東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

ごみ入れ

2018-09-22 16:39:39 | ああ懐かしき、、

 時間が前後しますが、火曜日に京王多摩川駅近くの調布市立郷土博物館に出かけてきました。わが家のある赤羽も荒川や隅田川流域の土地で土手に上がればそろそろ秋風を浴びることができそうな時期ではあるんですが、さすが多摩川の流域というのは、水もさらさらしていそうで、山並みがそう遠くなく、あしもとにもいろいろな草花が咲いていていい感じです。

 博物館の敷地内にひどく懐かしいごみ入れがあったので撮ってみました。本体がコンクリートで仕切り板や屋根(蓋)が木製というのは大小いろいろありましたね。自分が小学校に在籍していた昭和40年代頃まででしょうか。かくれんぼでよく中に入って息を殺していたものです。よく見るとそこに毛ガニだったかタラバガニだったか食べた殻が転がっていたとか、死神みみずとかだんご虫とかうごめいていることも少なくなかったです。ゲジゲジとムカデは怖かった。家の近くの通り沿いにあちらこちらこうしたゴミ入れがあったのは憶えているし、中にも入っているのですが、この式のごみ入れでのゴミの回収場面は不思議と観た憶えがありません 

 あたり前のことですが「お彼岸の入りですよ」と知らせとばかりにに彼岸花が咲いています。


新宿「ミラノ」

2018-01-24 22:16:47 | ああ懐かしき、、

 先日とりあげた新宿にあった「ミラノ」というスパゲッティー屋さんについての記憶についてですが、昭和30年代の新宿駅前の古地図をお持ちの方から連絡をいただき、地図の画像もご提供いただきました。お祖父さまが所蔵されていたという大切な地図の画像ですが。この場にて使ってもよいというお許しをいただきました。ありがとうございます。

 この地図ですが、昭和38年頃のものだそうです。大まかに現在の通りと同じのように思いますが、西口の私鉄の駅がどうなっていたのでしょう。これって地上駅だったんでしょうか。そして「ミラノ」ですが真ん中の縦の折り目のところにあるようです。

 今、新宿通りの「三峰」(この地図では「オリンピック」となっています。)のある角から靖国通りに抜ける道の右側の「ミ〇ノ」をいうのがそれです。長年「ミラノ」という店の名前か料理の名前だったと記憶していたことが、こうして間違っていなかったということがうれしいです。ここで食べた肉団子の載ったスパゲッティーの味付けが子供心に微妙にほろ苦い記憶があるので、おそらくトマト味というよりドミグラスソース味だったのでは、と思います。現在伊勢丹の新館になっているところは「丸物ストアー」だったんですね。池袋のパルコも昔「丸物」だったように思いますが、、、。それと今のアルタのところは食品の「二幸」だったんですね。アルタには10代の頃思い出があって、「笑っていいとも」に3回出たことがありました。もらったギャラを握りしめて世界堂の本店で絵具を買って帰りました。

本当に懐かしいです。でもこの地図と自分と同じ年齢なわけで、この地図の時代は子供ひとりで行くようなところではなかったので、他の店屋さんはさすがにわかりません。

地図の情報と画像をご提供いただき、ありがとうございました。

 


ポストのある風景

2014-01-07 23:38:04 | ああ懐かしき、、

P1010060 昨年末、郵便局のお歳暮を使ったらおまけでもらったカレンダーです。早速仕事場に掛けて表紙を剥がすと1月2月は懐かしい風景。

 まだ20代だった頃勤めていた上野の不忍池の畔にある下町風俗資料館の玄関の絵です。

 ただでも懐かしいですが、自分が実際に関わったものがふたつもばっちり写っているんです。

 ひとつめは当然ポスト。当時はまだ郵政省だったように思いますが、手続きを踏め資料館の入口に資料として設置してもらえるということを知り、設置してもらっては、と言い出しっぺでした。当時は図でに円筒形のポストが東京の区部で現役で、とう風景は(あったのかもしれないけれど)滅多に観るものではなくなっていました。

