東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

赤羽名所⑦ 岩渕の大観音

2013-03-16 22:36:30 | ご近所

P1011102ここの観音様については以前にもとりあげました。日光御成街道(岩槻街道)沿いの宿場であった岩渕に鎮座する観音様で、観音様自体の建立は明治ですが、この近辺では大観音として知られています。以前とりあげた当時は境内にはお堂がなく(私の子供の自分にはあったのが、火事で消失してしまった。)荒涼した感じで境内に小さな児童遊園があり、近所の猫さんたちが入れ替わり立ち代り集まっていたものですが、あるときから整備工事がはじまり、お堂はきれいに建立され、庭の植え込みも以前とは別のところのようにきれいになっています。あまりに立派になって、山門を潜る勇気もなく外からシャッターを切りました。

猫さんたちは今でも元気なのかどうか、、、、。

以前の様子の記事はこちら→


急ごしらえのベッド

2013-03-16 22:24:09 | おともだち

P1011101 先週の末は日中汗をかくほどの陽気でしたが、夕方になって急に暴風が吹き荒れ、駐輪してある自転車等が散乱するなど大荒れの天気に、そしてまた冬の天気の後戻りしていた感じでした。 

 

 確定申告の受付が金曜までだったので自分の分、両親の分と二度も税務所へ出かけ長蛇の列にならんでいたのはあたかも地獄めぐりとはさもありなんという感じを持ちました。

 そして再び週末。今日は安定したいい天気。十五夜さんのために窓際に急ごしらえのベッドをこしらえました。犬さんも好きですが猫さんは特別に日向ぼっこが好きですね。人間にも必要な健康法なのかもしれませんが。


丸〆猫(まるしめのねこ)うなゐの友風

2013-03-15 22:13:29 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

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明治33年発行の清水清風著「うなゐの友」2篇に描かれている丸〆猫の図について長年考えていました。描かれた玩具はすべて清水清風の手元にあったものを観察して描いたものと考えられます。どこかで聞いた話ですが、描かれたものの中には実物が収集家の手元に現存するものもあるそうで、例えば、丸〆猫と同じ2篇の中に登場するこけしなどどこかにあるとかないとか、、。

描かれた丸〆猫は、伝世する昭和はじめの作といわれる10センチくらいのものに構図といい配色といいよく似てはいるのですが、重ね合わせても全く同じというでもなくちょっと違います。

しかし描かれた実物については写真などで残っていると聞いたこともなく、確認できません。

昔の人の描画についてどこまで実在の立体として信用して捉えることができるものなのか?かなりデフォルメされているのかどうか、、?

画像が昨年暮れに試みに画から推定してモデリングしたものです。招く腕の出方や背中から腰にかけてのラインや前膝あたりの張り型も画のようにモデリングしたつもりです。首輪(ひも)はありません。絵の猫は鼻梁も長くなくて豚の鼻のように鼻腔が正面を向いているようです。両目はもう少し寄せて下のほうがよかったかどうか?

P1011097 背面は図に描かれていないので実際わからないところですが、正面の姿と昭和はじめの丸〆猫との折衷式のモデリングとし、丸〆の彫りの〆は立ててみました。

配色についてはよだれ掛けの縁が白緑のような色に描かれていること、朱色よだれ掛けの中を2本の金線(昭和はじめ型では銀線)が走っていることなどを画のとおりにしました。

瞳の表現については画像はあくまで想定で、上瞼だけ描いて上目づかいの瞳をいれましたが、画には下瞼らしき線もあり、上下の瞼を描いたほうがよいのか、あるいは上下の線とも眼のでっぱりを示す線にすぎないのだとすれば瞳だけ入れるという可能性もあります。実際どうだったのでしょう。

鼻腔は画では黒点ふたつでただ鼻腔の孔があるだけで朱を入れていないのかもしれませんが立体の場合朱を入れないとバランスがとりにくいような気がするので入れてみました。手足の爪を表す朱のぽちぽちも画には描かれてはいません。

