ほぼ週刊イケヤ新聞ブログ版

コピーライター・ミュージシャン池谷恵司の公式ブログです。
私的メールマガジン「ほぼ週刊イケヤ新聞」のブログ版です。

”プチ”アドレスホッピングしてみた 1 印象

2020年10月31日 14時38分14秒 | DIARY
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”プチ”アドレスホッピングしてみた 1 印象

 
 
 

僕はなぜだだろう、以前から放浪系、永遠の旅人系に憧れてきた。理由はわからない。ウォールデンの「森の生活」のような田園、脱都会指向はなくて都市の方が好きだ。
映画で言えば、世界中を出張して回って家を持たない「マイレージ、マイライフ」にも憧れた。
https://www.amazon.co.jp/マイレージ、マイライフ-字幕版-ジョージ-クルーニー/dp/B01FD6ME8G

ミュージシャンで言えば永遠のツアーのようなものだ。PMG時代のパットメセニーも年に数日しか帰れないとインタビューで言っていたし、トランペッターのクリス・ボッティはツアーが日常で家を持っていない。そういえばホリエモンもホテル住まいだそうだ。
興味を持っていたところ、アドレスホッパーの高校教師、よしかわけいすけさんにインタビューする機会にも恵まれた。やってみたい気持ちが少しだけ具体的になった、

で、実は今回、よんどころない事情で家を出て都内のビジネスホテルに数日滞在することになった。なので、これをミニアドレスホッピングのつもりで過ごしてみたのだった。

まず端的に印象だけ言えば

1.GO TOの効果もあり、今ならビジネスホテルでも経済的にはいける気がする。というか、一人だけで暮らしているならホテルのほうが安く上がるかもな。電気光熱費もなくて、掃除もしてもらえて、生活道具も全てある。

2.家から歩ける距離なのに不思議と日常感が一気に吹き飛んで、旅に出ているようにワクワクして楽しい。仕事は一人でホテルの部屋にいるとめちゃくちゃはかどる。集中度が違うし、飽きたら瞬時に風呂に入れる。気分転換に外にでても商業地域なのでいろいろあって楽しい。

3.ただし基本的にはすべてが一人で、仕事などで人と合わない限り、会話する機会はない。寂しいといえば寂しい。これがよしかわけいすけさんのようにゲストハウスのようなところに泊まるのが本当はいいんだろうなと思った。
もしくは教師のよしかわけいすけさんにとっては「学校」という職場が貴族場所になったと言っていたが「会社」などの帰属場所と仲間がいることはある程度必要かもしれない。もしくは本当に人生そのものが単独でのアルプス縦走のような旅だと考えるか。

4.個人的には楽器が弾けない、吹けないのは辛い。2泊ぐらいでもつらい。でもアドレスホッパーでギターやベース、トランペットを持ち歩く人はいるだろうか。個人的には衣服とかは最小限でいいし、音楽もBluetoothスピーカーは持ち歩くのでサブスクで十分なんだが。

つづく。


私ではなく、あなたが死んだのはたまたまのこと。

2020年10月22日 23時59分59秒 | DIARY
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私ではなく、あなたが死んだのはたまたまのこと。

 

先週もいっしょに仕事をし、そして今週末もいっしょに仕事をする予定だったカメラマンであり、友人であり、写真の心の師匠であり、お互いにジャズ好きであり、ECMマニアであり、キース・ジャレットファンであったカメラマンのMさんが急逝した。亡くなる前日にも普通に仕事のやりとりをメッセンジャーでしていた。

Mさんと私なら、お互いにまあ元気に楽しく仕事できるぐらいに健康だったし、不摂生にまつわる健康上の問題なら私のほうが多いだろう。

神様が気まぐれに撃った「突然死」という流れ弾が私にではなく、あなたに当たったのはたまたまのこと。そう痛感している。

「サヨナラだけが人生だ」とはいい過ぎだと息子がいった。たしかにサヨナラだけではない。出会いがある。

出会いとサヨナラが人生だ。そしてすべてのものとの別れが、死ぬこと。

そして死ぬことは避けることができない、自然なことである。次はあなたかもしれないし、私かもしれない。

これからは

・少しでも体にいいことをしよう。質のいい食事を食べ過ぎない。適度な運動をする、ストレスをためないように。流れ弾の確率が下がるように。

・ひとと共有できる時間を大切にしよう。Mさんとの最後にあったとき「メシでもいく?」と言われて、今度にしましょうと別れてしまった。すぐにまた逢えるとあたりまえのように思っていたから。でもいつでもあるものなんてない。これからはそれぞれの人と共有できる時間が持てることに感謝し、その機会を大切にし、一期一会を心に刻もう。

