東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸焼(23) 蔵の形の貯金玉

2010-05-30 02:29:10 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010459 「今戸焼(22) 宝珠型の貯金玉」に次いで、登場したと言われている貯金玉(貯金箱)です。作者としては、寺島(向島)の「高野安次郎」や、今戸、長昌寺前で芋屋渡世の傍ら土人形を作っていたという「鈴木たつ」の名前が有坂与太郎の著作に記録として残ってますが、他にも作った人はいたかもしれません。

葛飾区立天文と郷土の博物館で発行した「窯業関連資料1・今戸焼」図録の中に、現在プラスチックの植木鉢の製造に転じられた、春日部市の「井上歳正氏」寄贈の写真資料の中に、「昭和7年 浅草聖天横丁にあった 井上釜次郎さんの妻の兄弟の妻は本屋をし、本屋の後ろで消壺も売っていた。」という解説のある写真の中に、消し壺とともに蔵の形の貯金玉が写っていて、大同小異のもののようです。

蔵は富を蓄える象徴で、それを貯金玉の形にしたところが、宝珠の意匠同様、なかなかのアイデアですね。

2007_0101_000000p1010460 成形の方法は当然割型によるものなのですが、単なる2枚型だとすれば、抜きにくいんじゃないかと思うんですがどうでしょう。仮に2枚型だとすれば合わせ目をどこに入れたら抜けるのか?屋根の鬼瓦部分や張り出した軒がひっかかるのではないかと思うのです。何とも不思議です。

 

 

 

 

 

 

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今戸焼型の招き猫③

2010-05-30 01:58:33 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010456 今戸焼の型の招き猫に加え、招き狐の土人形にもゲストとして並んでもらいました。

画面後ろ中央のは「招き猫の貯金玉」です。型は「今戸焼の招き猫①」の画像の後ろ右の「不詳の招き猫貯金玉」と同じです。①のがオリジナルの配色に近いのですが、ちょっと楽しんで色違いに塗ってみました。

左端の左招き猫は、お手本は人形玩具学会でご活躍されていらっしゃるHさんが以前くださった施釉の招き猫(なめ人形)なのですが、楽焼き風の仕上げについては、まだ実験中なので、一般的な今戸の招き猫の配色を意識していくつか塗ってみたもののひとつです。何れなめ人形として仕上げてみたいと思います。この招き猫の型は「今戸焼の招き猫①」の中にある「招き猫のぴいぴい」のもとになったものだと思います。

手前に招き狐2種。左は戦前の一時期浅草神社(三社様)の裏手にある「被官稲荷神社」で授与されていたという招き狐の土人形の写真をもとに型を起し、配色は昭和っぽく、赤を基調につけてみたものです。同時に青を基調としたものも塗ってみました。

右側の招き狐は、趣味家の間で「今戸」として伝わっている形の狐を参考にして作ったもので、王子の装束稲荷神社の「狐の行列」や「初午、二の午」で神社から授与されています。

招き猫も招き狐も、画像以外にも手がけた種類のものがあるのですが、生憎、手元にみつからないものもあり、今後また作った際にご覧いただきたいと思います。

以上、拙作の今戸焼型の招き猫アンソロジーでした。

 

 

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今戸焼型の招き猫②

2010-05-30 01:35:02 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010454 丸〆猫(まるしめのねこ)といって、記録や錦絵、遺跡からの出土品の土人形と三点揃って、現在のところ確認できる招き猫の最も古い姿だとか、最古の招き猫、招き猫の起源や元祖とか言われていますがどうなのでしょうか?

招き猫は全国のいろいろなところで作られていましたが、こうした土人形作りについて、当時として記録に残っていることのほうが稀で、江戸を消費地とした今戸焼は、その点で上記のような記録が残り、錦絵にも描かれ、そして遺跡からも出土しているという点で、幸運でした。

最古の招き猫とは言っているものの、記録に残っていないもっと古い姿の招き猫も存在したかもしれないので、招き猫の元祖とまでは言えるかどうか、、。

後ろ左側の丸〆猫は私として最初に手がけた丸〆猫で、昭和戦前の頃の作と思われるものを手本としました。作者はわかりませんが、最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の可能性もあるように思われます。この型には、配色の違うものが幾通りかあって、それらもやってみたことがあります。明治の「うなゐの友」に描かれた丸〆猫と配色は若干違いますが、形はよく似ています。

