東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸の狐

2016-01-28 19:35:47 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 もうすぐ初午(稲荷祭)。今年は2月6日(土)です。被官様(被官稲荷様)の鉄砲狐を大急ぎで仕上げているところです。昨年夏場に生まれてはじめての入院ということになって、そのあとも体に無理をしないようにという時期もあり、例年膠の使いづらい夏場こそ型抜きに集中して備える時期なのに出だしが遅れて大変申し訳ないことになっています。

 今戸焼としても今戸人形としても古典落語にも登場するくらいの定番の鉄砲狐です。配色は天保年間以来のもので、赤部分だけは明治以降の赤にしています。本来は赤部分は江戸後期であれば朱色か鉛丹で、明治以降は洋紅とかコチニールとかの顔料、またはスカーレット染料を使うのが定番ですが、スカーレット染料だと膠がパリパリにめくれる心配があるので、代用のもので塗っています。

 彩色としてはシンプルなものですが、狭い作業場で一度に並べることができない数なのでまわしながら色を置いていくという作業がしんどいです。スペースさえ確保できれば、、。しかし数をまわして作業する間、いろいろなことを思い浮かべながら筆を動かしています。まさに、落語の「今戸の狐」を地で行っているという感じ、。「金貼り」「銀貼り」というのは実物を観た事がないんですが、、。

 それとこれは実際の伝説に聞く明治時代今戸で「馬車馬」と呼ばれていたという狐作りのおかみさんの話とか(一日に狐を作る量がものすごいので馬車馬と呼ばれた、という話)とか、、。

 一度に全部を並べて仕事できないので、青いコンテナにしまったり、出したりしながら進めていきます。

画像でちょっと変だな?と思う人があるかもしれませんが、写っている狐がまだ全部が「髭なし」の状態なんです。目と一緒に描き込んでしまうのが合理的なんですが、自分の場合、ひととおり塗り終わってペアリングしてからどっちかを「髭あり」にする、というやり方にしています。というのも「あり」と「なし」が一対一にしなければならないので、余計に髭を描き過ぎたりしないように、またペアのどっちが髭が似合いそうか考えて入れます。

 早く仕上げてお納めに行こうと思います。

落語「今戸の狐」についてはこちら→

「馬車馬」と呼ばれた狐作りのおかみさんの話はこちら→


「昭和枯れすすき」的心情

2016-01-23 19:50:26 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 何というこの侘しい状況。この後大口の素焼き済みのやすりがけや彩色が控えており、その前に型から抜けるだけの数を抜いて、彩色の裏で乾燥させようと思っていました。いきなりプラスチックの籠に詰めるのではなく、まずは抜きたてのものを白木の板や木箱に並べて水気を吸わせながら室内干しさせています。

 水簸にかけて沈殿させ、石膏の吸水鉢で水気を抜いた粘土はしばらく糠漬け用タッパーや発砲スチロール製の箱に密封して寝かせてありますが、そのままでは使えないので、再度取り出して白木の板にブリッジにして水気を抜いたり、練ったりして繰り返します。この季節、粘土も冷たいです。

 そうこうしているうちにカレンダーを覗いたら、こういうことしている時期ではないので、これから片付けてやすりがけや彩色にとりかからなければなりません。狭い部屋だと同時進行できないのが辛いですね。ここでBGMに「昭和枯れすすき」が流れるという感じでしょうか。それとも「船頭小唄」かな、、。


今戸焼(52)角火鉢

2016-01-22 17:31:59 | 今戸焼(浅草 隅田川)

 「何お峯が来たかと安兵衛が起あがれば、女房は内職の仕立物に余念なかりし手を止めて、まあまあこれは珍しいと手を取らぬ斗に喜ばれ、見れば六畳一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持は元来あるべき家ならねど、見し長火鉢のかげもなく、今戸焼の四角なるを、同じ形の箱に入れて、此品がそもそも此家の道具らしき物、聞けば米櫃もなきよしさりとは悲しき成行、、、、」

