。考え中ではあるが、どこかで観たことがあるような顔。そうだ明治の漫画家「北沢楽天」による「東京パック」の表紙絵とか挿絵の類に見られるような顔ではなかろうか、、、、。

 これでゴマを炒れば、爆ぜてきて口からぱちぱち飛び出すのだろうか、、、?

意匠としては異様で秀逸だが、焼が入っていないにしろ部分部分の仕上げはかなり雑。鹿革でなめしたような痕跡はみられない。

ほとんど焼が入っていない脆い状態でよく残ったものである。

「東京ゴマイリ」東京で作られたものなのか、或いは東京の近郊?焼かれていないので焼いたのちの土色はどうなるのかわからないが、今戸焼の周辺のものなのだろうか?

謎に満ちた「東京ゴマイリ」。

 


鈴口と紐通し孔

2018-08-05 01:48:54 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 土鈴愛好家の方のご希望により試しに土鈴仕様に鈴口を切って、紐通し孔をあけて作っています。

 拙作の人形をはじめて手に取って振ると音がするのでびっくりする方や、「吉田さんの人形は土鈴のようですね。」と言われたことが何度もありますが、いつも「土鈴は鈴口が切ってあるから土鈴で、人形には鈴口を切らないで仕上げます。昔の人形、昔の今戸焼の人形にはガラ(土玉)を入れて、振るとカラカラ鳴るようになっているのが特徴のひとつなのでそのようにしています。」とお答えしています。今戸の土人形は今戸での窯業の展開の途中から当時上方からの下りもののひとつだった京都の伏見人形が江戸に入ってきて、その模倣から始まったという歴史があるので、古い伏見人形の備えていた特徴を受け継いでいるポイントのひとつがガラを入れることだと思いますし、歴史の証としてみることができると思います。江戸明治の今戸人形、そして最後の生粋の今戸人形作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)がお作りになった人形の中にもガラ入りが存在します。秋田の八橋人形、横手の中山人形の古作、鶴岡の土人形他新潟県内の古い産地のものにもガラが入っているのは、昔の伏見人形にガラが入っていたものを模倣したという遺伝子のようなものだと思います。

 これまで土鈴愛好家向けに鈴口を切ったことが数回ありますが、今回、丸〆猫(昭和戦前風型)と本丸〆猫と提灯持狐の3つを試しに土鈴仕立てにするということでやっています。

割型に土を詰めて押し、型から外してバリをとるところまでは普段と同じ。(土鈴の場合肉薄のほうがよいとか言います。)すぐに切ると粘りや貼りつきで鉄ベラが使いにくいのでしばらく置いて、土が落ち着いてからはじめます。まずは鈴口の両端にくる丸孔を「ポンス」で開けて、更にしばらく置いてすこしでも土が落ち着くのを待ちます。「ポンス」は金属製の筒で斜めに尖っているものや王冠のように先端がジグザクになっていて回転させながら粘土を刳り貫く道具で、うちでは大抵「ぴいぴい」(鞴つき人形笛)の背面の孔あけに使っています。

しばらく置いてから定規を当てながら丸孔同士を細い切り口で繫ぎます。ここで土が刃先にねばりつくと汚くなります。

 すぱっと潔く切り込んであまりいじらないで、もう少し落ち着いてから鞣すか、またはしっかり乾燥してからサンドペーパーを当ててきれいにします。鈴口の切れのよさは愛好家の方のチェック点のひとつなのですが難しいです。

 紐通しの孔開けも難しいと思います。土鈴としてデザインしたものではないので孔を開ける位置で猫が可愛そうに見えたり(動物や人の頭や顔を孔が貫通しているのは残酷な感じです。)

といって可哀そうでない位置に開けた孔が紐を通した時の全体の重力のバランスに沿っているとは限らないからです。

この丸〆猫の場合、前掛けの紐の結び目付近に紐通し孔を開けることが人形のためには一番無難ですが、紐を通せば重心は前屈みになって、人形の底が素直に真下にくるとは限らないからです。今回はこの様子を見ていただいて、相談の上今後の位置の変更など考えることになります。

昔の今戸人形やその周辺には純粋に土鈴としてモデリングされたものも若干あり、いつかはそれらも手掛けていきたいと思います。


どろめん三昧

2018-08-03 23:49:00 | 日々

 今日は千葉市のどろめんの研究家の田中和夫さんのご厚意ではるばる赤羽まで資料をお運びいただき、4時間弱の間、ひとつひとつの資料についてご説明をいただきました。わが家の中では整理が悪くてお通しできないので、町内の自治会館の一室を貸していただいてテーブルの上で拝見しました。田中さんの資料は全て千葉県内の畑から出土したものだそうで、40年近く拾い集められた集積で、私も若い分畑を歩いたことがあるので、その時の印象と重ね合わせてお話を拝聴しました。畑からはいかにも今戸の土色のどろめんに限らず、投網の重しだとかガラス製のおはじきだったり石蹴りだったりと、幅のある年代のものが表土に表れていたもので、なぜ、畑から出てくるようになったのかということについてもお話を聞いて目から鱗な内容でした。

 同じ地域にある畑でもこうしたものが出てくる畑とそうでない畑がある理由として、その当時畑だったところには豊作を願って土に埋める風習があり、牧場だったところはそうではなかったということです。また江戸市中の厠から汲みだされる肥に混ざって泥めんや人形のかけらが混ざって運ばれ、畑に播かれたものが結果として土製のものが地中に残ったという説を私も聞き憶えていたものですが、江戸の近世遺跡の遺構の厠から畑から見つかるような土製品がみつかるという例はないそうで、「肥に混ざって」という説はほどんど可能性がない、ということです。

 ガラス製のおはじき、めんこ、石蹴りの形状と製作方法、形の意味するもの、背景など、ひとつひとつ追及された内容をご紹介いただきました。興信牛乳の蓋だったという磁器製の破片もありました。

 昨日日どりが決まってお声かけした中から足を運んでくださったみなさんもありがとうございました。画像は「亀乗り童子」と呼んだらよいでしょうか。片面の人形で3センチ余りの大きさですが彫が細かくよくできた人形で、「どろめん」というより一文人形の一種というのでしょうか。フルコースのようにたくさんの資料を拝見した中で一番好きな人形です。

わざわざ運んで貴重な資料とその背景について丁寧にお話くださった田中さん、足を運んでくださったみなさんありがとうございました。まさに眼福、耳福の午後でした。


人形の底の仕上げのいろいろ

2018-08-01 21:34:25 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 江戸から明治、昭和戦前の最後の生粋の作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)までの今戸人形の流れの中でいろいろな人形や玩具が作られていた中で、単純に2枚型から抜き出して作る人形の底の作りについてご紹介します。

①一番オーソドックスなのは上の画像の中で上左側の「鞠猫」と「丸〆猫・嘉永安政風型」のように2枚の割型が底を持ち、抜き出した人形が合わせに沿ってバリを持つようないわば(平底型)。

②上右端の「丸〆猫・昭和戦前風型」のように割型に底がなく、前後を合わせてから延ばした粘土を当てて底をつける(上げ底風型)。

③下左端の「招き狐・台座つき」や下右端の「堤式の奉納狐」また画像にありませんが「鉄砲狐」のような「底なし型」。

④下真ん中の「犬」のように脚の谷間を切り出すものもあります。

⑤また型で抜いている小さなもので「ひねりの犬」のようなものは、中は中空ではなくぎっしり粘土が詰まっているようなものもあります。

基本的には立てたり置いたりする底が座るようになっています。

折に触れお問い合わせのあることなので、まずはこういう底の仕上げの違いがあるということでご紹介しました。