その次に手がけたのが手前左側の小さな2体。尾張屋春吉翁作の丸〆猫(座姿と臥姿)です。春吉翁も、同じ型の人形へ幾通りか異なる配色をしています。そして次が「丸〆小判猫」。これも尾張屋春吉翁の作の再現を試みたものです。

そして、後ろ右側のが、最近手がけた、新宿区内の「水野原遺跡」から出土した丸〆猫を再現したもの。広重画の「浄るり町繁華の図」に描かれた「丸〆猫屋」に並んでいる猫の配色を参考にして塗ったものですが、よだれかけの縁の部分だけは、伝世の座り猫によくあるように「キハダ」を煮だした汁を塗り重ねて上から真鍮粉を蒔きました。

その後もうひとつ、文京区内の遺跡から出土した「本丸〆」の印のある猫も再現しました。一緒に写真に撮りたかったのですが、整理が悪くてどこへいってしまったのやら、、。画像は当ブログの「今戸人形」カテゴリーの中の丸〆猫⑬の記事か、HPの飾り棚のページにありますので、よかったらご覧ください。

 

 

 

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今戸焼型の招き猫①

2010-05-30 00:59:01 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010453 はじめて今戸焼の土人形の再現を試みたのは三十路にかかった時でしたので、もう17年前になります。その割には、効率もよくなくて、時間の割には種類をこなしていません。その中で猫物が一番数が多いです。特に招き猫好きというわけでもないのに現時点では種類が一番多いというのはなぜか、、、?やっぱり潜在的に猫が好きなのかなあ、と思ったりします。

一番最初に手がけたのは奥中央の「招き猫の火入れ」です。今戸焼の土人形の最後の作者といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の作を再現しました。その次に作ったのが、手前右側の「招き猫の貯金玉」。これも尾張屋春吉翁の作の再現です。そのあと、昭和型の「丸〆猫」や尾張屋春吉翁作の「丸〆猫」座り型と臥姿型、次いで「丸〆小判猫」だったと思います。

そして画像手前左側の「招き猫のぴいぴい」。これは、明治時代のものを再現したもので、下の鞴で風を送り込んで鳴らす人形笛です。

その後いろんなお手本をもとに作ったのですが、この画像でいうと奥左の「寺島(向島)の招き猫の貯金玉」と奥右の「不詳の招き猫貯金玉」が最近作った招き猫です。「寺島の貯金玉」は橋場の2代目井上良斎の弟子の高野安次郎という人が寺島に移ってから作っていたといわれるものです。この人は「今戸焼協同組合」の中の一人であったようで、主に、植木鉢や焙烙などを作る傍ら、貯金玉を作っていたようです。貯金玉(貯金箱)を招き猫の形にした最初の例である、最古の招き猫貯金玉、招き猫の貯金玉の元祖であると記述されているのですがどうなのでしょうか?

「不詳の招き猫貯金玉」については、よくわからないので不詳なのですが、無愛想な表情が面白いと思って手がけたものです。

 

 

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亀ヶ池弁天

2010-05-25 19:45:14 | ご近所

2007_0101_000000p1010442 赤羽駅西口から西へ弁天通りがのびていますが、その通りの名前はこの弁天様からきています。

江戸名所図会にも描かれている池はもっと広大な様子ですが、私が知っている池は現在より少し広かったという感じ。小学生の頃、遊ぶテリトリーを拡げつつあった頃、西口は私の住む南口界隈に比べ、緑が多く、虫採りやどんぐり拾い、カラスウリ採りなど南口では手に入らないものを求めて遠征していました。

国鉄の踏切が開かずの踏切だったこともあって、東と西の行き来は案外面倒でした。一番通りやすかった踏切は、現在「餃子の王将」やくすりの「ぱぱす」があるところ、地元では「親子踏切」と呼ばれていました。京浜東北線はもともと堤の上を走っていたので、そのガードをくぐり、東北線高崎線貨物線を渡るひとつの踏切と赤羽線を渡る小さな踏切があったので「親子踏切」。電車が好きだった私はよく親子の踏切の間の坂道で「特急いなほ」や「特急つばさ」を待っていました。