清風の描いた丸〆猫が実存するならば、どうなのでしょうか?実際をわかるまでは、画像のように想定しているばかりです。

写真ならともかく描かれた画はどれくらいデフォルメされているのか、その匙加減がわかりません。先日日本人形学会のHさんとこれについて話をしていたのですが、後に「うなゐの友」を引き継ぐ西沢笛畝の画になると、描かれているものは、本人の自由な表現のためのモチーフにすぎないようで、画そのものと実物とはかなりかけ離れているのではないか?それに比べれば清水清風に画は資料的には信頼できるのではないかとのことでした。もちろん川崎巨泉くらいに忠実に描いてあるものはかなりの信ぴょう性はあるのだろうと思われます。

「うなゐの友」2篇(明治33年)に描かれた丸〆猫はこちら→


りんごの芽

2013-03-10 09:28:05 | 日々

P1011093 まだ油断はできませんが、厳しい寒さもひとまず過ぎて、春が来ていると実感できる今日この頃です。十五夜さんの部屋も日中明け放ってあげるようになりました。

 物干しのカップラーメンの鉢に芽が出ているのに気がつきました。このあいだには何も生えていなかったのに、、。変な「こだわり」のようですが、食べた果物の種を捨てないで鉢に埋めて置くということをよくやります。この芽は何だったか双葉だけではわからなかったのですが、真ん中に出てきた葉からりんごだろうと思います。種を埋めたのは去年のまだ寒くならない頃だったかと思いますが、水やりしても何の反応もなかったので諦めていたのですが、春の気配を感じて発芽するものなんですね。

物干しにはみつば(昔食べた根っこを埋めておいたもの)、ふじばかまなども芽をふいています。

十五夜さんも物干しに出て外を眺めています。

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80年前の今戸町と今戸焼・今戸人形の状況(昭和8年)

2013-03-08 03:59:06 | 今戸焼(浅草 隅田川)

P1011086最初の画像は昭和8年5月1日に発行された「郷土風景」という雑誌です。この中に山崎荻風という人が今戸町を訪ねて書いた記事があります。あまり図書館など閲覧できない本だと思いますのでお読みになるのもちょっとしんどいかもしれませんが今から80年前の今戸町内の今戸焼屋さんの様子に興味をお持ちの方はお付き合いください。全文記しておきます。

 

「今戸人形    山崎荻風」

 今戸人形と謂へば東京随一の江戸時代から傳はってゐる唯一の郷土玩具ですが、この起源に關しては、斯道の先輩諸氏が研究発表されて居ますが、未だ確たる決定的のことは云へない様です。私が今戸人形を蒐めて居るので、何か是に關する事をとのお話ですが、先輩の皆さんにチト面伏ですが主として現在の今戸人形の実況を申上る事としませう。

 