・モノとのわかれ、身仕舞い、始末はどんどんはじめていこう。

・自分が好きなこと、周りの人が幸せになることをどんどんやろう。それが人生を豊かにするはずだから。


近藤等則さんのご冥福をお祈りします

2020年10月19日 20時55分48秒 | DIARY
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近藤等則さんのご冥福をお祈りします

 
 
 

エレクトリックトランペットの近藤等則が急死した。私が生涯見たライブで音楽人生が変わった10本を上げるとしたら、その上位に法政大学祭の徹夜ライブでみた近藤等則のチベタンブルーエアリキッドバンドが入る。

あれは凄かった。その後でた暗黒大陸ジャガタラがMCで「あんなステージみたらやってらんない」的な事を言いつつ猛烈な演奏を繰り広げたのを覚えている。

その後IMAになってからも何度も観に行った。大泉学園の東映のスタジオでも見たし、立川昭和記念公園での屋外ライブもすごかった。RECKのパンキッシュなベースとあくまで重い山木秀夫のドラムが素晴らしかった。オノセイゲンがライブPAをやっていたはず。オノさんとはその後仕事することになるんだが、なぜかその時は初見だったのに話しかけてくれた。

また近藤等則が白髪鬼になった近年も町田のライブハウスまで黒田征太郎のライブペインティングとの即興演奏を観に行って、終わりのトークショーでは質問もさせてもらったのだった。たしか渋谷でズンジャカのライブをやった後だったはずだ。エレクトリックトランペットをやってみたいと思った(数回やった)のも近藤等則のおかげだ。

YouTubeのインタビューでも元気そうだった。原因は報道されていないが急死であることはまちがいないだろう。ご冥福をお祈りします。


1日を3時間で暮らすいい男

2020年10月17日 14時28分26秒 | DIARY
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1日を3時間で暮らすいい男

 
 

珍しくHackの話題。そして出典は「一年を十日で暮らすいい男」だ。

メルマガか本だったか忘れたが、勝間さんが「一日の仕事は3時間にしている」というのをきいて、私も実践しようと思っている。とはいえ私の仕事の単価はそんなに高くない。

そこで私が考えているのは「仕事に集中する時間を3時間とる」ということだ。できればひとつながりの3時間、途中どこかに移動もせずメールもネットもみない。電話も出ない(最近は電話は少ないが)。ここをコアタイムとして一番負荷の高い仕事を済ませるようにしようと試みている。

さすがに長年仕事をしてきて年も取ってくると、適当な集中力でもこなせるタスクも増えているので、そちらは緩いテンションでやる。それでいいとして、一番集中を要求されるものは、コアの3時間でやるように行う。この区分けをすることで少し仕事のはかどりや精神衛生上、少しいい感じだ。

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一番大切なものは健康と人間関係、特に今、そしてこれからは健康。

2020年10月15日 11時53分05秒 | DIARY
ホリエモンと勝間さんが対談で「一番大切なものは健康と人間関係」と言っていたが、それは確かにそうだなと思うのだった。人間関係は日頃の積み重ねで邱にどうこうってことではないが、健康については特にステイホーム、リモートワーク時代の今、適度な運動と適切な食事の価値こそが「金」(きん)だ。
 
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オーストラリアのピーター・ノーマンという素晴らしい男に献杯する。

2020年10月13日 10時09分43秒 | コンサートレビュー
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オーストラリアのピーター・ノーマンという素晴らしい男に献杯する。

 
 