弁天池の話に戻ります。私の記憶では、昔はこのような鉄柵がなく、ザリガニがいるので、よく採りました。亀はその頃のほうが少なかったように思います。現在よりも向かって左側に池がのびていて、池の一部を跨ぐように平屋の家が建っていました。おそらく弁天様を管理する役目だったのだと思いますが、子供が遊んでいると、窓がガラッと開いて、怖いお婆さんが「こらっ」と怒鳴るんです。それで一旦は逃げて、またザリガニを採るという繰り返しでした。今考えると罰が当たってしまいそうでひやひやします。2007_0101_000000p1010443

あの頃を思い出すと、池の周りに旅館がたくさん、またホテルもありました。西口で八百屋と骨董屋をやっておられたUさんというおじさんに昔の赤羽の話をよく伺ったものですが、嘗ては、この界隈は2業地だったそうで、山の上の陸軍関係のお客様で賑わっていたようです。私が見た旅館もそうした歴史とつながっていたのでしょう。

今は新しいマンションが建って、景色も変わってきていますが、赤羽の中では割と古風な雰囲気を残すエリアだと思います。

弁天通りには、嘗て2軒の映画館がありました。子供の頃、夏の涼みを兼ねて、「子供まつり」だったかアニメを観に連れていってもらったのですが、予期せぬ実写の「妖怪映画」が併映されていて、子供心に怖くて夜トイレに行けなくなりました。


日々のたのしみ

2010-05-25 08:40:31 | ご近所

2007_0101_000000p1010441 わが家には庭がありません。昔のわが家には庭がありました。やつで、りゅうのひげ、あおき、おもと、いちじく、そして榊の生垣がありました。植えてあった植物の種類が、いかにもその頃、どこの家にもあったというものでした。やつでや木イチゴ、あおきはよく厠の近くだとかによく見られたし、長屋の裏なんかにもよく見られたような気がします。最近街と歩いても意外と観られないのがおもと。明治以降、かなり流行ったようで、私の子供の頃にもよく見られました。卵の殻や貝殻が土に挿してあったのは、養分補給のためだったのか、、。

画像の植木は、私が勝手に植え込んだもので、食べた後のビワの種を蒔いたり、八百屋さんから買ってきた根ミツバの根を挿しておいたりしたのが、しっかりと根づいてきました。それと私の大好きな花「みそはぎ」を以前、安行から買ってきたのを植え込んだのが、楽しみになっています。他にも、いろいろな雑草が生えてきていますが、摘んでしまうのももったいないので、そのままにしていますが、それそれの植物どうしの日光を求めてのバトルはすざまじいものだと感心しながら眺めています。みそはぎが例年、お盆の頃、赤紫色の小さな花をつけます。仏様にお供えする花ですが、最近は花屋さんを覗いても似た色の違う花で代用されることが多いですね。そろそろ荒川の土手や、芝生の植え込みに「ねじばな」(もじずり)がひょっこりと咲く時期かな、と楽しみにしています。


今戸焼の「笑い物」

2010-05-21 21:41:38 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010212 写真の人形は江戸後期の出来の今戸焼の土人形だと思います。「行水する婦人像」で同じ型の人形が本郷の東京大学構内からも出土しています。

現在の眼からすると、おおらかで罪のないほほえましい人形だと思いますが、作られた当時としてはかなりお色気の強い人形だったのではと思います。錦絵に中には「和印」と呼ばれるかなりきわどいものがありますが、そうしたものに比べれば、毒気も少ないでしょう。

このような行水をする姿の人形は他にも出土例があります。

今戸人形の発生の源となった京都の伏見人形には「笑い物」というジャンルの人形類があり、「お客大明神」とか「火吹き竹」といった陽物を形にしたものがあれば、「松茸おかめ」など暗示したもの、「子抱きのおかめ」のように直截的に陰部を露わにした人形まであります。

東京の近世遺跡から出土した人形の中にも

「子抱きのおかめ」の今戸版がありましたし、「火吹き竹」と同巧のものが見られます。

記録されている尾張屋・金澤春吉翁の懐述の中には「金松」と呼ばれる花柳界の客寄せの縁起ものの人形を作っていた、とありますが、名前からすると伏見の「お客大明神」のようなものだったのかどうか、、、?まだそれらしきものを見たことがありません。尾張屋さんの作でこの手のものは、「猫抱きおかめ」の猫と松茸を入れ替えた人形があります。