 今戸焼に就ての、資料としての文献は無といっていゝ位で、口碑にもあまり傳へられて居ません。

 古い所では川柳にあらはれた

 西行と狩人一つ店に住み     寳暦

 狸と今戸新造が土で出来     明和

 西行や鬼を今戸で焼て喰ひ    文政

 西行と五重の塔をほしかため   天明

 これ等の句に依っても、今から二百年に近い時代に於て、相當に今戸人形と云ふ物が名乗りを掲げて居た事がわかります。殊に寳暦の句には、今戸の名が出て居ないのと、明和の句に今戸新造と云ふ言葉の出てゐる事です。この言葉は、後に今戸焼の姐さんの様だと云ふ言葉に成って、今日までも或る一部に使はれてゐる言葉の語源と思はれます。天明の句にも今戸の名は出て居ませんが、其後の川柳には今戸の地名が今戸人形の代名詞となって居ます。西鶴に今戸人形のことが出てゐると云ふ事ですが、私は未だ調べませんが、出てゐるとすれば、元禄まで遡ぼる事になります。とに角、永い時代に多少の盛衰は有ったとしても、その永い年代小供を引付ける何物かゞ有ったのでせう。玩具にも親が買って與える物と、小供自身が買ふ物と二種ありますが今戸人形は後者の方でそれ程安い物で有ったのでせう。古い物が今日殘ってゐないと云ふ原因は破壊されやすいのと、一つには、是れを破壊す事に依って疳の蟲の根を断つと云ふ俗信から親達もそれを止めなかったと云ふことです。其當時としては、保存や出典など問題に仕てゐなかったのでせう。系統は伏見と云ふ事は確實の様ですが、獨立した玩具専門の家が有ったかどうかと云ふことは、疑問です。専門の土器類製造の傍ら、作られたといふ事が實際の様です。その永い命脈を保ったことに就ては、種々の原因も有りますが、主として時代の動きに依って製作品に變化が有った事です。この目先の變った作品に、小供達は引付けられたのでせう。「風流今戸人形」と云ふ略畫の本に依っても、時代に風俗を採り入れたと云ふ事を好く知る事が出来ます。明治の初期には、南京さんや西洋婦人なども出来てゐます。とに角一口に一文人形と云はれた位ですから大きな物も無かった様です。玩具では有りませんが、猫の火入などが大きな方です。これから變化した一種の實用品です。それから今戸人形と云ふと、今戸ばかりで賣って居た様に思ふ人もある様ですが、江戸市中の玩具屋を始め、俗に番太と稱する店で駄菓子ともに賣って居たので、今戸では卸賣が主だったのです。

 今戸焼が如何に盛んであったかと云ふ事は、今戸八幡宮に現在して居る、社前の狆狛一對に彫まれてある文字に依って知る事が出来ます。それには寳暦二壬申年奉納、當町火鉢屋中、向(ママ)井善次郎外十五名、土器屋中、岩本多郎吉外二名、焙烙屋中、中島伊之吉外十五名、世話人、金澤喜太郎外五名、總計四十一名の連盟が彫付けられて有る。こゝには略して外幾名と記しましたが、四十一人の姓名が一人一人印されて居るのです。此内現在殘って居るのは金澤と白井鈴木だけですが、鈴木は臺石には二名有るので其何れかは不明です。殊に屋號を用ひず、四十一名がことごとく姓名を名乗って居る點です。これ等も研究に價するものと考へられます。尤寳暦二年奉納、文化五年再建と記して有りますが、尾張屋の家系に依って先祖を喜太郎と云ひ松五郎、竹次郎、政五郎、春吉となって居ます。現在は春吉翁の代で今戸に殘された唯一の玩具製造人です。

 幕末から明治にかけて多少盛衰が有った様ですが、それでも十年頃までは盛んだったので、その後ゼンマイ物や、ブリキ物の出現と共に、有毒な塗料が用ひられて居る事などが原因して二十年頃には全くの廢滅の形で。四十年に至って、いよいよ製造中止の悲運に到達して明治時代は過ぎたのです。

 現在の今戸泥人形は凡五十種位あります。種類は別表の通りですが、これは皆大正十五年以後復興再製されたもので、それも金澤春吉一軒きりです。現在今戸には八基の竃がありますが、人形を燒く竃は金澤一軒で他は別表の如く實用品のみです。此外鐵砲狐を作る加野トクといふ、文久元年生れの今年七十三才のお婆さんが今戸三ノ十二に居る同じく狐を作る鈴木タツさんと云ふ若いおかみさん。此外には玩具を作る一人も居ないのです。それでも狐だけは、流石に信仰物だけに中止した事は無く今日に至ったので、今でも二軒で一ヶ月平均二千五百位は作られる、おとく婆さん一日四十個は作らないと云って居る。此年で型から仕上げまで一人でぽつぽつこしらえて居る。此人達の家も昔は人形を作って居たのです。寒紅の牛や玉姫稲荷の入口狐は鈴木で作って居る。土は四ツ木、又は龜有方面から買ふので、現在では十貫目六十錢位、燃料は松槇を用ひる事は云ふまでもないが、おとく婆さんは七輪釜で炭で燒て居る。明治の末期におみよさんと居ふ狐の型抜の達者な女があって、一日に千個以上も型を抜いたと云ふので仇名を馬車馬と云はれた當時の話から、現在の製作數は百分の一だと云って居る。狐は別として信仰方面の物に柳森の親子狸天神様、浅草観音の土鳩、月見兎、佃の祭に賣られた獅子頭、變り狐では玉姫稲荷の口入狐、黒助稲荷の羽織狐等がある。鐵砲狐の販路は赤坂の豊川稲荷、王子の稲荷が主で、型は昔は土型を用ひたが今は石膏型ばかりです。

