形状から柄の部分をひょっとこの口に見立ててこう呼ばれるのでしょう。「火おこし」と表記されていることもあります。
火鉢を使う際、豆炭や練炭を本体の受けに入れ、そのまま火鉢の灰で周りを埋めて使用するものなのだそうです。柄の部分は管状になっていて空気を送り込むことで火力の調節をしたそうです。柄の先に蓋のついているのもあったようです。
私が小学校にあがる頃までわが家にも「るりなまこ」の釉のかかった大ぶりな火鉢(おそらく三州製?)が現役でした。
とは言え、幼い私は火の管理を許されなかったし、火鉢の扱いを余り意識していませんでした。
ことにこうした素焼きの道具は使った憶えがないので、実際に使っていたうちの母にも聞いてみたのですが、もし火鉢の種火がまだない場合どうやって点火させるのか、、?炭を七輪なんかに置いて火がついたらひょっとこに移して、そのまま火鉢の灰に埋めるのだ、という答えだったのですが、一般的にはこれでよいのでしょうか?ご存じの方、お教えください。 こういうのって、経験した人じゃないと、、、。
現在の台東区入谷2丁目(旧光月町)。言問通りと金美館通りの間、区立大正小学校(まだあるかどうか?)の近くに浅草太郎稲荷が鎮座しています。
小林清親による明治の風景画にも描かれています。また樋口一葉の「たけくらべ」にも出てきたように思います。
ここはもともと九州柳川藩立花家の下屋敷だったところです。上屋敷は春日通り沿いの東上野のところにあり、現在、ここ浅草太郎稲荷と東上野の太郎稲荷とふたつあります。
このお屋敷の中にお祀りされていたお稲荷様が疱瘡に霊験あらたかという噂が江戸中に広まり、流行神のひとつになりました。本来お武家さまのお屋敷の中を一般町人の出入りはできないところを、鑑札を与え、制限付きの出入りができるようになった、またそのことで藩の収入の足しにもなっていたとのことです。 維新後に描かれた清親による風景はお屋敷の隆盛のあともなく人少ないものさびしい景色ですが、地元に限らす、広い地域からの参詣があったのでしょう。
画像の今戸焼の狐ですが、詳しい作者や年代はわかりません。ただ言えることは、台座に塗られている赤は明治中期以降のものであろうということです。震災前くらいまではあったのでしょうか?有坂与太郎の著作には現役のものとして述べられていないと思います。武井武雄の「日本郷土玩具・東の部」でも過去のものとして記述されていたように思います。
現在の浅草太郎稲荷へお詣りすると瀬戸もの製のお稲荷さんが奉納されています。
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最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。
この人形は手が込んでいて、馬と狐それぞれを別々に型抜きして成形してから組み合わせてできています。馬の部分だけ単体で仕上げた人形もあります。
春吉翁作の狐の人形の面描きですが、狐拳・子守狐・口入稲荷狐・羽織狐・三方狐・鉄砲狐の極く一部は鼻と口を描き分けていますが、鉄砲狐そしてこの狐馬は一点で省略しています。狸の人形と共通していますね。これはどんな意味があるのでしょうか?
狐馬の人形は都内の近世遺跡のあちらこちらからかなり出土しており、人気のある人形だったのではないでしょうか?また、作者も複数いたのかもしれません。
「狐馬」という言葉の意味ですが、、、
「狐馬」とは、「狐に馬」もしくは「馬に狐」を略したことわざ。そのことわざは「馬の背に狐を乗せたよう」もしくは「狐の背に馬を乗せたよう」を略したもの。狐が馬に乗っているところから「落ち着きがないこと。言うことが当てにならず、信用できないこと」。狐が馬を化かして背に乗っているのか、もしくは狐がたぶらかされて馬の背に乗っているのか。すまして、でも居心地悪く馬の背に乗る狐。前を向いて、しかし不安に狐を乗せる馬。はたから見るとふらふらしていて危なっかしいけれど、何やら滑稽でもある。(以上はよそのページから引用させてもらいました。)
とあり、皮肉なモチーフで江戸っ子好みだったのかもしれません。春吉翁によるこの人形でもまた配色といい、筆の穂先の美しい面描きといい洒落たものだと思います。
本来今戸焼の土人形に限らず、全国の土人形の産地では「十二支」の干支ものを揃えて作るとか、縁起ものとして干支の人形をひととおり集めるとうことはそれほど盛んではなかったのではないかと思います。そのためどこの産地にも十二支が揃っているということでもなく、今戸の古典にもそれらしいものは確認できません。「狐もの」のくくりとしては今戸の狐のバリエーションは多く、春吉翁以前の時代にはより多くの種類があったという近世遺跡からの出土品の例が少なくありません。しかし、今戸の古典的な馬の人形に限ればいくつもあり干支の馬として拾えば、多いかもしれません。この「狐馬」はその代表的なものと言ってよいほど昔からポピュラーなもののひとつだったと思われます。