 設置してもらう上での条件のひとつに、あくまで資料としての設置であるということを明示するように指示あって木札を横に立てていたように憶えています。

投函口も塞いで中に入れられないよう工事されました。あれから既に20数年経って周囲にすっかり馴染んでいるような感じに見えます。

 二つ目は画面中央に見える石臼。これは、赤羽駅西口の再開発の際取り壊しになった古い家並みの中にあったもの。住宅公団の方に頼んでいただいてトラックで運んできたものです。

 当時は誰かに用を足されたりしてよく洗っていましたけれど、今はどうでしょうか。他の方にはどう見えるかわかりませんが、20数年経て、ここの入口の点景のひとつに馴染んでいるように見えます。昔の赤羽西口をまだ憶えている方、ここにお立ち寄りの際には、ちょっと観てやってくださいね。P1010061


納経帳

2011-10-15 11:43:22 | ああ懐かしき、、

P1010304春の地震で十五夜さんの部屋で崩れ落ちてきたものの中から、昔かじっていた納経帳が出てきました。ああ懐かしい。

画像上は坂東三十三ヶ所観音札所用の帳面。下は江戸三十三ヶ所観音札所用の帳面です。思い出すと高校生の頃同じアトリエの友達とどういうわけか札所めぐりにハマったことがあり、その頃休みの日とかに一緒に周って歩いていたのでした。

ご存じでしょうが、三十三ヶ所の観音霊場というのは西国三十三ヶ所がそもそもあって、それを倣って坂東三十三ヶ所ができ、江戸の西方(西方浄土というわけ?)にある秩父に三十四か所の霊場ができ、西国・坂東・秩父の札所を合わせて百観音霊場になるのです。

画像とは別に西国三十三ヶ所用の帳面もどこかにありますが、関西はやっぱり遠いのでなかなかお参りする機会に恵まれません。第一番の那智の青岸渡寺と第三十三番の美濃・谷汲山へは行っており、その途中の奈良興福寺の南円堂とか京都の六角堂、革堂はお参りしていますが他のところはまだです。

画像の坂東札所は高校の時第一番の鎌倉杉本寺から十四番の横浜・弘明寺までは巡りました。これらの札所は神奈川、東京、埼玉に集中しているので割と巡りやすいですが、そのあとは群馬、栃木、茨城、千葉に点在するので遠くなります。特に茨城の日輪寺というところは最大の難所で、水郡線の駅からかなり離れた山の中にあると聞いています。

画像下の江戸三十三観音札所は第一番が浅草の観音様に始まって、三十三番が目黒のお不動様で東京の区部に集中しているので、その気になって集中すれば全部巡るのも難しくはないのですが、じっくりゆっくり巡ってみたいです。それにしても、やりかけて達成しないというのも気持ちよくないので、出かけられる時に少しづつお参りしようと思います。


昔の絵はがきから「浅草寺境内」

2011-04-10 00:24:15 | ああ懐かしき、、

P1010045 今東京では桜の盛り。あまり出歩くことができないので、せいぜい近所の桜を目にするくらいです。

この絵はがきのアングルですが、おわかりのように、仲見世側からではなくて仁王門(現在のは戦後建立のもので宝蔵門と呼ばれています。)を潜って、観音様の西前方から東側を撮ったものです。

昔の本来の五重塔は門の東側にあったそうで、たしか、今でもその基壇の跡が残っていたように思います。この写真の立ち位置くらいに今の五重塔があるといっていいでしょう。もうちょっと右側?(アバウトなところで、、。)

桜が咲いています。でもこの写真は手塗りなので、天然色とはいえないでしょうね。

不勉強なので、時代的にいつ頃なのかははっきりわかりません。ただ言えることは仁王門も五重塔も本堂も戦災でなくなってしまっていること。この時代には雷門はないはずです。(今の雷門は戦後、松下幸之助さんが寄贈なさったとか)