昨日はオーストラリアの1968年オリンピック、メキシコシティー大会でのオーストラリアのピーター・ノーマンのストーリーに泣いた。棺の先頭を担いだのは表彰台でブラックパワーソリュートを行ったトミー・スミスとジョン・カーロス。像を造るときに断り、そこには誰でもが載れるようにしたいと言ったそうだ。


https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/olympic/20.html

 
 

明日世界が終わるとしても、 私は林檎の木を植えて今日も打席に立つ。

2020年10月12日 14時08分18秒 | Works
人生、打率ではなく、打席数だと思う。
打てないかもしれないけど、打席に立つ。
もちろん日頃から素振りはしておく。

明日世界が終わるとしても、
私は林檎の木を植えて今日も打席に立つ。

だから若者も、打席に立て。できるだけ若いうちから。
立てるようになったらすぐに。
 
 
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狭間美帆さんも、私も涙ぐんだのだった

2020年09月20日 12時25分58秒 | コンサートレビュー

狭間美帆さんも、私も涙ぐんだのだった

 

 

8/16/2020 池袋の東京芸術劇場で、狭間美帆プロデュースによるシンフォニックジャズ・フィーチャリング渡辺香津美を見て涙ぐんだことを、忘れてしまいそうなので時機を逸したが書いておこうと思う。

コロナ禍による緊急事態宣言が終わって間もない頃、そしてまだあらゆる舞台の公演がまだ行われていない頃、僕は仕事で東京芸術劇場の副館長、高萩さんに取材する機会に恵まれた。

舞台人、演劇人、劇場が遭遇している未曾有の危機、その大きさの衝撃をまだ受けている最中だった。内容はぜひ上記記事を参照していただきたいが、その時に最も印象に残っているのは

「髙萩氏:そうですね。生の音楽や演劇が今まで以上に貴重品となり、大切にしたいと考える方もいらっしゃるでしょうし、今だからこそ、生の公演を見たいと思う方もいらっしゃるでしょう。私自身、今この状況でホールでオーケストラの交響曲を聴いたら、ものすごく感動するんじゃないかなと思っています。」という言葉だった。そして私もそれまで週に1回はピットインや下北沢アポロなどのライブハウスにジャズのライブを聴きにいっていた私も、同感だった。

その後、今までのキャパでの公演はまだ許されていないとはいえ、ライブは慎重に解禁された。私も数回いったが、家庭の事情もあり今までのようにノーリスクで行ける気楽さはない。

とはいえ、東京芸術劇場のコンサートホールで、ジャズのラージアンサンブルの第一人者である狭間美帆さんが、東京フィルハーモニー交響楽団と自身のm-unitで演奏し、そのメンバーに私が敬愛するトランペッター石川広行氏がいる、しかもゲストに渡辺香津美さんが来るというのは見逃せないと思い出かけてみたのが、どこにも行けない特別な夏のお盆の真っ最中8/16だった。

コロナ禍で最初の東京での公的ホールの最初の演奏、パイプオルガンのコンサートを東京芸術劇場で見たのが6月でその時のことは以下に書いた。

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大ホールでたった一人の奏者、わずか100人の聴衆。そこからやっとジャズオーケストラが聴けるようになった。とはいえキャパはまだ半分なので客席はやや淋しいし、半分で満席だとしても、満席には至っていなかったと思う。

コンサートが始まる、そのブザーが鳴って袖から「お願いします!」というオーケストラのマネージャーの声が聞こえてバイオリンを携えた奏者が左右の袖から出てきた、僕はそれだけで落涙してしまった。

音楽は聴くだけでも一人で練習するだけでも、そしてソロ演奏だって十分楽しいが、人と合奏する、アンサンブルする、バンドで演奏することの楽しさは、人生で他に比べられる物はないほどの歓びであり福音ですらある。それが長い間禁じられていて、ついに演奏できる、それを聴くことができると思っただけで、自分での予測できなかった、信じられないほどの歓喜を感じたのだった。

オケが揃い、長身で凛々しい狭間さんが出てきて指揮を始めて演奏が始まる。さすが新世代で、スコアはすべてiPadだ。オケの弦楽器の繊細な音、非常に高域まで伸びた弦を擦る音は、生のオケを聴かないと味わうことはできない。高橋信之介のドラムは大ホールに響いている。