この記事はだいぶ以前にアップしたものですが、急ブログサイトの閉鎖と引っ越しなどにより埋もれていたものを虫干しのためサイドアップしたものです。
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画像の狐の土人形については確固とした裏付けもなく、100パーセントの自信がないので、タイトルにも???をつけました。
最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の他に、実際には戦前まで今戸で代々今戸人形製作に当たってきた作者が2人いたことが記録されており、「鈴木 たつ」とならんで旧・浅草区今戸町3丁目にいたといわれる「加野 とく」についても触れてみたいと思います。
有坂与太郎による戦前の記述に出てくるのですが、この人たちの生年等詳しくは記録されていませんでした。
別に戦前の「郷土風景」という雑誌のバックナンバーの中に「昭和8年5月号・第2玩具号」というのがあり、その中で山崎荻風という人が「今戸人形」という記事を書いています。この中で尾張屋・金澤春吉翁に関する内容とともに「此外鉄砲狐を作る加野トクといふ、文久元年生れの今年七十三才のお婆さんが居る。同じく狐を作る鈴木タツさんと云ふ若いおかみさん。此外には玩具を作る人は一人も居ないのです。それでも狐だけは、流石に信仰物だけに中止した事は無く今日に至ったので、今でも二軒で一ヶ月平均二千五百位は作られる、おとく婆さんは一日四十個は作られないと云って居る。此年で型から仕上げまで一人でぼつ々こしらえて居る。此人達の家も昔は人形を作って居たのです。寒紅の牛や玉姫稲荷の入口狐(ママ)は鈴木で作って居る。土は四ツ木、又は亀有方面から買ふので、現在では十貫目六十銭位、燃料は松槇を用いる事は云ふまでもないが、おとく婆さんは七輪釜で炭で焼いて居る。明治の末期におみよさんと云ふ狐の型抜きの達者な女があって、一日に千個以上も型を抜いたと云ふので仇名を馬車馬と云はれた當事の話から、現在の製作数は百分の一だと云って居る。・・・・・鉄砲狐の販路は赤坂の豊川稲荷、浅草の被官稲荷、王子の稲荷等が主で、型は昔は土型を用いたが今は石膏型ばかりです。」と記されています。
もう一度有坂与太郎による著述に戻ると、「土直事するがや惣三郎が利助の亡後、その妻を娶り、佐野屋と号し娘に業を伝へてゐる事(鉄砲狐専業)」とか「現在の(狐の)生産者は今戸に土直の末葉、佐野屋加野トクと、あぶ惣の後裔鈴木たつ、向島に井上了斎(ママ)と由縁のある福田重太郎の三人を数へるのみである事は、これらの需要が如何に低減されてゐるかゞ判るであらう。」(以上郷土玩具大成・第一巻東京篇 昭和10年より)とあり、加野とくが「文久元年生れ」で「佐野屋」という屋号であったこと、父が、「土直事するがや惣三郎」であることがわかります。
しかし前記の鈴木 たつもまたあぶ惣の末裔とあるので、どうなっているのでしょうか?さっぱりわかりません。
しかし昭和8年の時点で今戸町内で人形を作っていたのは尾張屋・金澤春吉翁と鈴木 たつと加野 とくの3人のみしかいなかったこと。昭和10年の時点で奉納狐を作っていたのが、向島の福田重太郎と今戸では鈴木 たつと加野 とくの2人と尾張屋春吉翁(実際作っていた)の合計4人ということになるわけですね。
加野 とくが作っていた狐の種類については、上記の有坂与太郎の著作からだと昭和10年時点で、鉄砲狐、深川区常盤町所在・柾木稲荷の狐、下谷区上野公園五条天神社境内所在・花園稲荷金狐と記されています。
白黒写真があって、柾木稲荷の狐については「これは狐が跼居しているだけで、台を設けてゐない。些か大形である。」花園稲荷金狐については「鉄砲狐の型を其儘縮小したもので、金色、初午に出される」とあります。
画像の狐ですが、うしろの2対は面描きが白黒写真とちょっと違うようなのですが、柾木稲荷の狐ではないかと思います。手前の「向かい狐」の一対は記述にも白黒写真にもありませんが白黒写真の柾木稲荷の狐の面描きとよく似ているので、加野 とく作のものではないかと思っているのですがどうでしょうか?今戸以外のよその地域の狐については皆目わからず、案外これが他所の狐であるという可能性も無きにしもあらずという感じも否定できません。富山だとか関西方面だとか、、。ご存じの方いらっしゃいませんか?作りとしては今戸っぽいと思うのですが勇み足?