画像の左側に大きなイチョウの木がありますが、境内あちらこちらにもあったそうで、現在東側に大空襲を生き延びたイチョウの古木がまだあります。

写っている人それぞれ、他所行きの服装の人もいれば、ご近所風の普段着の人もいますね。

うちの母は戦前の生れなので、少なくとも昔の堂宇や瓢箪池とか花やしきは観ているそうです。


伝説の名舞台・宝塚歌劇「華麗なる千拍子」(昭和36年)

2011-03-10 11:56:01 | ああ懐かしき、、

P1010002 どちらかといえば歌舞伎党なので、歌舞伎や文楽の舞台は結構観てきていますが、宝塚歌劇にもちょっとミーハーレベルで関心があります。

昔NHKの舞台中継で時々放送していました。安奈淳さんの「ノバ・ボサノバ」の中継は観た記憶があります。実際の生の舞台を観たことがあるのはたった2回だけ。宝塚の大劇場で1回、東京宝塚劇場で1回だけです。

はじめて生で観た最初の印象というのは、結構クセがあるな、、という感じだったのですが、次第に体に浸透してくるような何かがあって気になる存在になりました。宝塚歌劇の歴史の本なども少しだけ読んでみたり、戦前の葦原邦子さん、エッチン・タッチン、草笛美子さんらの昔の歌曲の録音のCDを聴いたりもします。

さて、つい最近発見したのですが、YouTubeに戦後の伝説の名舞台「華麗なる千拍子」が流れているのです。この舞台は宝塚歌劇の歴史の中で、はじめて芸術祭の大賞を受賞されたという作品で金字塔だったそうです。当時の男役の大スターだった寿美花代さんが「パイナップルの女王」に扮して客席を魅了した、という話をほうぼうで読んでいました。まさか古い動画を今観られるとは、、、。

出演者は寿美花代さんをはじめ、明石照子さん、真帆志ぶきさん、那智わたるさん、内重のぼるさん、浜木綿子さん、加茂さくらさん、、、等々スターがたくさん。

当時の客席の様子も映っていますが、和服の方が多いですね。昭和36年といえば、私はまだ生まれていない時です。まだ町のあちらこちらにドブ板があり、トイレも完全に水洗になっていない頃ですね。三種の神器も高嶺の花だった時でしょう。しかし、この時代こそ、現在からみると神代のように感じられませんでしょうか?人々が希望を持って生きていた時代。みんなの憧れの大スターが綺羅星のように輝いていた時代、今では伝説のような存在の名舞台が繰り広げられていた時代なのでは(宝塚に限らず)、と思います。

この宝塚の古い動画、とてもゴージャスでボリュームいっぱいな感じがするのと同時に親しみの持てるエンターテイメントです。掛け合い漫才のようなユーモラスな場面もあります。名曲もたくさ出てきます。動画はpart1からpart3まであり、3つでおよそ40分弱です。ちなみに伝説の「パイナップルの女王」はpart2後半に出てきます。

お時間ありましたらどうぞ。

part1へリンクしておきます。→


初午の子供唄

2011-02-07 01:55:34 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1011268 明日2月8日は初午。お稲荷さんの総元締である京都の伏見稲荷大社をはじめ、全国の稲荷社では「稲荷祭」が執り行われます。

お稲荷さんといっても、伏見を代表する神道系と豊川稲荷を代表する仏教系がありますね。

お稲荷さまのご眷属である狐にまつわる人形や玩具、東京の稲荷祭につきものの「地口行灯」(じぐちあんどん)、小絵馬のことなど興味深いことはたくさんあるのですが、昔の東京の東京の下町でのお稲荷さんの初午で子供に唄われた唄について記してみたいと思います。

昔、初午には稲荷講の子供たちが小振りな太鼓を棒に括りつけて2人で担ぎ、太鼓を叩きながら町内の家々をまわり、駄賃やお菓子などを貰って歩いたという話を聞きますし、絵に描かれているのも目にします。