一曲目が終わり、客席を向いた狭間さんは、コロナのリスクがあるなか、こんなに大勢の方に来ていただいて、感謝します、私も数ヶ月家に閉じ込められていて、お客さまの前で演奏することができませんでした、というMCをしたが、途中彼女も落涙して、言葉が途切れた。

コロナ禍について言えば、私は結果的に進化を助ける触媒である、であるべきだと思っている。必ず終息はする。しかしそこまで耐えて良かった、良かったと以前に戻るべきではないと思っている(すでに世間で言えば定年近いオッサンなので、戻りたい気持ち、なかったことにしたい気持ちも理解はできるが)。印鑑・社判、定時に毎日出社すること、それに伴う通勤通学の満員電車、頭数を揃えての意味の薄い会議、行かないと失礼になる営業など。デジタルテクノロジーを使って効率化すべきことは、このショック療法を機にどんどん進めていくべきだし、進んだ国、コミュニティは実はコロナ以前からテレカン、非印鑑、在宅ワーク、フリーアドレス、採用労働などは認めていた。だから、コロナ禍のお陰でやっと追いついたというレベルであって、コロナ禍があったからデジタル省ができたなんてのは、遅きに失したことだ。

しかし、コロナ禍で見えたもうひとつは、同じ場所で生のものを味わわないと享受できないこと、同期でないと体験できないことも、思いのほかあったと言うことだ。これは今後もなくしてはならないし、コロナ禍によって、それがいかに貴重で、大切で、贅沢で、歓びに満ちたことであるかということを認識できた。今まではノーリスクでやりたいほうだいだったわけで、ある意味無邪気なティーンエージャーの○○みたいものだったわけだが、○○は実はなくては文化的に死んでしまうもの、滅亡してしまうものであることがわかった大人として、今後、コロナ禍においてはリスクを管理しながら、そして必要なコストと手間をかけながら、今後も生演奏、公演、パフォーミングアーツをよりいっそう貴重なものとして育んで行かなくてはならないと思うのだった。

本文の終わり

で、以下はおまけ。

書き忘れたフィーチャリングゲストの渡辺香津美さんの演奏だが、多分素晴らしかったのだとは思う。ただ、わたしの席がオーケストラの下手真上の当たる席だったせいで(お陰で狭間美帆さんの指揮は前からしっかり見れて幸運だった)ギターアンプの音が殆どきこえず、PAの音もほぼ聞こえず、渡辺香津美さんも後ろ姿しか見えなかったのだった。

ジャズとクラシックの融合、という場合、音楽家の担う音楽性とは別の次元で、クラシック楽器とジャズの楽器の音量の問題、クラシックのホール音響とPAと弦楽器の生音の問題は、まだ大いに検討、改善の余地が膨大にあると思う。今回も私の席で聴いた印象では、ドラムのスネアの音は響きすぎる、でもハイハットやライドの刻みはあまり聞こえない。ウッドベースの音、ギターアンプの音はほとんど聞こえない、管楽器のソロの音も吸われていくので奏者はめいっぱい吹いてしまうので辛そうに見えた。(でも石川広行氏のソロは、何時もの小音量の時とはまた違った鳴らし方で、それが味わえたのは良かったし、ソロの内容も実に素晴らしかった)

ちなみに、毎年通っている渋さ知らズのラフォルジュルネでの東京国際フォーラムのホールで聴く時も残響が大きすぎて音がぐちゃぐちゃだったし、ある年の渋さ知らズ知らズのラフォルジュルネは演奏者として参加したこともあるが、ステージ上でもバンド全体の音は非常に聞き取りにくかった。

このあたりは、ジャズ+クラシックという音楽ジャンルの内容がどんどん進化し、現代の音楽のクリエイティブの最先鋭となる中で、音楽家を支える音響チームには頑張っていただきたい点だ。


最近自分が液状化してきたと感じることがある。

2020年08月26日 16時44分53秒 | DIARY

最近自分が液状化してきたと感じることがある

 


