東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

おばけ地蔵・妙亀塚・小塚原

2019-09-27 08:52:04 | 日々

 

9月21日の今戸へのお参りの帰り道、橋場や南千住へも寄りました。橋場のおばけ地蔵。夕暮れ時だったので車の往来が少ないためかタクシーが休憩していました。

 時代を経たトタンや木造の質感などお地蔵さまを取り巻くすべてのものがタイムスリップしたかのような懐かしさにあふれていて感動的。

 横に建つ供養塔は昭和25年の建立ですが、この辺りがかつては総泉寺の寺域だったのが大震災のあと板橋の志村坂上に移転してしまったので土地に残された魂を供養するための由、裏に刻まれています。志村の総泉寺は赤羽からそんなに遠くないので、橋場時代を記憶するものなど残っていないか尋ねたことがあったのですが、何もないというご返事でした。

 すぐ近くに「妙亀塚」が公園として残っています。

 隅田川対岸の「木母寺」は謡曲「隅田川」の梅若丸の墓である「梅若堂」で知られていますが、川の反対側のここは歌舞伎化された「隅田川もの」に出てくる「班女の前」という名前で出てくるお母さん=妙亀尼ということになるんですね。 

 歌舞伎での隅田川ものというと吉田のお家騒動から梅若丸と班女の前の悲しい話が軸ですが、いろいろパロディーもあとあと出てきて「法界坊」とか「清玄桜姫」とか「桜餅」などいろいろあるのですが、川と都鳥というのはつきものです。今回しっかり確認していないんですが、三ノ輪の商店街辺りあたりだったか、「隅田川」だったか「都鳥」というお菓子が売られているみたいです。浅草とか向島なら当然ですが三ノ輪というところで出しているというのはちょっと見てみたいです。

橋場から清川に出て「泪橋」の交差点から常磐線と日比谷線の高架の間に鎮座する大きなお地蔵さんも覗いて行こうと向かってみました。

 日比谷線の南千住の駅の南側の操車場の向こうに見える再開発された汐入の街並み。高層住宅が並んで荒涼とした感じですが、確か自分がまだ20代で上野に勤めていたころは汐入には古い長屋が広がっていて、そのところどころに石の碾臼が転がっていたり、イボタガキの殻が見えたりしていたと記憶しています。ここらでは胡粉製造が地場産業だった時代があったそうなんです。「胡粉」というとすぐに「今戸人形とつながっていたのか?」みたいについ短絡的な考えをしてしまいますが、実際製造から販路をいつか調べてみたいと思います。なお。明治通り白髭橋より北に「石浜神社」があり有名な伝説の今戸焼の発祥、太田道灌によって滅びた千葉家の残党が石浜の岸辺に住み着いて、地面の土で生活雑器を作り始めた、というはなしの舞台がこの近くです。

 小塚原刑場の跡はもう少し清川、橋場、石浜寄りにあったのが、操車場建設のためお寺は現在にところへ移動した、とか聞く延命寺。大きなお地蔵さまのそばまでいってみるつもりだったのが既に日も暮れて門が閉められていました。この画像門扉からぎりぎりカメラを向けることができた限界です。初めてここへ来たときは、お地蔵様の真上両側を地下鉄や常磐線の車両が大きな音たてて通り過ぎるので気の毒な印象を持ちました。小塚原で思い出すのは落語「骨の賽」(今戸の狐)、今戸で小間物屋のおかみさんになって狐の絵付けをするのが、もと千住のお女郎さんだったので「骨の妻」と「賽子の賽」とかけてあって、「賽子は骨を材料にするものもあった」ということと「千住」に刑場があったから符丁で「コツ(骨)」と呼ばれていたのが重なりあって話が面白くなっているんですね。

 もう真っ暗なのでこれ以上寄り道も厳しいかと思い、常磐線に沿って三ノ輪まで行き、三ノ輪の商店街から都電や明治通りを縫って帰途につきました。

 商店街の中の「砂場」の古い普請がかっこいいです。三ノ輪の商店街から外れるとすぐとなりは真っ暗な住宅街、という感じです。お酒や食べ物を気にすることなしにできる体であったなら、ここいらで時間を過ごして、、という気持ちですが。現実を考えて通り過ぎました。今戸、日本堤、清川、橋場、、、、はじめてではないけれど、じっくり進めばまだまだいい感じのものがたくさんありそうで、まだ寄ってみたいと思います。


秋のお彼岸・お参り(今戸〜清川)