そのとき子供たちが唄ったという唄を今から20年くらい前に、台東区谷中で質屋さんを営んでいらっしゃった当時80過ぎのお爺さんから教えてもらいました。不思議な文句なのでそれを記してみたいと思いますが、下品だとか卑猥だとかお感じになられる方もいらっしゃるかもしれませんが、そのまま記したいと思います。

「 お稲荷講  万年講

 棚からぼた餅おっこちて 赤いちんちん擦りむいた

 痛いよう 痒いよう 膏薬代おくれ 」

この文句は、「東京風俗誌」という本にも同じように記録されており、下町のほうぼうで唄われていたようです。内容が不思議ですよね。「棚からぼたもち」と「赤い~」との因果関係に何かが隠されているのでしょうか?

赤はお稲荷さんの祠や鳥居、幟の色に使われる色ですね。赤い鳥居は伏見の稲荷山の千本鳥居など圧巻ですが、東京の下町の祠や鳥居は赤です。

またお稲荷さんのご眷属である狐の尻尾の先は宝珠のようにも見えますが、陽物の象徴で豊饒の象徴でもあるとか書いてあるものも読んだことがあります。

昔のわらべ唄の類には「かごめ かごめ」をはじめとして、呪術的な意味があるとも言われているようですが、この初午の唄にも何か意味があるのでしょうか?

ご存じの方いらっしゃいましたらご教示いただきたいと思います。


最近みつけた本「こけし 伝統こけしのデザイン」

2011-01-30 00:58:47 | ああ懐かしき、、

P1010062 先日近所の本屋さんでみつけた本です。

発行日をみると、昨年の4月に初版ということなので、今更新刊というのでもなさそうですが、はじめて知りました。

その昔、こけしにハマっていた時期がありました。自分の小遣いでこけしを買ったのは小学5年生頃の夏休みなので昭和49年頃だったかと思います。場所は山形の肘折温泉。父の実家が近くの舟形町というところで夏には毎年遊びに行っていたのですが、遊んでいて虫さされがひどくて、足がじんましんのようにさされた痕だらけになってしまったので、肘折温泉から湧き出る炭酸水を汲みに行ったのです。

その頃、肘折温泉がこけしのひとつの産地だということは知らなくて、買ったこけしは肘折のものではなくて山形市内のこけしでした。

そのあとお正月にお年玉を貰うと、新春のデパートの催事でよくあった民芸品やこけしの即売に出かけたものです。どこのデパートでもこけしを売っていましたが、今ではあまり聞かなくなりました。

その当時はこけしの景気がすごかったと思います。鳴子温泉や遠刈田温泉、鎌先温泉、作並温泉、蔵王温泉、温湯温泉など、こけしの産地の温泉に泊る機会もたくさんあったのですが、いつの頃からか、こけしも下火になっていきている印象を持っていました。

まだこけしに興味を持ちはじめた頃は、町の本屋でも入手できる入門書があり、そのいくつかを読みかじったものですが、最近は普通の本屋でこけしの本が並んでいるのを見たことがなかったように思います。

昔私が読んだ本はどちらかというとまず古いこけしの名品、こけしの歴史、風土、こけしの見方集め方、その心得と人間関係みたいなことが書いてあり、ひどいのになると、こけしを作る工人さんの評価めいたことが書いてあり、「こいつは修業が足りない」とか「褌を締め直して修業しろ」なんて書かれている人もあったので、書かれる身にとってはたまりませんね。初心者の人がこれを読んだら、そのこけしを買わなくなるようなことです。何だか教祖さまの上から目線で書かれているような印象でした。

先日みつけたこの本、とても新鮮な印象をもちました。ビジュアル中心でとても気軽に眺めることができますし、むずかしいことが書かれていないのがすごく親しみやすいです。それと工人さんへの問い合わせ葉書がついているのもアイデアですね。こけしグッズというのも面白いです。