 現在の今戸人形は大凡こんな状態ですが、尾張屋の金澤春吉老人も六十餘歳ですから、後繼者の無い今戸人形の将来は心細い次第であります。話が前後しましたが、一時中絶された今戸人形が如何なる動機に依って、復活再興せられたかに就て申上度いと思ひます。

 大正の末、今戸に人形を作って居る家が有ると云ふ事を聞いた銀座の岩松君は、話のみに聞て居た江戸時代の今戸人形が懐かしいあまり、或日今戸を訪づれた。ようやく尋ね當たのが現在の金澤春吉老人だったのです。其頃店に有ったのは福助さんと達磨さん位で外には玩具は無かった相です。だんだん話して居る中に、型は地に埋めて置た事や、震災にも型は堀出さなかったが完全に残されて居るだろう等の話を聞かされた。其後度々老人を訪ねて人形の復興を進めました。其頃春吉老人の話に明治四十年頃迄は千葉方面八日市、多古等へ荷を送って居た事を聞いたので、岩松君わざわざ多古まで出かけて、土地の白井商店と云ふ家で天神様、土雛、姐さまや泥面其他の今戸玩具を手に入る事が出来たのです。この熱心さに動かされて型の發掘となり、其後一年の後に出来た物が今日の今戸人形復興の最初の製作品と云ふ物なのです。當時關君も盡力されて第一回頒布を催しました。當時は三十餘種で其後實物の發見された物には原型作りなどして今日の五十種程に成ったので、これと前後して趣味家の後援により、完全に復興された次第なのです。一部の人は春吉老人が自分が繪がかける事が災となって、博多人形式に成ったと難ずる様ですが、春吉老人としても本格的の物を作り度い気持は持って居るのでせうが、時代の變化も考えてやらなければなりますまい。只型を毀さずに地下に保存して置た事と長生をしてゐた事が何より幸福で有ったとせねばなりますまい。

 現存せる竃

 井上兼太郎      一、七輪の枠鉢

 橋本元太郎      一、藥風呂(ママ)

 白井善次郎      一、藥風呂(ママ)鍋類其他

 白井幸太郎      一、茶風呂(ママ)

 橋本柳太郎      一、黒物

 藤間  政男     一、庭物ー鉢

 白井  半七     一、使用せず

 金澤  春吉     一、人形

 

今戸人形の現存せる物

 口入れ狐ー二種     狐  馬     猫  抱

 黒助狐           狐の子守    小姓馬

 下總雛大小二種     大縞小僧    獅子持

 一文雛内裡様二種    角  力     狆

 一文五人噺(ママ)    獅子頭     羽衣狆

 馬              かしろ(ママ)  餅つき兎

 犬              おいらん     月見兎

 狐けん           みこし      煙草のみ達磨

 虚無僧           親子狸     客寄せ狸

 加藤の虎         羽根持娘    おけいこ

 加藤の馬         春 駒      鐵砲狐

 丸〆猫ー三種      柴又猿      異 人

 山王猿          ぶんぶん    天神様ー三種

 龜持ち小僧       子抱ー大小   鯛持ち小僧

 三寳狐          河童        官 女

 火入猫          花持女      火入おかめ

 布袋

 

P1011087本文は以上です。なるべく原文とおりの仮名づかいで漢字もそのままに表記したかったのですが一部変換のやり方がわからず、仕方なしになっている部分もありますが悪しからず。

それにしても当時の愛好家の熱意によって調べたり記述された内容が今日このように読むことのできる有り難さ。当時の今戸町、特に今戸焼や今戸人形の状況について知っている方もほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。その点でこのように文字化されて残っていることが貴重だと思います。

 読んでみて本文と別表との内容に矛盾があるなどしますが、それでも当時の状況を記述してあるのはすごいと思います。

 今戸八幡と記されているのは現在の今戸神社。隣地亀岡町の白山神社を合祀されたのが昭和12年のことなので、昭和8年当時はまだ八幡さまでした。縁結び云々の材料は当時まだ存在しなかったわけで、最近のような大ブレークは戦後もかなり末、バブル期頃火がつけられたものではいかと考えられます。