 樋口一葉 明治27年初出「大つごもり」、はじめから71行目からのさわり。裕福な山村家の下女として辛い奉公をしているお峯が父母亡き後只ひとりの大切な伯父の病を見舞いに小石川初音町に訪ねる場面です。

 「今戸焼の四角なるを」というのが、画像のようなものであったのではないかと思っていますがどうでしょうか。形状としては行火に入れる火鉢にもこうした四角いものがありますが(丸いのが多いですが)、この大きさ(25㎝×25㎝×11㎝)だと櫓コタツに入れるか、または先の本文のようにひとまわり大きな木箱に入れて小さな五徳を置くことはできるのではないかと思います。

広義の「今戸焼」というイメージに含まれるものだと思います。いわゆる「今戸焼」の「黒物」と呼ばれるもの。瓦質です。昔、今戸町内で燃料屋を営んでいらっしゃったお爺さんに聞いた話で、こうした黒物は、その昔松の枝を途中から窯の炉内に投げ込んで、密封させ燻して焼いたもので、松の枝は利根川流域の茨城県岩井辺りから船で運ばれてきて、今戸の河岸で荷揚げされたらしい、、ということでした。また、戦後、葛飾宝町に移住された「白井本家」の「白井和夫」さんから聞いた話では「黒物」は昔、今戸町内に「松本三兄弟」という「みがき」の名人がいた、そうで、木地を那智石とか加茂川石で磨いて黒鉛を塗って焼くのだ、とか仰ってました。

 

 

 

 画像のものは側面に「コロ」で凸凹の装飾がされていて、部分的に白黒のムラのようなものが見られますが、意図的な加飾なのか、単なる焼きムラなのか、、。「橋本」姓の今戸焼屋さんたちが作ったものの中に「村雲焼」と呼ばれる白黒の模様のついた作品があります。一般に「雲華」(うんげ)と呼ばれる加飾にも似ています。この火鉢は近所の古道具屋さん(骨董屋さんではなく)から出たもので小台(荒川区)辺りの旧家から出たものとか聞きました。

 こうした日常づかいの器物が「今戸焼」の製品のひとつで、他にも菊鉢(菊専用の黒い鉢)なんかも「黒もの」のひとつでしょうか。昔の今戸焼屋さんは日常づかいの器物に「今戸焼」というロゴを入れることはありません。一部「茶道具」などに「窯印」、「雅号」「屋号」を入れる例は見られます。例えば「半七」「對鷗斎 橋本三治郎」などです。今川焼に「今川焼」というロゴを入れることもないですね。そんな昔らしい「今戸焼」の器物にはダイレクトなロゴは入っていないのでわかりにくいかもしれません。むしろ六古窯をはじめとして各地の歴史ある焼き物の古いものにロゴが入っているということ自体少ないと思いますし、もし歴史あるものに「信楽焼」、「瀬戸焼」、「越前焼」、「丹波焼」、「備前焼」なんてロゴが入っていたら却って胡散くさいような感じではないでしょうか。

 最近忙しくて昔の「今戸焼」本流のかつての作例を採りあげる機会がなかったので久しぶりですが、興味をお持ちの方は是非この「今戸焼」のカテゴリーの過去の画像もご覧ください。

 

 

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今戸焼とかけて今川焼と解く、、。

2016-01-20 20:05:35 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 「今戸焼とかけて今川焼と解く」 その心は、、、、。

