昨日、隣の町内の仕事場に割型を探しにいって奥のほうをチェックしていたら、長年探してもみつからなかった「鞠猫」の割型が出てきました。早速いくつか抜き出しています。このブログを開設したのが7年前で、その当時作っていたものの、型が行方不明になっていたのでした。以来、たくさんの方々にご希望をいただきながら、型が行方不明なので、見つかったら作ります、という返事しかできなかった次第です。伏見人形を原作とする人形で、それからの抜型で今戸でも作られていたというもののひとつです。我が家に全く色のとれてしまった今戸版の「鞠猫」があるので、それを手本に原型を起こしたものです。伏見の原作は耳がもっと尖っていますが、今戸版のお手本は比較的耳がなだらかです。
「お人形は顔がいのち」の浅草橋の「吉徳」さんの資料室ご所蔵に国芳の「江戸じまん今戸のやきもの」という画題の錦絵(弘化年間・1845~1848頃?)です。今戸焼の土人形の絵付けをしているお母さんの様子が描かれていて、描かれている人形の種類が実在していたものばかりです。まさに筆を運んでいるところの人形が「鞠猫」です。配色はおおかた伏見に準じている感じですね。他にも竹串に刺して「藁づと」で乾燥中と思われる人形が4つ。右端の上は「三方狐」、下はおそらく「鳩笛」のように見えます。左上は「馬」、下は何というのか、「頭巾を被った庄屋さま」か「長者さま見立ての大黒様」です。これら弘化年間には今戸で作られていたということですね。
お手本を見ながら型を起こし、配色は上の錦絵を頼りに塗った、ほぼ7年前の画像です。今見てみると、まがい砂子(真鍮粉)の蒔きすぎで、ちょっとうるさい感じがしますね。当時はまだ植物の煮出し汁による彩色を手掛ける前だったので、今度はきはだを塗ってみようと思います。基本的には丸〆猫(嘉永安政風型)の配色によく似ていると思います。丸〆猫は「武江年表」や「藤岡屋日記」それから広重画「浄るり町繁華の図」により、嘉永6年(1852)に登場して大流行した、ということになりますが、この「鞠猫」は嘉永年間の前の「弘化年間」にはあったということになるので、猫の人形としては丸〆猫に先行したものと言えると思います。
国芳の絵の中の他の人形の配色は群青色と赤系の色とを使う以前の配色なんだろうと思われますが、ちょっと不思議に思えるのは「吉徳」さんに伝わっている「玩具聚図」(天保3年)という人形玩具の配色手本の中にみられる今戸人形の配色指定に既に群青が登場していることです。天保は弘化の前です。今戸周辺には人形の絵付けに携わる人は落語の「今戸の狐」(骨の賽)にでてくるように内職でやっていた人がたくさんいたと想像でき、そのために配色規格の統一のため「配色手本帖」が存在したと思えるのですが、天保以降である弘化の錦絵に描かれている人形の配色が群青以前の配色というのが不思議です。人形の問屋さんの指定で配色の規格が決められていただろうし、あるいは問屋もあまたあって古い配色を続けていたところもあったのかもしれない、ということでしょうか。ある日すべての今戸人形の配色が一斉に変わるということはありえませんよね。
まずは、「鞠猫」ご希望だった皆様、これからまた再開できますので、できましたらお知らせいたします。