▲<乾杯の様子>
3月15日、19:00から那覇市寄宮の「JA寄宮支店」で、高校野球春の甲子園出場校に決まった「興南高校」野球部監督の激励会に、縁あって参加させて頂いた。
甲子園へ行く前日の激励会で、参加者は、地元の経済界や個人的な仲間である。
集まった方々の激励のスピーチがあり、我喜屋監督本人のスピーチがあり、ゆったりした中、我喜屋監督のお人柄が出ていた激励会でした。
15分間位のスピーチに、監督の指導スタンスや人柄が出ていて惚れました。
「監督は、試合になれば何も出来ない。サインで動いているのは、本当ではないんです。選手が自分で考え動けて、メンバー一人のために全員が動くようになる事がいいんです・・・。」の話が印象的でした。
▲<「我喜屋優氏」は、高校野球指導者というより、大企業の人事部長の様な方でした。>
監督は、1950年生(58歳)で、興南高校4期生。夏の甲子園で興南旋風を起こした時のキャップテンで4番。卒業後、静岡「大昭和製紙」に入社し、後に転勤で北海道白老町へ。
1974年に大昭和製紙北海道は、都市対抗野球で優勝し、北海道に初めて優勝旗をもたらした。
その後、沖縄育ちの我喜屋さんは、経験のない寒さの中で34年間の実業団の野球人生を送り、監督も経験するが、監督就任3年目の93年に廃部が決定した。
しかし、地元、白老の住民は、見捨てなかった。
地元企業や自治体が資金を集めクラブチーム「ヴィガしらおい」としてスタートさせた。
95年には、都市対抗に出場を果たした。
97年チーム解散後も北海道に残り、野球教室や観光協会の役員を務めた。
その間、隣町、苫小牧市「駒大苫小牧」の香田監督にも、雪上トレーニングをアドバイスした。
2007年に母校から監督要請があり、就任4か月で沖縄代表になり、その指導法は、高校野球界は勿論ビジネス界でも注目を集めました。
その秘訣は、生徒達の生活習慣から改めた事。
挨拶から始まり、規則正しい生活を送る事や、掃除をさせ精神を律する事を徹底させたようです。
「ゴミを拾う生徒は、バントも上手い」と監督は言う。ちょっとしたゴミひとつでも見逃さずに拾える事は、小さな事でも気にかける事が出来るという訳で、生徒いわく「考えて野球をするようになった」。
このような指導者に出会った球児は幸せだ。
このような、我喜屋さんですから今夜は、学校関係者ではなく、我喜屋さんの人柄に惚れた人達の集まりでした。
25日の初戦「富山商業」にまず勝利し、第2戦「天理と慶応」の勝者との戦いが待っている。
▲<中央「我喜屋監督」右「高江洲忠氏」左「本人」>
そして今日見事優勝を果たしましたね!
おめでとう!
がねこ選手
しったー打ってた
ぱないかっこよかったです
もう1度あの感動を夏で
見せて下さい
私達わ
ちょうど試合中で
見る事ができなかったのですが
携帯を離さずもつほど
応援してました
本当に感動をありがとう
夏期待してます
自分達のチームも
あんなチームに
していきたいです
全国制覇
がんばります
うれしいです。いろんな困難を乗り越えての勝利だと思います。故郷沖縄の興南のがんばりを誇りに思います。