 当時今戸町内には8基の焼成竃が残っていた。(白井半七家は震災で被災後、関西の宝塚に移って製作したと言われているので、「現存せる竃」の項にある「一、使用せず」という表記は既に宝塚に移っていたという解釈なんでしょうか?今戸で製作した最後の半七は7代目で、昭和8年に亡くなっていたように読んだように思います。

白井家が3軒表記されていますが、、、

白井善次郎が本家で戦災後には葛飾へ移住しました。白井半七家は善次郎家からの分家。白井幸太郎家は現在今戸で製作を続けていらっしゃる白井さんの御先祖で江戸末に善次郎家から分家しました。そのため今戸神社に残る宝暦二年の狛犬台座には刻まれていません。白井本家善次郎家の「藥風呂」とあるのは「釉をかけて燒く製品や土風炉などを指しているのでしょう。白井幸太郎家の「茶風呂」は茶道具や土風炉などの製品という意味でしょう。当時昭和8年にはまだ白井家本来の家業である実用品や茶道具製造を行っており、戦後の招き猫のような土の人形はやっていなかったはずです。「黒物」とは瓦質に燻した製品や黒磨きなどを指すのでしょうか?

当時焼成窯をもって人形を作っていたのは尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のみとありますが、七輪で炭で焼いていた加野トクさんと鈴木タツさんの二人を加えても、昭和8年当時土人形を今戸町内で焼いていた作者は3人しかいなかったのですね。しかも加野トクさんと鈴木タツさんについてはその後の消息については全くわからずにいます。何か記録されて文献などあったらお教え願いたいものです。いずれにしても、尾張屋・金澤春吉翁の後に江戸明治と伝承された人形作りに携わる人がなく、昭和19年で江戸伝来の今戸人形は廃絶してしまいました。

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ご参考までに

旧今戸八幡の宝暦二年建立の狛犬(阿型)銘文についてはこちら→

旧今戸八幡の宝暦二年建立の狛犬(云型)銘文についてはこちら→

当時の今戸人形作者3人のうち

加野トク(柾木稲荷狐?他)についての記事はこちら→

 

鈴木タツ(口入稲荷狐)についての記事はこちら→

 

鈴木タツ(寒紅の丑)についての記事はこちら→

 

鈴木タツ(口入稲荷のおはらごもり)についての記事はこちら→

 

尾張屋・金澤春吉翁については「今戸人形」のカテゴリーで複数とりあげています。→

 

 

 

 

 


急なお知らせ

2013-03-03 21:47:07 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010006先にお知らせしていた1月25日放送予定だったNHK総合テレビの「1と6けん」という番組で取材いただいた件ですが、当日テロ事件の緊急報道のため、放送が延期という知らせを受けていましたが、本日NHKより連絡があり、急ですが明日3月4日(月)に放送されることになったそうです。番組自体は午前11時のニュースに続いて始まりますが、件の内容は11時30分頃の予定だそうです。もしもまた急な事件や事故が起これば前回のようなことになるかもしれませんが、その場合はまたの機会だということです。


お参り

2013-03-01 19:39:48 | 日々

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昨日は2月28日で今日は3月1日。今戸焼土人形の最後の作者、生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年から昭和19年)のご命日は2月29日で、今年の暦にはありません。昨年暮れにお亡くなりになられた春吉翁のお孫さんの武佑さんと春吉翁を今日お参りさせていただきました。春一番が吹いて、ご墓所の花立てにお供えされたお花やしきみが風でぬけて落ちていたりしましたが、お掃除させてもらい、お花とお線香をお供えしてお参りさせていただきました。お寺の境内の紅白の梅も花開いていていつの間にかの春なんだな、、と感じました。お寺のシベリアン君にお目にかかるのも久しぶり。秋のお彼岸以来ではなかったかと思います。冬場は寒いので屋内にいたように思います。

今日は上着で歩いているだけでも汗をかきそうな陽気でした。

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