先日、金澤家を訪ねて、「金松」について伺ったのですが、それらしき人形は見たことがないというお話でしたが、つい先ごろ、江戸東京博物館に寄贈されたという人形の中には、一体「笑い物」と思しき人形があったということでした。現物を直接拝見したわけではないのですが、春吉翁の作として知られている「おかめ女郎」(これは笑い物ではありません。)とよく似た構図で、それよりもひとまわり大型で、底を裏返して見ると、それらしき彩色がしてあった、とうことです。何れ新資料として公開されるかも知れません。しかし、底の部分は公開はされないのではないでしょうか?

東京大学の構内から出土した「子抱きのおかめ」は以前、人に勧められて再現を試みたことがありましたが、出土品なので、彩色は残っておらず、問題の部分の配色はどうなっていたのだろうかと戸惑いました。

おそらく、春吉翁作の件の人形がその謎を解く鍵を握っているのではないかと思います。

 

 

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ダイエー赤羽店

2010-05-18 21:35:45 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1010438 赤羽のダイエー閉店まで残り僅か、、。「40年ものあいだありがとうございました。」云々と看板が出ているから、できたのは私が小学校2年生の頃?

私はすぐそばの幼稚園に通っていたし、その向かいの「荒井楽器店」のヤマハ音楽教室へも通っていたので、ダイエーのできる前の景色は憶えています。そこはその昔、染色工場で、私が憶えている頃はもう操業していなかったかもしれない。建物は残っていたけれど、一面葦の茂った広大な空き地だった。

赤羽ではダイエーよりも西友のほうが古く、今メッツとかいう名前で本屋やレンタルビデオ屋や銀座アスターが入っているビルが西友の1号館だった。今の西友は2号館で、あとからできた。もともとは幼稚園の敷地の一部で古い講堂が建っていた。

ダイエーができてすぐには行かなかった。同じクラスの友達によると、にしきのあきらさんが「空に太陽があるかぎり」を持って実演に来たらしい。2007_0101_000000p1010439 今ライオンズマンションが建っているところには「東京タワーボウル」という大きなボウリング場ができて、中山律子さんも実演に来たらしい。ボウリングがブームで、赤羽にも何軒かボウリング場ができた。

さて、ダイエーの店内の昔の様子を思い出そうとしても、なかなか鮮明に出てこない。何度も上書きされているから、、。

B館の一階にはたくさんのテナントが入っていいたなかで、憶えているのは、本屋さんと手芸屋さん。2階にはレコード屋さんに電気屋さん。3階は、飲食店街になっていたような気がする。ゲームコーナーもあったかもしれないけれど、そっちの方面には関心がなかった。何階か忘れてしまったがポスターを売っている店があって、マリリン モンローのポスターを買って帰ったら、母親がひどく怒って、モナリザのポスターと取り替えてきてしまったことがあった。

A館の4階は家具売り場だったような気がする。

♪ダイエー ダイエー エイ エイ エイ エイ エイ  ダイエー みんなの エイ エイ エイ エイ エイ ~ ショッパーズプラザ ダイエー♪

という歌がくどいほど繰り返されて流れていた。


貴重な一日

2010-05-16 21:01:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010393 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)。これまで春吉翁に関しての記事を採り上げてきましたが、今日春吉翁のご親族である金澤家をお訪ねしてお話を伺うことができました。

今から20年前、春吉翁のお孫さんでいらっしゃる武佑さんにお目にかかる機会を得ましたが、20年ぶりに再会でき、その間読みかじり、聞きかじりしたことを更に深めることができました。

春吉翁がまだご健在で今戸人形を製作されていた頃、その片腕として仕事を手伝っておられた娘のはなさんは平成16年にお亡くなりになられたそうですが、その生前武佑さんの奥様が、はなさんの当時について語られていたことをカセットテープに録音されていたものをお聞かせくださり、また春吉さんと一緒ににお住まいになられていた武佑さんのお話を限られた時間ではありましたが、メモすることができました。

