ほぼ週刊イケヤ新聞ブログ版

コピーライター・ミュージシャン池谷恵司の公式ブログです。
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渋谷KOKOのセッションに参加し、ついに歌うもラッパのソロで大反省するのであった。

2010年03月05日 12時46分38秒 | 原朋直トランペットレッスン講義ノート
数日前、渋谷のkokoのセッションに出かけた。
正直言って最近はラッパよりピアノの和音の勉強に重きを置いていて、
ラッパ的にはいい調子ではなかったんだが、
友人のT澤さんに誘われて、勇気を出していってみました。

ラッパ人前演奏、今年初で戦歴「1」です。

ここで、勇気を振り絞り、人生の目標の一つ
「ラッパと歌」っていうのをかましてしまい
非常に有意義でした。

とはいえ、録音を聴くと、むしろラッパより歌の方がよかったぐらい。
インプロビゼイションが、なんというか、バラバラで、
人生で何千回演奏したかわからないようなブルースで、
場所を見失ってしまいました。
反省です。

さて、反省しているうちにNHK教育のスーパーピアノレッスンを見ていて
プーランクに作品をものすごく情熱的に教えている先生を見て笑ったんだが
(どうしてクラシックの先生は演奏中にものすごく大きな声で指示するのか?)
プーランクを調べていたら、自分のソロのまずさみたいなことが
書いてある気がして驚いたのだった。
wikipediaのプーランクの記述より引用します。

どちらかというと熟考型の作曲家肌ではなかった彼は、多くの発言力を素材の展開に依存せず多様性で間を持たせる傾向がある。若年のモーツァルトに見られた同じ傾向でもそうであったように、予定音楽として徐々に進化してきたクラシック音楽の歴史において、即興音楽的な作曲はそれに特別な理由がないかぎり高い評価は得られにくい。

中略

ロマン派では音楽の流れを長く保ち、その途切れをいかに絶妙に処理するかという妙技が競われたが、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスが殊に息の長い音楽を書くことに成功したのは、彼らのひとつの武器であった高い知性による熟考の賜物であると言えよう。それに対してプーランクの旋律は、類似した旋律が様々な作品の中に見出され、それらはどれも長続きすることはなく、思いついたかのように強制的なカデンツァ(終止)に突入するという定型が認められる。それによって多くの音楽は途切れ途切れになってしまい、作品全体としての有機的な結びつきを求めることは困難である。また、レガートな旋律に対してスタッカートをもって対抗したり、その逆の展開、或いは長調から歪められた短調に転じるという意図的な表情の裏返しも彼は常套手段として多用してきたが、そこで発生する、作曲に思い詰まって開き直ったようなプーランクのカデンツァに際しては、歪められたドミナントとスタッカートを用いる雛型が頻出する。お転婆(てんば)っぽく耳に響くそのカデンツでは、笑いや落胆などの人間的親しみを呼び起こす彼特有の表情を持っているが、逆に、それによってクラシック音楽としての品格を欠いているという評価もなくはない、



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