こうした新鮮なアングルの本によって、こけしの売れ行きがよくなって、どこの産地の工人さんたちも作ることで生活が成り立つようになってくれるといいなと思いました。こけしの中でも幸せなこけしと可哀そうなこけしがあると思います。同じ木から作られたとしても、一方は大事にされ、また一方はないがしろにされてしまうような、、。

すべてのこけしが幸せでいて欲しいと思います。

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懐かしい天気予報

2011-01-16 22:04:21 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1011294 初午向けの招き狐の木地を目標数できたのでひと安心と思ったところ、持病の腰痛下肢痛が出てしまい、寝込んでいました。

最近発見したのですが、YouTbeに子供の頃よく観ていた夜中の天気予報の動画がありました。

影絵作家の藤城清治さん(昭和40年代、ケロヨンの作者としても有名)による影絵の動画によるもので、私が観ていた昭和40年代前半はまだ白黒映像で「銀行協会」の提供だったと記憶しています。

この時代、わが家のTVはまだ白黒で夜寝しなに親の観ていた番組を一緒に観ていました。「特別機動捜査隊」「キーハンター」「木曜日の女」など憶えていますが、夜10時代に東京12チャンネル(今のテレビ東京)で毎日このような天気予報が放映していました。YouTubeの動画はもっと時代の下った昭和50年代のカラー映像ですが内容としては子供の頃観た白黒のものと同じ傾向のものです。懐かしいです。

YouTube天気予報へ→


幸せそうな包装紙

2011-01-05 19:59:51 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1011247 押し入れからでてきた古い包装紙。私の記憶にはありません。

特定な店舗名がないので、お菓子屋さん全般で使われていた既製品の包装紙だったのかもしれません。「お菓子の○○屋」とか「○○商店」とかで使われていたのでしょうか?

「Best Cake & sweet  Candies」 「Bread&Cake」 「パンと生菓子」「和洋菓子」「Thank youVery much」 「各種 ご進物調整」なんてあります。手描きのイラストには「Meijiチョコレート」「新高ドロップ」「森永ミルクキャラメル」「チューンガム」「特製 長崎カステラ」「別製 最中」などいろいろあります。

よくわからないのは「甘納豆」と一緒に描かれている「ピーナット」というもの。「ピーナッツ」を書き損じたのか「ピーナッツの甘納豆」のようなものなのか??? そういうお菓子ってあるのでしょうか?あったら食べてみたいです。

それにしても何とも幸せそうな包装紙。暖かな木琴のメロディーが聞こえてくるような、、。 お菓子の品質など現在のほうが格段にいいのに決まっているとは思いますが、当時のほうが何故かおいしかったような気もしますし、世の中幸せだったように思います。「悲しいときは甘い物を食べるとよい。」とか「甘い物を食べると幸せになる。」という言葉があるように思いますが、、、。

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懐かしの絵はがき

2010-11-20 20:45:44 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1011025 押し入れからでてきました。小学校2年生の夏に現地で買った大阪万博の絵はがきセットです。

あの当時、タイムカプセルというものを地中に埋めて何十年後か何百年後に開けるとかいう話題があったように記憶していますが、今将に41年ぶりのタイムカプセル状態です。

意外なのは、当時リアルな印象があったのに久しぶりの絵はがきを見ると、会場の思い出など自分の中でかなり忘却しているな、ということ。

パヴィリオンによってはかなり長蛇の列で、見学していなかったところもありました。

アメリカ館は粘って見学したことはよく憶えていて、アポロのジオラマのところにあった砂を指に唾をつけて一生懸命ちり紙に集めていたことは鮮明です。

ソ連館には入れなかったような、、。それに太陽の塔の中にも入れなかったのです。その周りの「お祭広場」というところで毎晩アトラクションのようなものをやっていたのはおぼろげに憶えています。一番強く印象に残っているのは「ガス館」の不思議な形の建物とその中にあったミロのオブジェとクレージーキャッツの出てくる映像だったような、、。

エキスポランドという遊園地にペンキで自由に落書きできるところがあったのも印象的。

あと会場周辺にやたら竹林があったのが珍しかったように憶えています。あの辺りはもともと筍の産地だったのでしょうか?