また、私にとって気がかりであったこと。春吉翁の作られたお人形を手本として再現していることについてもご承諾くださり、ほーっと安心しました。はなさんは、春吉翁が亡くなられた後、同業者に真似されることが嫌で悩んでおられたそうですが、現在、春吉翁の存在やお作りになられた人形について知っていらっしゃる方も少なくなってきているので、春吉翁の作には及ばずとも尾張屋さんの今戸人形の雰囲気や尾張屋さんの歴史を世に伝えるためには、はなさんも喜んでおられるだろうというお言葉をいただき、感謝感激です。

また、手元に残された人形は江戸東京博物館へ寄贈されたとのことですが、半製品の一部を見せてくださり、春吉翁の仕事の手順を垣間見る思いでした。

お聞きしたお話の中には、これまで美術書などに記録として残されていない内容も含まれていてびっくりしました。何れまとめて、内容の聞き間違いがないか確認していただこうと思っています。金澤家の皆さま、本日はありがとうございました。


ハイジな気分

2010-05-16 00:03:04 | ご近所

2007_0101_000000p1010390 今日は久しぶりに高原へ行ってきました。

というのは嘘です。画像だけ見れば赤羽であることはわからないと思います。今日も見舞いで病院へ行った帰り、荒川の土手へ出てみました。

よい天気。ヒバリの声もあちらこちらから聞こえて。何となく嫌なことも忘れてしまうひととき。

しろつめくさもあかつめくさも満開。びんぼう草もたくさん咲いていました。冬場に比べると、陽気のせいかぼやけているけれど、多摩から比企にかけての山並みも見えました。


今戸焼(22) 宝珠型の貯金玉

2010-05-15 19:14:57 | 今戸焼(浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010391 貯金箱のことを古くは貯金玉と呼び、我が国におけるその発生は今戸焼から、と言われています。

その一番古い形は、画像のような宝珠の形だったそうです。もともとは幕末頃、博打の寺銭入れとして考案されたもので、かなり大きな宝珠だったらいいのですが、明治のはじめにお金を貯めるための目的で作られるようになったといいます。2007_0101_000000p1010392 この宝珠の形をした貯金玉にはふたとおりの製法があって、ろくろ挽きで成形したものと、割型を使ったものとあるそうで、ろくろ挽きのほうが古い作り方なのだそうです。画像のものは、底に糸切り痕が見られ、両方ともにろくろ挽きの製法のもののようです。

貯金玉、貯金箱というと人や動物、郵便ポスト、など置物としても飾れるような形がポピュラーなイメージですが、それらが出てくるのは後のことのようです。宝珠型に続いて今戸焼に登場した貯金玉は蔵の形、そして招き猫、その後いろいろな形が出てきます。

画像左のものは、彩色された形跡が見られないので素焼きの地肌のままで売られていたのでしょう。右のものはペンキのようなもので塗られています。宝珠ですから、金や銀で塗られたものが多かったらしいです。

左の宝珠の背面には取り出し口らしき穴が切出されています。古い貯金玉だと、取り出し口のないものが多く、割らないとお金を取り出せないのですが、古い形でありながら、取り口を持っているという点で時代はどのくらいなのか迷ってしまいます。

今戸に古くからお住まいになられていらっしゃる方から、戦前のことをお聞きしたことがあるのですが、子供の頃、近所の「小川源太郎」という名前の今戸焼屋さんがいて、外にたくさんの「宝珠の貯金玉」を干していた。遊んでいて、干してあるのを落としてしまい、よく怒られたそうなのですが、この「小川源太郎」という人こそ、宝珠の貯金玉の作者として、戦前の有坂与太郎の著作に出てくるのです。

地元の方の思い出のお話から、名前が出てくると、遠い昔のこともリアルな感じがして、嬉しくなりました。


今戸焼の土神輿

2010-05-14 18:41:55 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010023 テレビのニュースを観ていたら、もう「三社祭」なんですね。季節の移り変わりの早さにはびっくりしてしまいます。

画像は、昔今戸焼で作られていた「土神輿」を再現してみたもの。焼き物で神輿を作るという発想がユニークだと思います。

手本は毎回ご登場いただいている、今戸焼の土人形の最後の作者であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)作のものです。