A1:「一字違いです。」

A2:「中身に餡子は入ってません。」

A3:「20分では焼けません。」

A4:「すぐにお持ち帰りはできません。」

 東京の人でも「今戸焼」と聞いて「今川焼」ですか?と答える人は少なくなかったけれど、、。

最近は「ああ、縁結びの2匹くっついた招き猫ですね。」という答えも増えているのはマスコミの力? でもねえ、、それも、、。

「すぐに持ってきて」と言われて「すぐに焼いて熱々を持って行きます。」とは言えないのが実際。それでもこうやって急いで快速特急をめざして型抜きして台所の天井近くの換気扇の上で干しているんですけどねえ。 間に合うかどうか、、。 型抜き→室内干し→天日干し→素焼き→やすりがけ→胡粉塗り→彩色→乾燥→袋がけ→荷造り→納め という段階があるのでそれなり時間はかかります。やっぱり最低でも数ヶ月という見通しですかねえ。


世田谷ボロ市

2016-01-17 10:59:37 | 日々

 昨日1月16日、1月のボロ市の2日目でした。日頃家から遠くへ出かけるという機会がほとんどないので、せめてボロ市くらいは、と思って出かけてきました。神仏具屋さん、臼や杵、俎板などの木工品屋さん、古道具屋さん、骨董屋さん、古着屋さん、植木屋さんなどに混ざって食べ物の露店も並んでいます。自分の高校が「明大前」と「代田橋」の間にあったので、当時から放課後にとなりの「下高井戸」から世田谷線でボロ市を覗きに行っていたものです。

 もう少し若い頃は、お手本にする人形を探すのが目的のひとつでもありましたが、今ではしんどいので役に立つものがあったら、、くらいの気持ちですが昨日も結局2つくらいお手本になりそうなものがありました。(但し、人形の愛好家の人が欲しがるようなものではなさそうなものですが、、。)それよりも昨日の戦利品といえば、古着ですね。あまりヴィンテージとかいった類には興味ないんですが、とにかく3Lサイズなので、洗濯して着まわすものを探してますが、なかなか見つかりません、それと、結構「ドケチ」なんですが新品より安い古着を複数着まわしているほうがいいと思ってます。

 昨日は舶来の大きなサイズの安い古着がたくさんあってラッキーでした。とにかく毎日粘土や泥や絵の具を触っているので、いつのまにか服についているとか、十五夜さんが知らないうちにマーキングしていた、ということもあるので、毎日のように洗濯機を回しているんです。

 ここへ来ると大抵「お好み焼」とか立ち食いするんですが、昨日は「グリューワイン」と「キャラメルクッキー」を食べたくらいですね。陶芸家の人が自作の器を売っているという露店も結構あって、これどーやったんですか?とか聞いたりするものためになります。薪の窯で3日くらいかけて本焼きしているというおじさんが作ったミニカーがあって面白いと思いました。

 世田谷とか杉並、吉祥寺とか、我が家の地域から見るとひとつひとつ豊かさのようなものを感じられるような、そして高校生のころを懐かしく思う気分と相俟って、そして西方浄土のようなイメージで憧れます。


くさのしる

2016-01-15 17:50:53 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 「屁っぴり猿のぴいぴい」本体と鞴笛部分を合体させ、鞴の上板を彩色して完成です。合体前に笛の鳴り具合も確認してあるので、それぞれ鳴声は微妙に違いますが、どれも鳴きます。

 この「屁っぴり猿のぴいぴい」100パーセント原作通りではありませんが、前に記したとおり、「江都二色」(安永2年刊)に描かれているものへのオマージュとして作ったものなので配色もこれなら古典的な色の範疇ではないかと思う色、尚且つ本体と鞴上板の色との映え具合を考えて、古い書物に記されている「くさのしる」という色を作って塗りました。

 「草の汁」という名前なのではじめは植物からの煮出し汁の緑なのかと思っていたのですが、江戸の頃から「石黄」(硫黄由来の黄色で毒性があることがわかり明治の大政官令で人形玩具への使用を禁止された色のひとつ)と藍色(おそらくベロ藍)とを混ぜ合わて出した色らしく、石黄は入手困難なので現在入手できるチント(tint)泥絵の具の黄色とベロ藍を混ぜて色を出しました。藍が強いほうが深みのある色なんですが、ベロ藍は粒子が細かすぎて膠をつなぎに黄色と混ぜても軽いせいか分離しやすいような感じで、いくら重ねてもムラになってしまうので、乾いてみたら藍だけ浮き出たようになってしまうことが多かったため、今回はなるべく藍は少なめにしました。本体に使っているベンガラ(酸化鉄)も癖があって面倒な色ですが藍も面倒です。