2019-09-25 19:32:12 | 日々

 お彼岸の入りの翌日9月21日、最後の生粋の今戸人形の作者だった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年〜昭和19年)のこ墓所のお参りのお許しをいただいて自転車で今戸まで出かけてきました。午後3じ過ぎの遅い出発でしたが、お寺さまの開門中に間に合い、無事お参りさせてもらうことができました。

 その帰りに寄った昔の今戸河岸の現在。焼きものの燃料となった薪などかつては茨城の利根川沿岸域から水運で運ばれてきて、ここ今戸河岸でにあげされていとか…。また出来上がった製品がここから積まれて出荷されていたとか。上流に広重の錦絵にも描かれた橋場の渡しがあったそうです。その橋場には銭座があったといいます。

 またかつて尾張屋さんのキセル窯があった場所にも寄ってきました。

 続いて清川の玉姫稲荷さま。

 夕暮れ時、境内で地元の子ども会が花火大会をしているところでした。

 御本殿横にお祀りされている口入稲荷。今戸人形の口入狐に由縁のお稲荷さまです。

 

 春吉翁と同じ時代まで今戸町内長昌寺そばで焼き芋屋の傍ら家業の今戸人形作りをしていた屋号「あぶ愡」の鈴木たつ という人がここ口入稲荷奉納用専門に狐を作っているそうです。現在は素焼きの木地を仕入れて彩色のみこちらの奉職されている方々がされているものが並んでいます。羽織狐の股引きの部分を黒く塗りつぶしているところなど「あぶ愡」の彩色を意識して塗られている感じがします。 

 ガラス越しに撮影した内部の様子です。


石膏鉢

2019-09-25 00:23:57 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 夏以来、それなりに人形の抜き貯めを繰り返してきたので、材料の土の回転も早く、なくなる前に次に使える土を間にあわさなければなりません。吸水させるための石膏鉢の中である程度固形になってきた土は大きなタッパーへ移し、吸水マットの上で鉢の水分を飛ばしてから再び水簸(すいひ)を繰り返して濃くなってきた泥漿(でいしょう)を盛り込んで吸水を促します。

 最初と2番目の画像はいちばん濃くなっているバケツの中。ここから泥漿を掬い出して石膏鉢へ移し、蓋をして寝かせます。

 真夏は過ぎつつあるので乾きは遅くなりますが、他の作業で忙しくしているうちに、水気が飛んでいきます。


ねずみづくりの裏作業

2019-09-18 12:10:00 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 今年は事情あって9月下旬の北区の伝統工芸展への出展はしないのと、例年10月開催の丸の内丸善オアゾでの「みそろぎ人形展」が11月になるのとで、気分的にはまだパニクっていません。といって作業は早め早めに進めていくに越したことはないし、案外要領が悪いタイプなのでとにかくやれることは早くやらねば、、と暑い時期から動いてはいました。

来年の干支は「ねずみ」。今戸人形の古典の中にはそんなに多く作例がありません。ひとまわり前の「ねずみ年」には生粋の今戸人形師最後の人であった尾張屋・金沢春吉翁がお作りになられていた「大黒天ねずみ」を手本とした型と古い伏見人形やその傍系の人形にみられる「面持ち」をねずみにして面を大黒様にした「面持ちねずみ」の型とふたつの人形を用意していました。今回はこれらのふたつにさらに古典的なものや創作的なものを追加したいと考えているのと、古い収集家の方々から見せていただいて他の産地のねずみの人形をもとに今戸風につくることはできないかと思って、原型つくりに取り組んでいるところです。

 ただ、原型つくりだけに没頭していると、干支以外の人形の型抜きがおろそかになって、後になってそれこそパニックになるのが心配なのでいつもの作業机の上ではねずみの原型、廊下の床に頑丈な踏み台をテーブルにして粘土を延して大型の火入れを抜いています。

 招き猫の火入れの型入れ中のところ。大きなものなので割り型自体が重く、粘土を詰めるとなお重いです。また、肉厚にしているのですが、多少時間をかけてから型からはずさないとへたってしまいます。

 我が家は狭いので抜き出したものを置く場所にも苦労します。

 火入れの大きなものの合間に上州向けの鉄砲狐とか大黒天ねずみも抜き出してある程度乾くまでは焼成窯の上において、徐々に他のスペースに移動させていきます。それにしてもねずみの原型を早く作ってどんどん抜き出していかないと、、、、。