最近自分が液状化してきたと感じることがある。

一つのきっかけは
・(ピー!ここは自主規制)
・そして自分の人生がそれほど先は長くないだろう、と思うようになったこと。年齢がそろそろ還暦が見えてきた程度だが、いままで健康に留意した生き方はしてこなかった。
特にステイホーム以降、体重がまた増えた。不健康な状況にある。

人間が生きると言うことはどういうことなのか。
それを時々考える。
哲学的な話をのぞけば、端的には生命とは化学反応だ。
それはウィルスが再確認させてくれた。
たまたま脳という器官を持ちそれが化学反応の妙で
自意識というものを持ち、
自己の生命を生きながえさせたいと思うように
なっているだけなのではないか。
無数にある細胞は、そんな意識とは別に
自他を免疫機構によって峻別している。
新型コロナウイルス(COVID-19)がそのことを改めて認識させてくれた。

人生、文化、家族、暮らし、愛。
それらはすべて素敵だし素晴らしいものだが、
細胞の化学反応によってもたらされている奇跡でもあって、
そこには善悪も意志もなく、単に宇宙規模のなんらかの物質の変容、そのプロセスがあるだけではないか。

そんなことを考えているうちに、
どんどん自分が液状化していく。

ただし、音楽だけは素晴らしい。
演奏をしたいし、演奏を聴きたいし、それによって魂が動かされることを
たまらなく幸福に感じる。

2020/08/26 14:27


ホールで演奏を聴くことが、どれだけ貴重でかけがえのないことになってしまったのか

2020年06月23日 16時04分16秒 | コンサートレビュー

私は自分で演奏もするが、ライブもよく見る人間で、観に行くライブはジャズがほとんどだが、週に1回は(ほんとうはもっとたくさん見たいが、なんとか1回に抑えていた、抑えられないことも多々あった)ライブを見る人間だった。

ライブハウスの客席で演奏を聴くことは、人生でも最上級の幸せのひとつだ。しかしコロナが話題になった頃から、ライブに行く数は激減し、緊急事態宣言以降はあらゆるコンサート、演奏会、ライブハウスが閉鎖されたため、ライブ演奏を聞く機会は絶無となった。

生演奏ではない、再生演奏は聴いていた。今でも聴いている。私はAppleミュージック、Spotify、soundcloud、Amazon Music、YouTubeとなんでもこいとばかりサブスクリプションでも好きな音楽を聴いていて、一日に音楽を聴いている時間は、普通の人よりかなり長いはずだ。仕事をしながらヘッドホンやスピーカーできいているわけだが。

生演奏を聞く機会が減った分だけ、再生音源を聞く時間は間違えなく増えたはずだし、ロックアウト期間、家にずっといることが辛かったのでやたらと散歩に出た。一時間以上はザラだったが、その時もずっとワイヤレスヘッドホンで音楽を聴き続けている。ベイビードライバーなみにな。

6月からはジャズ系のライブハウスも再開しているが、家族に基礎疾患を持つものがいるため、現状ではまだライブハウスには出かけていない。

そんな状況の中、仕事絡みで、6/18に東京芸術劇場で開催された、都内の公共ホールではコロナ後初のパイプオルガンコンサートを聞く機会に恵まれたのだった。

キャパ1,999席の座席で、わずか100名。これは東京都のステップ2に準拠したキャパだ。入場時にはマスク着用、入り口で検温。対面でのやりとりを避けるためチケットは自分でもぎる。劇場スタッフはフェイスマスクにマスク着用。パンフレット類は机にあるものを自分でとっていく。クロークやクローズ。ラウンジの椅子は三人掛けの真ん中に座ってはいけないマーク。

ホールに入る。席はひとつおきに「座ってはいけない」マーク。

今まで普通に聴けていたホールでのコンサートが、コロナ禍で三密を避けるために支払うコストは、かくも大きい。大きな2000人のホールにパラパラと100人が座る。そしてパイプオルガン奏者が登場する。満場の拍手。100人だが、みんなが一生懸命叩いている。自分が手を叩く、そして同じように手を叩いている人が周りにいる。