 一見ただの黄緑じゃないかと思われるかもしれませんが、今でこそ「きみどり」とか「はだいろ」とかできた色をチューブから出して使うことが多いですが昔は色同士を混ぜて他の色をつくることが多かったのではないでしょうか。昔の人たちの苦労の片鱗?を追体験することができたような気がします、

 干支の猿づくり②「屁っぴり猿のぴいぴい」へ→


同時進行

2016-01-13 07:22:45 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 窯出しした人形をやすりがけして濡れ雑巾で拭ってから胡粉で真っ白く下地塗りをして乾いてから泥絵の具で彩色が始まります。絵の具は粉で買ってあるので、それぞれ湯煎にかけた膠液をつなぎに混ぜて溶き、冷めると固まってくるのでまた湯煎にかけて筆のすべりがよいよう溶かしながら塗りすすめます。

 とりあえず昨夜はお猿さんの茶色部分の一回目ぬり迄。ベンガラ(酸化鉄)は粒子が粗かったり筆のすべりが悪くムラになりやすいので一回塗りだけではきれいなべた塗りになりません。あと3回塗り重ねます。

 お猿の土台となる鞴笛を作ります。2枚の杉板(昔は当然廃材を使っていた)の一方に空気孔をあけているところ。後ろに見えるのは板と板をつなぐためのねずみ色にぬって板の大きさに繋いだ「反故代用紙」。昔は本物の「反故紙」(本当のリサイクル)を使っていたので、それに準じて「代用紙」を使っています。

 鞴状に組み立てたのをストーブ横で乾燥させているところ。

 ぴいぴいと同時進行で王子の「装束稲荷」さまの「招き狐」を型抜きしているところ。このあと多量の鉄砲狐の色塗りを控えているので色塗りの裏で乾燥や素焼きができるよう、今のうちに定数を抜いておく必要があります。

スペースが狭いので片付けながら次の作業をしている様子でした。


初窯(出し)

2016-01-11 02:46:21 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 炉内の温度が70度まで下がっているので空けて窯出しします。昨日焼く前の配置をそのままで撮影してみたのですが、自分でやっていながらも本当に不思議ですね。焼くとこういう赤みがかった土色に変化します。これが東京の隅田川流域の天然土の色のひとつというか、、。流域といってももっと下流とか場所によってもっと赤みの強いところもあるでしょう。みかん色っぽい土色の古い今戸人形もありますから。焼くことでこういう風に色が変わったり、固くなるということは、科学式みたいなもので表されるんでしょうか。(生徒だった頃化学とか力学とか大の苦手でした。)

 取り出して籠に移し、隣の町内の仕事場へ運びます。

 


初窯(入れ)

2016-01-09 19:19:13 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 天日干しした「屁っぴり猿のぴいぴい」「鉄砲狐」「丸〆猫」ほんの少しなんですが、今年の初窯になります。まずは炉内が500度になるまでは、蓋を半分開放させて水分を逃がします。500度を過ぎたら蓋をして800度まで上昇させ、その後ならして自然冷却させます。炉内が100度以下になったら蓋を開けます。あけられるのは明日の夜になることでしょう。