都内の近世遺跡からの色のとれてしまった出土品にも含まれていることがあり、大小さまざまな形の神輿が作られていたことがわかります。

尾張屋春吉翁の作は、担ぎの棒が挿し込まれているという例を見たことがないんですが、お人形の吉徳さんに伝わっている天保年間の人形玩具の配色手本帳を見ますと、春吉翁の作品の配色と似ていますが、その上担ぎ棒も挿しこまれていて、棒の配色も指定されているのです。棒の上の面は緑青で、側面はたいしゃ色です。それとおりに塗って本体に挿しこみました。

今戸焼の土神輿は三社祭だけに限らず、江戸市中、近辺あちらこちらのお祭りで子供向けに売られた際物玩具であったと思います。これをぶつけ合わせたり、誤って落としてしまえばすぐに割れたり欠けたりしてしまうのが、今戸焼の儚さですが、それを惜しげもなく買い求めて遊んでいた江戸の子供たちは淡泊で潔いところがあったのかもしれません。

お神輿の掛け声はやっぱり「わっしょい」でしょうね。

ちなみに招き猫の一番古い作例と言われている丸〆猫ですが、売られていたのは、ここ三社様(浅草神社、旧浅草権現、三社権現)の鳥居横らしいです。今から十数年前、TV番組で私の再現した丸〆猫を採り上げてくださり、その1シーンとして、私が三社様の拝殿で拙作の丸〆猫を奉納するというのがありました。当時、三社様のご神職様ともお話しさせていただきましたが、ご存じないようで、その後も丸〆猫についての縁起について取り立ててPRされることもないようなので、もったいないというか欲がないんだな~と思っています。文献にも錦絵にも残っているものなのですけれど。まあ、三社様にとっては招き猫ひとつの伝説もそれほど重要ではないんでしょうね。なにしろ浅草寺創建にまつわる由緒あるお社ですし、本殿拝殿も震災、戦災から類焼を免れた重要文化財で、また江戸三大祭りのひとつを執り行われる浅草の要なのですから。


落語 「今戸の狐」から

2010-05-12 23:09:54 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010387 皆さまご存じの落語「骨の賽」(今戸の狐) 。

以前、知人から寄席の招待券をもらうことが多かったので、割とよく出かけたものですが、この演目は生で聞いたことがないんです。古今亭志ん生師匠所演のCDだけは持っていて聞いています。他の演者のは知らないのですが、細部など違うのでしょうか?

あらすじについては、私などが今さらと思うので省略します。2007_0101_000000p1010388 ここでは、噺の中に出てくる今戸焼の狐について長年不思議に思っていることを記したいと思います。内職で狐の絵付けをしている場面。これは昔、今戸焼の陶工の中に「木地屋」と呼ばれる人がいて、土人形の素焼きまでを専門として、業者が素焼きを仕入れ、別の人間が内職で色付けしていたという話と内容が合います。

噺の一番終わりの場面で、遊び人が勘違いして良助の家に上がり込んできて、戸棚の中の狐についてのやりとりで「金貼り」「銀貼り」という言葉がでてきます。遊び人にとっては「金張り」「銀張り」という博打の符牒が良助が内職で仕上げた狐の仕上げの種類との「金貼り」「銀貼り」と重なってくるところが面白いところですが、この「金貼り」「銀貼り」に相当する今戸焼の狐を私は未だかつて見たことがありません。金箔や銀箔を土人形の一部に貼りつけるのか、それとも全体に貼りつけるのか、、?箔を立体に貼りつけるのは結構面倒な作業のはずです。

2枚目の画像の手前に見える小さな狐のひとつ、黒ずんで見えるのは、これはまがい金泥(真鍮粉)を膠で溶いて塗ったものです。金泥には赤口、青口とあって、いずれも塗ったときにはきれいに輝いていますが時間が経つと酸化するのか真っ黒になります。こうしたまがいの金泥による仕上げは、歳の市で売り出される恵比寿大黒や寒紅の売り出しのおまけの紅丑などによく見られ、またこのような小さな狐に塗られる作例は見られます。しかし箔を貼ったものは見たことがありません。あるいは、どこかに残っていたら、後学のため、見せていただきたいと思います。