この当たり前の環境が、涙が出るほど懐かしく感じられる。

そしてパイプオルガンが鳴る。

大きなパイプがホールの空気を振動させる。

自分が弾く以外での、再生音でない楽器の音を聴いたのは何ヶ月ぶりだっただろうか。

決してクラシックが詳しいわけでも、ましてはパイプオルガンの曲に詳しいわけではないが、バッハのコーラルは、まさに渇いた心に染みた。

ホールや広い会場での生演奏は、いまや当方もない贅沢品、もしくはリスクを伴うものになってしまった。

でも両隣の席の分まで買ったとしても、やはり生演奏は聴くに値する素晴らしいものであることが身に染みてわかる。


パイプオルガンは、大ホールの空気を震えるほどの低音を響かせる。これは決して再生音源では感じることができないし、再生音でこの容積のホールを響かせることは、できない、いやできるが、意味がない。私にとって音楽は生活必需品であって、ヘッドフォンやスピーカーを使って、再生音源を毎日数時間聴いているわけだが、久々に聴いた生の音楽は、再生音とはまったく違う次元にあることを強く感じさせた。

こういう場合の比喩は不正確だし危険だが、あえていえば、カンズメ、レトルトパックを家で使ういつもの皿に不器用に盛ったような食事と、シェフが料理する一流のレストランで供される一皿、あるいは白木のカウンターに出されて食すにぎり寿司。そんな違いだ。どんなに貴重であろうと(リスキーであることは困るが)、やはり生の音楽が聴きたい。これが聴けないのであれば、正直いって、なんのために生まれてきたのだろうと思えるほどだ。そしてレトルトの食事に慣れてしまうのも怖ろしい。

(スティーリーダンとかビートルズ後期の音源とか、冨田ラボみたいに録音音源だからこそできる芸術はあって、それは否定しないし大好きだと細くしておく。)

ほんのひとつ、コロナ禍でいいことがあったとすれば、自分にとって音楽がどれだけ価値のある重要なことであるかを身に染みて感じることができたことだと、今私は悔し紛れに思っている。


コロナ後、あるいはウィズコロナ

2020年05月25日 11時00分28秒 | SCRAP and BUILD

ひとりごと。

 

コロナ後、あるいはウィズコロナは、パラダイムシフトとなるのか。

あるいは、慣れ親しんだ日常が戻ってくるのか。

気持ちとしては後者を望むが、

おそらく前者だろうな。

もし日本が後者を選ぶのであれば、まちがいなく世界の趨勢に後れを取り、

終わった国になってしまうだろう。

もうひとつ。

なぜ日本が、いや、東アジア全般に死亡者が少ないのか。

優れた行政手腕で感染を押さえ込めたとは思えない。

ノーベル賞の京都大学本庶教授が言っていたが、

新型コロナウィルスに対する抗体、あるいは免疫力が人種によって違うのではないかということ。

それはあるように思うのだった。

 

 


「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」

2019年11月28日 19時06分59秒 | 映画レビュー

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」

 
 
2019/11/28 19:05
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「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」


旅先で映画館に行くのが好きだ。
以前ユナイテッドシネマの上映前のCMムービーで
英語のナレーションでアメリカのセールスマンが、セールスの長い旅に出ている時、映画館に行く、そこは慣れ親しんだ自分の家のようだから、というものがあって、それがとても素敵だった。

で、高崎に出張になったので、検索したら「ドリーミング村上春樹」というドキュメンタリー映画をやっていたので見たのだった。
村上春樹の小説は世界中で翻訳されているが、ポーランド語版は一人の女性によって訳されている。その訳者のドキュメンタリーだ。

良くできたドキュメンタリーかどうかはわからなかったが、映画中にカエルくんが出て来たり、月が2つあったりとさりげない上品なユーモアが素敵だった。短い映画だったが、出張中で仕事も詰まっていたので、それも良かった。