天日干し

2016-01-08 12:03:47 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 先日ほろ酔いで型抜きした「屁っぴり猿のぴいぴい」と「鉄砲狐」。室内干しのあと天日に晒しています。通常だと焼成窯の炉内がいっぱいになるくらいの嵩が溜まらないと素焼きしないのですが、干支の猿ものを来週末までにお納めする約束があるので今回は少量でも素焼きします。型から抜き出した生の状態の粘土をいきなり天日に晒すと割れてしまうのですが、数日室内干しして表面が乾いてきているものだと天日でも大きなリスクではありません。昼は天日、夜は暖房のある部屋の天井近くの棚で干して乾燥させます。鉄砲狐で合わせ目に亀裂が入っているものがありますが、これは室内干しからでているもの。このまま乾燥させて素焼きしてから合わせ目を張り合わせたり、薄美濃紙で上貼りして地塗りして仕上げるのが昔から(昔は反故紙)のやり方です。


Discover Japan 2016 2月号(1月6日発売)

2016-01-06 12:35:14 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 昨年暮れ、日本民芸館展が最終日くらいだったか、出版社からメールがあり、新年に「民芸」というテーマでの特集を準備中でその中であるセレクターの人が「ニュー民芸」というテーマで拙作の人形をとりあげているということ、ついては問い合わせ先、価格を記したいので連絡してほしい由。何の種類の人形であるのかわからなかったけれど、時期的に民芸館に出品したものではないかと思い、いつもお世話になっている青山の「べにや民芸店」さんに相談にのっていただいて、問い合わせ先としてお願いし、また昨年の作品展での価格を基準にお伝えいただくということでお願いしたのでした。

 

 そして今日1月6日発売ということだったので、本屋さんで手にとってみました。

なるほど、拙作の今戸人形というのは「土神輿」のことだったんですね。かつて「Brutus]誌上でも「土神輿」をとりあげていただきました。ぱっと見では動物や人物ではなく「かわいい」という感じではないんですが実際に江戸の末から今戸で作られていて、都内の近世遺跡からも出土するくらい子供の遊び相手てしては親しまれていたであろうものです。

 屋根のところに金泥でみっつ丸が描かれていますね。これ本来だったらどこのお社の祭りかによってご紋が違っているんですが、どこのお祭りに合わせてもいいようにアバウトにしてあるんだと思います。

今戸人形最後の製作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)までは細々作られていました。神輿の本体部分はこの春吉翁の作を手本としてモデリングしています。春吉翁と異なる点は「担ぎ棒」です。春吉翁の晩年のお作では棒通しの孔を空けないで、本体と鳳凰だけで飾るようになっていましたが、浅草橋「人形は顔が命の」「吉徳さん」に伝わっている天保3年の人形玩具の色手本帳である「玩具聚図」の中に担ぎ棒つきの姿が描かれていて、しかも棒の配色までこと細かく指定されているので、棒についてはそのとおりにしたわけです。ちなみに本体や鳳凰の配色については春吉翁のお遺しになったものは、天保3年とほぼ同じで、春吉翁はまさに天保以来の今戸人形の伝統を体得されていたわけですね。そして春吉翁を最後に後継者もなく江戸伝来の今戸人形は廃れてしまった、ということです。

 こどもが大人の真似をして「ごっこ遊び」するのは昔も今も変わらないと思いますが、昔の子供は神輿を担ぐ「いなせ」な大人にあこがれてこうした神輿で「喧嘩」したり「揉んだり」していたのだろうと思いますが、そんならなぜぶつかったり、落とせば割れる今戸人形なんかを素材にしているだろう、というのが不思議ですよね。因みに木製の神輿のおもちゃももまた昔はあったようです。

 すぐ壊れてしまう土神輿。どうしてわざわざこうやって作られ、また消費されていたのか、、、? これは土神輿そのものに関してではありませんが、戦前の郷土玩具関係の雑誌で「鯛車」という愛好者向けのものがあってそのバックナンバーの中に最後の今戸人形作者だった尾張屋・金沢春吉翁を囲んでの座談会を記録した記事があって、その中で翁は「今戸人形は落とせば割れる。その脆さを子供の疳の虫の根が切れるといって喜ばれていたものが、明治になってセルロイドやブリキといった舶来の新しい素材の玩具が出てきてからは、今戸焼は壊れるからダメだといわれるようになった、、。」と話されているんです。つまり壊れることを負の要素とはとらえずに、「子供の疳の虫の根が切れる」というゲン担ぎとしてめでたいと考えられていたということが土神輿の背景にもあるのではないかと思います。面白いですね。