画像の柾木稲荷の狐?と思われる狐ですが、胡粉地の上にきら(雲母粉)を塗ってあります。また手足の辺りに朱か丹の摺り込みが見られます。天保年間の人形玩具の配色手本には、猫など白地の動物の今戸人形の手足や人物を含め眼の周りなどにも朱や丹の摺り込みの指示があるものがあり、符合するように思われます。
上記の花園稲荷金狐については今戸人形のカテゴリーの「落語 今戸の狐から」という記事の画像にそれらしきものがありますので、お時間ありましたらご覧ください。
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うちのワンちゃんといつも通り過ぎる道すがら、気がつかなかったのがこの現状。
この花、「エンゲルストランペーテ」というんだと昔ドイツで習った憶えがありますが、大きくなるんですね。すっかりボックスに凭れかかっています。ここから電話をかけるのも面白そうです。
この花、はじめて見た時、「華岡青州の妻」に出てくる「チョウセンアサガオ」によく似ているな、と思ったのですが、同じ仲間なのではないでしょうか?そうだとすれば、結構毒があるのかもしれません。「チョウセンアサガオ」の実は小説の中でも麻酔に使うくらいで、薬効もある代わりに結構毒だと聞いたような、、、。
この「トランペット」の花、昔はあまり見なかったような、、。この数年ではないでしょうか?はじめて見たのは10年以上前にドイツで見ました。
面白いのはデザートの「ティラミス」も日本でもう何年も前からどこでも売ってますが、それ以前はコンビニなんかで売っていなかったような気がします。はじめて食べたのはやっぱりドイツの友達の家。「モッツアレラチーズをトマトに挟んで食べた」のも然り。
やっぱり流行というのは西風と一緒に吹いてくるものなんでしょうかね。
角火鉢と呼んだらよいのか、行火の鉢というべきか、、?口の外側一辺が27センチほどあります。
使用されて、かなり傷みもし、汚れていますが、今戸焼でいうところの「黒もの」の仕上げであることはわかります。
ただし、こういう瓦質のものは、今戸以外にも全国各地で作られていたかもしれず、今戸で焼かれたものであるとは断定できませんが、こうしたものが、今戸でも焼かれていたと考えてもよいのではないでしょうか?
少なくとも、昔の東京のお年寄りに見せれば、今戸焼と呼ぶものの範疇には入るものでしょう。これ自体は群馬県内の民家から出たものだと聞いています。
思い出すのは樋口一葉 作 「大つごもり」(明治27年)の上巻のはじめに出てくる、おじさんの家の様子を描写したところです。
「何お峰が来たかと安兵衛が起き上れば、女房は内職のした仕立物に餘念なかりし手をやめて、まあ々是れは珍しいと手を取らぬはかりに喜ばれ、見れば六畳一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持ちはもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸焼の四角なるを同じ形の箱に入れて、これがそも々此の家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、さりとては悲しき成りゆき、」とあり、「今戸焼の四角なる」ものを長火鉢の代用にしているというのは、こうした形状のものではないかと想像しているのですがどうでしょうか?
灰をならした上に五徳を置いて使っているのでしょう。そのためには、深さが足りないような気もするのですが、もっと深い造りのものもあったのかどうか、、。
あくまで想像の域でしかありませんが、そういう使い方ができなくはないかと思っています。
裏底には「消し壺」や「土風炉」同様、半球型の足がついています。
素焼きした木地を仕事場へ少しずつ運んだり、夏に使った割型を片づけたりしているところです。
このところ茶ぶちさん親子がよくやってきます。
十五夜さんに見なれた眼で見ると、ふたりとも体の大きなこと、、。そして辺りを威圧するほどの貫録に改めて感心してしまいます。さすが街の猫さん。
手前が茶ぶちさんのお母さん。奥で簾の子で爪研ぎしているのが娘。娘さんは今年で2つだったか3つだったか、、。生れて間も無い頃、お母さんがまだ小さかった娘さんを咥えて、この部屋のキャンバスの隙間の迷路へ置いていったことがありました。ここなら安全だと思ったのでしょう。作業中なら一向に構わないのですが、部屋を施錠しなければならない時にはよく困ったものでした。今はもうお母さん以上に大きくなってしまいました。鼻の横にぶちがあるのが特徴です。性格はお母さんほどには積極的ではなくて、とてもきれいな声をしています。
ふたり並んでみると「ザ・ピーナッツ」か「リンリンランラン」?というよりこの貫録だと「こまどり姉妹」といったところでしょうか?しかし親子です。