画像の狐たちは、今戸焼でお稲荷さんの奉納用に作られた「鉄砲狐」(一説に形が鉄砲の弾に似ているから)と呼ばれるもので、今戸で最も作られていた型のひとつです。地元浅草・下谷のお稲荷様はもとより、都内各地、成田山新勝寺の出世稲荷をはじめ下房一帯、相模のお稲荷様でも見かけていますし、埼玉県内でも、、。また東松山や熊谷付近、秩父地方では今戸の鉄砲狐を真似たよく似た狐も見られます。今戸には他にもたくさんの狐の種類はあったのですが、数の多さからいっても、噺に出てくる狐はこの型のものではないかと思います。作り手もたくさん、大きさもいろいろあったようですが、こうして並べてみると型も微妙に異なり、色も泥絵具だったり染料だったり、面描きのタッチも違います。お人形の吉徳さんに伝わっている天保年間の人形玩具の色手本にも配色が示されていて、台座のしましまは丹と群青、狐の足元は黄色(石黄?)と指定されています。2007_0101_000000p1010209

塗りが新しいものでも、型自体は台の低い型が古い型であると、誰かに聞いたことがあります。

3枚目の画像は私が再現を試みたものです。

ちなみに「骨の賽」ならぬ「土の賽」は今戸で作られていたようです。

なお

落語「今戸の狐」のあらすじや解説については

茶屋金兵衛さんのブログをご参考になさってください。

当ブログ落語「今戸焼」についての記事はこちらです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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お気に入りの店⑤

2010-05-09 19:52:23 | おいしいもの

2007_0101_000000p1010384 懐かしい佇まいの町の洋菓子屋さん。志茂スズラン通りの「ミスズ洋菓子店」さん。

いつからやっているのかということは記憶にないんですが、私の意識に入ってから久しいお店です。

洋菓子というと、カリスマパティシエのお店とか、ヨーロッパの名店の日本での出店、セレブ御用達のお店とか、大手のどこの駅前にもあるお店もあり、話題としては高級感を売りにしているお店が多いのではないでしょうか?

もちろん「おいしさ」が何よりのポイントではありますが、私にとっての「おいしさ」の要素の中に「懐かしさ」「心やすさ」があります。

2007_0101_000000p1010386 私が生まれたのは昭和30年代後半。しかし記憶に残っているのは昭和40年代前半からです。食べ物についての思い出では、家庭の事情にもよるかもしれませんが、私の身の周りでケーキを食べられるのは、一年を通して数えられるくらいの頻度だった思います。たまに親戚が訪ねてくると思わぬおみやげがケーキだったということもありましたが、、。

手みやげというと、思い出されるのは、果物屋さんがまだ「水菓子屋」とも呼ばれていて、親戚のお姉さんがきれいな包装紙で包んでリボンをかけてあるひと房のバナナを持ってきたこと。それがとても嬉しかったし、今から考えるとバナナって高級品だったんだな~、、と感慨深いです。ましてやケーキといえば、、、。

買いものにいつも同行しているわが家の犬が、ケーキを買っている最中からルンルンになって尻尾を振るわ、飛び跳ねるわで、家に帰って箱を開けたらぐずぐずになってしまったけれどわが家で40年以上使っている菓子皿に乗せてみました。このお店では「プリンアラモード」なる懐かしいデザートもあります。メロンも高級品でしたね。

子供の頃のときめきをもう一度、、。そんな幸せを売ってくれるお店だと思います。


びんぼう草

2010-05-09 13:06:46 | ご近所

2007_0101_000000p1010372 やっと初夏らしい天気が続いていますね。散歩で通るご近所の空き地や荒れ地は、さまざまな野の花で賑わっています。

その中でも子供の頃から馴染みのある花。確か「ヒメシオン」とか「ハルシオン」といった名前だったかと思うのですが、子供の頃よく摘んだりして牛乳の空き瓶に挿しておいたりしました。

菊の仲間だと思いますが、それらしい香りがします。

「貧乏草」だといって、忌み嫌う人もいますが、どうしてこれが「貧乏」なのでしょうか?おわかりの方いらっしゃいましたらご教示ください。2007_0101_000000p1010376

可愛い花だと思うのですが、名づけられた花も気の毒です。