 樋口一葉の「たけくらべ」を読むと、吉原近くの思春期にかかる子供たちの様子が描かれているんですが、子供たちの言動が大人たちへ憧れながらのいなせさを真似しようとしてる感じが表れています。土神輿もそういう子供たちによって遊ばれ、結局壊れて土に還るというものだったのでしょう。

 今回拙作の人形を掲載していただいてありがたく思っています。この本「民芸」大特集でお好きな方必読?な内容なのではないかと思います。

世界が注目するメイド・イン・ニッポンの名品を大解剖

「Discover Japan」 2016 Feburary

ものづくり大国ニッポンは新時代へ

特集 秘訣は「民藝」にありました

世界がなぜ日本の「ものづくり」に惚れるのか?

発行・発売 出版社  定価780円

 

 

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寒中の水簸(すいひ)

2016-01-05 19:07:42 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 「新春寒中水泳」とかニュースで見かけますが、もう本当に頭が下がるというか根性ないとできない、って感じですが、ここのところこの時期の割りには気温がやさしい感じだけれど、天気予報では「もうすぐ本格的な寒波が来る」とか。

 そんなら「やるなら今でしょ。」という感じで寒中に水簸(すいひ)をしています。最初の画像向かって右が「工事現場からもらってきた粘土をふやかし攪拌するバケツ」左は「右で攪拌させたドロドロ(泥しょう)を篩にかけて不純物を取り除き、沈殿させるバケツ」前回作業したのは11月中だったような気がするので久ぶりに蓋をあけるときれいに上澄みの水が見えます。

 左のバケツの上澄みをそーっと抜き取り、沈殿した泥しょうを「第2沈殿バケツ」に移動させ、空にしたところへ右のバケツから篩にかけながら攪拌した新しい泥しょうを溜めて沈殿させます。

 

 沈殿バケツの上澄みを除いて一番濃いところ。風呂用手桶で「沈殿第2バケツ」へ移しているところです。

 そのあと右の「掘ってきた粘土を攪拌させるバケツ」に素手で手を入れたのですが、やっぱり手が痺れる。「寒中水泳」の人との根性の違いを痛感するところ、、。我慢してできないので厚手のゴム手袋をして底の泥を攪拌させ、篩にかけながら左の「沈殿バケツ」に移す動作の繰り返しの末、左のバケツが再びいっぱいになったところ。これで蓋をしておくと明日には水位の10分の一くらいに上澄みが現れるはず。

 「沈殿第2バケツ」の濃くなった泥しょうを空いた石膏吸水鉢に流し込んだところ。室内で吸水ダスターを下に敷いて石膏が泥しょうから吸った水分を吸収させ、毎日「おむつ」のように水を吸収した「ダスター」を替えていきます。しばらくして表面の水気が引いたら、ストーブを焚いている部屋の隅に移し、乾燥を促すと、、、

 粘土っぽく固まってきてクレバスみたいのが走ります。もう少しで鉢から取り出せそうです。来週本格的な寒波が来るまでに、「上澄みの水を除いて沈殿バケツを泥しょうでいっぱいにしておきたいですね。

 今年も結構土を使いそうなので今のうちから使える土をキープしたいと思っています。

 


「坦仔麺」とほろ酔い初作業

2016-01-03 19:06:12 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 正月も3日目。正月らしくないほうが気持ちが安定するので元旦に品川の荒神様へお参りした以外、テレビもほとんど観ておらず、家族の入院する病院へ洗濯物を運んだくらいで何もしていませんでした。テレビは元日の「ウィーンフィルのニューイヤーコンサート」と昨日の「舞台中継」は観ました。何もしなでいながらも「(人形作りを)早くやらないと心配」という気持ちが急かすんですね。