当時旅館には泊らず、山形の叔父の知り合いの人で京都と奈良の間の「新田辺」というところに住んでいらした方のお宅に泊めてもらっていました。駅前に日産の工場があったようなことを記憶しています。

今見るとこの絵はがき、不思議です。どうして模型のイメージばかりなのでしょうか?28枚1組で¥500とは当時としてかなり高価だったのでは、、?2007_0101_000000p1011026

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お訊ねの件に関して

2010-10-05 17:52:05 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1010749 bowさんのコメントのお訊ねに関して。赤羽に「ピクニック」という喫茶店があったか、どこにあったか、ですが、聞いたことがあるような、ちょっとうやむやでした。

昔、赤羽には加盟店で発行していた「あかばね漫歩」という今でいうフリーペーパーというのかタウン誌がありました。

加盟店の店先に山と積まれていて、自由に持ち帰ってよいものでした。

昭和60年代前半の「漫歩」を見てみると、ありました。「喫茶 ピクニック」。場所はOK横丁の文房具屋さんの仲屋さん側(牛丼の松屋さん側)から入ってすぐの曲がり角あたりですね。

ここだと、私は入ったことないです。「あかばね漫歩」ってなかなかローカルでいい味の読み物だったし、地元でこういうものを作っていた頃の町の活気がすばらしかったな、と今になって思います。

ついでに店があったであろう現在の景色を撮ってみました。

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戦前の絵はがき 隅田川

2010-09-17 11:26:37 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1010624 昭和7年「主婦の友」の付録として発行された絵はがきのシリーズのひとつです。どうして今戸焼や今戸人形のことを思うと、隅田川や浅草の風景も気になるのです。

関東大震災後の復興で整備された隅田公園の風景なのですが、この地点がどこなのか?不勉強でいまひとつはっきりしません。

奥に見える橋が何橋であるかで、場所も違ってきます。仮に東武の鉄橋であれば、ここは東岸の北十間川との合流点、枕橋付近だと考えられますが、もし奥の橋が言問橋であるなら、手前は山谷堀との合流点で手前は西岸で今戸であると言えます。左端に渡し舟が見えますが、これは「竹屋の渡し」なのかどうか?


田圃の太夫

2010-08-05 03:42:09 | ああ懐かしき、、

2007_0101_000000p1010582 浅草寺の裏手の浅草田圃のあたりに住んでいたというので「田圃の太夫」と呼ばれていた沢村源之助さん。(何代目だったかは忘れてしまいました。)昭和のはじめにお亡くなりになっているので、伝説の役者さんですが、プロマイドやレコードは残っているので、それらを通してその舞台を空想しています。

今では、直接その舞台をご覧になった、という人はもういらっしゃらないでしょうね。

現在の浅草警察署のある辺りに昔宮戸座という芝居小屋があって、そこで活躍されていたのが特に有名です。女形ですが立役も勤めていて、女形ではこの「切られお富」のような伝法な役がとくに無類だったそうです。立役でも「弁天小僧」なんかよかったそうです。

現在市販されているCDで「三人吉三」のお嬢吉三を聴くことができます。昔、某所で「女河内山」のSPレコードを聴いたことがありました。

「切られお富」にしても、近年そうしょっちゅう上演される狂言ではないのですが、高校生の頃、吉祥寺の前進座で先代の河原崎国太郎さんが演じられたのを観ることができました。国太郎さんは戦前、「お染の七役」の初役のとき、直接田圃の太夫から教えを受けたそうですから、私が観た国太郎さんのお富も「源之助張り」だったのだろうと思っています。素晴らしくて、鳥肌立って、ホクホクして観ました。そのお手本であった田圃の太夫はどんなに素晴らしかったことか、、、、、。「総身の疵に色恋も 薩埵峠の崖っぷち、、」