で、本論だが、翻訳の有用性と不可能性という相反することを強く感じさせられたのだった。

冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」を訳するのに、訳者は非常に苦労するが、その文章は英語で、センテンスなのか、リタラチャーなのかでずっと悩んでいる。映画の最後の文学、小説に相当するリタラチャーを採用するようだが、それはちょっと違うなと思った、ただし一文だけを意味するセンテンス、もフィットしない。つまり、やはり訳すことはできないのであって、これは賽の河原を積んでは倒されることによく似ている。

ポーランドの人にとって村上春樹の小説を読むには、ポーランド語に訳されることは非常に大きな有用性がある。
しかし、本質的には書かれた言語でしか、本質はつかむことができない。

私は下手なジャズボーカルを歌うが、やはり英語の歌詞は、英語でしか表現できない、心の中の歌、動き、感情も英語がネイティブになっている。
ちなみにこれが出来ていないジャズボーカルを聴くことが多々あるが、これはとてもきけない。
同時に、ポルトガル語で歌いたいボサノバがあるが、めくらめっぽうカタカナでおぼえて歌うのは、お経を暗記してただ言うだけの門前の小僧のようで、それもできない。せめて歌う歌詞の分だけではポルトガル語の意味を知りたいと思う。


そして、もっと上があるという希望と感動は,大切だと思う。

2019年11月13日 12時01分28秒 | コンサートレビュー

そして、もっと上があるという希望と感動は,大切だと思う。

2019/11/11 17:44
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なんとなく、感覚とセンスで、そこそこできてしまう。
だから、いい感じでやっていて、かっこよく決めたつもりでいて。

でもある日、才能も資質も技術も全く上のレベルの人たちがいて、その人たちがものすごく努力をしていることを知る。

そのときの悔しさと、情けなさ。
そして、もっと上があるという希望と感動は,大切だと思う。


人生には想定しなかったことが起きることがある

2019年11月05日 01時24分46秒 | 仕事、あるいはGTD

 

人生には想定しなかったことが起きることがある。

 

これは去年の東京国際オーディオフェアのことだが、

とある事情で私が東京国際オーディオフェアのデノンブースに、

デノンのサウンドマネージャー山内さんのコーナーに登壇したのだった。

楽器を持たずに人前に立つというのが、滅多にないわけなのだが、

なかなかに楽しかった。

今年はその機会はなかったが、

こんな楽しい「想定外」はまた起こってほしいと思うのだった。

 

 

 


今歩いているこの道が いつか懐かしくなればいい

2019年10月25日 10時02分34秒 | 仕事、あるいはGTD

 

法人成しているとはいえ、フリーランスみたいな一人会社だが、

ここ数年、継続的にいろんな方々からキャパオーバーぐらいに仕事をいただいている。

ありがたいことだが、いつも追われている感覚がある。

先日、あまりないことだが、いままで3年続けていただいてきたお仕事を「来年は結構です」と言われた。

きちんと理由もご説明いただいた。

私の不注意もあったし、正直言って先方の求める物と私の指向の向き不向きもあって、

これからはなかなか厳しいとは思っていたが、やはり、という気がした。

 

最近加齢のせいか、以前より集中できる時間が減ってきたように思う。

ただ私の仕事は文章を書く仕事で、準備段階はいいが、実際に「書く」という行為には

かなりの集中力、少なくとも数時間にわたる集中力が必要だ。

これが一日に数回、は厳しくなってきている。

 

実はライティングよりコピーのほうが得意なのは、集中力は強烈だが、長時間ではないことだ。

とくにキャッチコピーは、瞬間的な発想だから、どちらかというと得意。短距離走だ。

ある程度の長さのライティング、4000字とか一万字などの中長距離走となると、数時間のインテンシティが必要で、なかなか厳しい。

 

とはいえ、すでに予感しているのは、さほど遠くない将来、

だんだん仕事が減ってきて、あまり稼動できなくなった頃、

仕事に追われていた頃を、うらやみ、懐かしむだろうということだ。

 

だから、今は、老いて腕が落ちた頃の自分に向かって

「いいだろ!」と見せつけつつ、ガンガンしごとをやっていこうと思うのだ。

 

めずらしく音楽のことではないことを書いたが、

私が仕事で書く内容の90%は音楽か楽器に関連したものなのだった。