 今朝、三重県で万古焼を家業としている方が仕事場にみえて、ちょっとおしゃべりして拙作のものをいくつかお求めくださって、駅までお送りした直後、急に「坦仔麺が食べたい」という欲求が湧いてきて、行ってしまいました。

 どこの町にも中国出身や台湾出身の人が開いている「中国料理屋さん」「台湾料理屋さん」は何軒かはあるんですが、案外「坦仔麺」を出している店って多くないですね。当然ぐるなびで探すという方法がありますが、電車に乗ってという根性はないです。年末に十条銀座にある台湾料理屋さんで「坦仔麺」として出しているものを食べたのですが、イメージとはちょっと違うような感じでした。

 20年くらい前春休みに勤めの同僚の人と台湾へ行ったことが一度ありました。正確には、私が台湾で「紙銭」とか「替身」とか「年画」とか「民間玩具」のようなものを探しに行きたいと言っていたら、他の同僚の人があんたについていきたい、と言われて、本当に不思議なんですが私が行きたいところへ行くのに皆さんついてきてくださるという体でした。羽田→高雄→台南→台北→桃園→羽田というコースでこれはツアーではなく完全に不思議な移動でした。

 言葉がわからないので日中の重要なところは現地の通訳の人にお願いしてお線香屋さんみたいなところ「糊紙舗」というのか燃やして使う信仰的な飾を作る店とか廟とかばかり廻ってました。一番のメインが台南市内で「米街」という古い街で「紙銭」や「年画」「護符」のようなものをたくさん買いました。たくさん「替身」を買って喜んでいたら通訳のおじさんが「何でこれが欲しいんですか?あなたのような人をガイドするのははじめてです。」とか言われました。たぶん気味悪い人だと思われたのかもしれません。台南は台湾の中で日本の京都に相当するくらい古い街だと言われていて「大天后宮」という台湾で最古の「媽祖廟」とか「孔子廟」と「赤○楼」というところを観ました。近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」の主人公「和藤内」のモデルとなった「鄭成功」の祀られている廟というのもありました。台南で一番感激したのは「孔子廟」の参道でお爺さんが草(藁ではなくて青々した草)を手編みでバッタとか虫を作っていたんです。大喜びで20本くらい作ってもらったら通訳のおじさんが呆れていました。あと市内の糊紙屋さんで日本で言ったら「ねぶた」のような立体的な灯篭風の「替身」と作っていてそれも買ったんですが帰り抱えて帰れないので近所の郵便局からダンボールで荷造りして送りました。糊紙屋のおじさんも不思議そうな顔をしていましたが、自分の作ったものを荷造りするのにとても協力してくれました。 当時、市内を歩いているとお爺さんやおばあさんたちが「何を探しているんですか?どこへ行きたいんですか?」って日本語で助けてくれたんです。本当に親切な人たちにお世話になって、、。

 ここで「坦仔麺」。台南に「度小月」というお店があってお風呂の腰掛みたいな木椅子に座って食べたのが本当においしくて何杯かおかわりしました。あの味をもう一度、、という気分で近所を探していたんですが、赤羽に一軒ありました。見た目も似ていると思います。でも麺が「度小月」とはちょっと違うような?でも食べれてうれしかったです。ついでに紹興老酒を燗にしてもらって他にも食べて飲んで(普段ひとりで飲むということがまずないのですが自分でも珍しく、、。)台南で食べたおいしかったものを思い出しながら、、。「臭豆腐」、「再發號?」だったか大きな中華粽の店のおいしかったこと。「公園路?」だったかという道をずんずん歩いて夜市へ行ったこと。台南から「自強號」という特急で台北へ移動している時車内で駅弁みたいなものを売り子さんが売っていたのもおいしかった。後悔しているのは台南名物「棺材板」という食べ物を食べていなかったこと。東京のどこかで食べられる店があったら、、。

