
東京ラーメンといえば荻窪ラーメンであり、荻窪ラーメンといえば名店数あれど、やはり春木屋、というのが良識あるラーメンファンであればおおかた認めるところだろう。かくいう私もなんどかそのラーメンを食したことがある。麺、スープ、具のそれぞれが絶妙のバランスで配されており、さすがである。上品で奥行きのある、そして見識の高いラーメンと認めざるを得ない逸品であった。また店の雰囲気もなごやかではあるがやや道場めいており、作り手と食べ手が真剣勝負している風情もまた、厳しくも清々しい。
さて、先日前を通りかかるとなんとつけ麺の文字がある。いままではなかったんだが、どうやら始めたということでこれは文字通り素通りするわけにはいかない。
もちろん頼んださ。しかも大盛りさ。昨日さる女性に「炭水化物を取りすぎるから太るんです」と懇々と諫められたが、すいません内藤さん、大盛りで。これからは自重します。
さて、このつけ麺だが、大盛りだと驚くほど大きい皿に麺が盛られていて驚く。麺はラーメンの麺と同じだろう。完成度の高い、しかし昨今のようなわざとらしさのない、非常に質の高い上品な美味しい麺である。スープはやや濃厚で脂分があるがさっぱりしており、酸味も加わっている。春木屋のラーメンスープのエッセンスを凝縮したかのようなできあがりで、これまた見識の高さを感じさせる。
この麺にスープを浸して食べると、たしかに抜群のバランスで実に美味しい。本当に美味しい。
しかし。この完成度の高いつけ麺を食べて私は、なぜか物足りなく思ったのだ。抜群に美味しい。それなのに、はたと思った。つけ麺とは、このようなバランスと完成度をめざすモノなのか。むしろ、ラーメン界の(どんな世界だ)異端児として生まれたつけ麺とは、つねに前衛であるべきモノではないのだろうか、破綻を怖れずに虚空に弧を描いて飛び去るべきアートなのではないのか(そんなわけはないが)。すでに出来上がった権威をアレンジすることで、つけ麺はその価値観を完成させてはいけないのではないか。
まるでトロツキーの永久革命論のようになってしまったが、ここまで思索を深めさせるつけ麺である春木屋のつけ麺は、やはり出色の出来であり、<★★★★☆>と★4つを与えるべきだろう。もちろん誰かが★5つの満点をつけても、私に文句はない。つけ麺に深い造詣を持たない友人を誘うのなら、間違いなく春木屋であることは他言を待たない。しかし、しかし、ほんのすこしだが、暴力的で破壊的なつけ麺の「何か」が私には足らなく思うのである。つけ麺とは、なぜか味覚の前衛でなくてはならないのだ(となぜか私は確信する)。


さて、先日前を通りかかるとなんとつけ麺の文字がある。いままではなかったんだが、どうやら始めたということでこれは文字通り素通りするわけにはいかない。
もちろん頼んださ。しかも大盛りさ。昨日さる女性に「炭水化物を取りすぎるから太るんです」と懇々と諫められたが、すいません内藤さん、大盛りで。これからは自重します。
さて、このつけ麺だが、大盛りだと驚くほど大きい皿に麺が盛られていて驚く。麺はラーメンの麺と同じだろう。完成度の高い、しかし昨今のようなわざとらしさのない、非常に質の高い上品な美味しい麺である。スープはやや濃厚で脂分があるがさっぱりしており、酸味も加わっている。春木屋のラーメンスープのエッセンスを凝縮したかのようなできあがりで、これまた見識の高さを感じさせる。
この麺にスープを浸して食べると、たしかに抜群のバランスで実に美味しい。本当に美味しい。
しかし。この完成度の高いつけ麺を食べて私は、なぜか物足りなく思ったのだ。抜群に美味しい。それなのに、はたと思った。つけ麺とは、このようなバランスと完成度をめざすモノなのか。むしろ、ラーメン界の(どんな世界だ)異端児として生まれたつけ麺とは、つねに前衛であるべきモノではないのだろうか、破綻を怖れずに虚空に弧を描いて飛び去るべきアートなのではないのか(そんなわけはないが)。すでに出来上がった権威をアレンジすることで、つけ麺はその価値観を完成させてはいけないのではないか。
まるでトロツキーの永久革命論のようになってしまったが、ここまで思索を深めさせるつけ麺である春木屋のつけ麺は、やはり出色の出来であり、<★★★★☆>と★4つを与えるべきだろう。もちろん誰かが★5つの満点をつけても、私に文句はない。つけ麺に深い造詣を持たない友人を誘うのなら、間違いなく春木屋であることは他言を待たない。しかし、しかし、ほんのすこしだが、暴力的で破壊的なつけ麺の「何か」が私には足らなく思うのである。つけ麺とは、なぜか味覚の前衛でなくてはならないのだ(となぜか私は確信する)。


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