 そうこう思い出しながら5合か6合くらいでそんなに多くはありませんが、普段飲まないので結構効いたのかいい気持ちになって仕事場へ行き、今年はじめての型抜きをしました。はじめての作業がほろ酔いというのは幸先よくないのかどうか、、。でもとりあえず「坦仔麺」が食べられてよかったです。

 

 


元日の朝

2016-01-01 17:28:40 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

 新年明けました。今年もお付き合いご指導よろしくお願いいたします。

昨夜はカウントダウンを待たず就寝したのですが臭くて眠れませんでした。それよりも十五夜さんが心配でした。明けて歩くのは旧・東海道・品川宿です。

目指すは品川千体荒神さま(海雲寺)。昨夜の続きになりますが、焼成窯の手入れをして、やっぱり窯には荒神様ということでお札をいただきにお参りしようと思っていました。東京下町の職人さんの中でも鍛冶屋さんや鋳掛屋さん、飾職人さんなど鞴を使い火を使う人たちの仕事場には荒神様の神棚がお祀りしてあり11月頃だったか「鞴祭り」を執り行う。みかんをお供えしたり隣近所の子供にも配ったようなことを聞いたり読んだりしたのですが、窯業関係の場合は???ちょっとわかりませんが火を使うことには変わりないので荒神様に無事安全をお願いすることで間違いはないかと思います。他に秋葉さまも火伏の神様(秋葉原は秋葉さまのある原っぱで、本来「あきばはら」と読むとか聞いたような、、竹町に秋葉神社があるし、北上野にもある)ですね。それとお稲荷さまももともとは火伏の意味合いで普及したとかいいますね。でも火といえば荒神様?

 荒神様は各家庭の台所の神様でもあるので絶対混んでいると思ったのですが案外ひっそりとしていて安心しました。このお堂貫禄ありますね。信仰の篤さが偲ばれます。おそらく荒神様の大祭が重要で混雑するんでしょうね。

 本堂の裏に見える大きな御幣。裏に京急が走っているんですが、旧・東海道沿いの仏閣って不思議と高架から見えるように作ったかのようにお堂の裏側に目立つものがあるように見えます。

 荒神様のお姿。松明に見立てた丸ランプというのがユーモラス。そして鐘楼の透かし彫、信仰が篤くないとこういうものは作れないでしょうね。

 お札をいただいてついでにすぐそばの品川寺にも寄って、。

 これも立派な濡れ仏のお地蔵様。ここは東海七福神詣でのひとつになっているようで巡っている人がいました。面白いと思ったのがこれ

 この石宝塔もまた豪勢というかかなりお金がかかったんじゃないかという、、。品川の賑わいの現れのひとつといえるでしょうね。亀が背負っているというのが楽しいです。こういう発想って昔の今戸焼の人形に見られるシュールさに通じるものがあるような、、。亀の単体もあれは、亀に浦島さんを乗せるのも納得ですが、亀に狸が乗っているのいうのがあってなんで??ってのを思い出しました。せっかく来たのだからついでにもっと、、とも思ったのですが早々に帰宅して窯にお札を貼って安全をお願いしました。

 みかんは「鞴祭り」を思い出して、ケーキは侘しいながらお手盛りです。ここに鶏の小絵馬を添えたいところです。荒神様といえば鶏。その心は鶏のとさかが炎の形に似ているから。昔の人って面白いことを考えますね。千体荒神様でお尋ねしたのですが、この近辺には現役の際物の小絵馬がないようです。今でも千住の経木絵馬屋さんがあるし、練馬区貫井でも作れれているはず。あと所沢でも作っていて世田谷ぼろ市にも並んでいます。昔溝ノ口でどこのものかわからない経木絵馬を売っている店があって荒神様の鶏もありました。どこで作られていたのか未だわかりません。赤羽にも経木絵馬を売る荒物屋さんがあったんです。

 まずは今年の無事を祈っての初詣になりました。

岩淵(赤羽)の経木絵馬→