彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月12日、乙巳の変

2008年06月12日 | 何の日?
645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足らが、宮中で蘇我入鹿を暗殺します。

俗に“大化の改新”と呼ばれていますが、翌年に発布される『改新の詔』が本当の大化の改新で、この暗殺事件は“乙巳の変”と呼ばれています。

昨年、蘇我入鹿邸の遺構が明日香村で発見されて新聞の一面を飾りました。その時に「蘇我入鹿何気なく聞いた事がある名前なぁ」と思い出した人も多かったのではないでしょうか?
でも、ただ名前が面白いだけで何をした人か分からないと言うのが本音ですよね。
蘇我入鹿は、お祖父さんの馬子が聖徳太子と共に政治を行なっていた人でした、太子の死後間もなく馬子も亡くなりますが、聖徳太子の子孫である上宮王家と蘇我氏の協力体制が続く筈でした。
しかし、入鹿は蘇我家の単独政権を狙って上宮王家を襲って、王家の人々は全員自殺し滅びたのです。
この先、歴史上に聖徳太子の子孫が登場しないのは、この時に残った人がいなかったからなんです。もちろん、太子の子孫を名乗る人は今でも居ない筈です。

そんな蘇我氏の横暴に怒った中臣鎌足は皇族の中から特に勇気と行動力のある中大兄皇子に接近して入鹿暗殺を企てたのです。
こうして、宮中の儀式を利用して中大兄皇子自身も武器を持って入鹿に襲い掛かったのでした。
襲われた入鹿は儀式に参加していた皇極天皇(中大兄皇子の母親)に対して「私に何の罪があるか」と叫んだと記録が残っています。
この日は雨だったそうで、そのまま問答無用で殺された入鹿の死体は雨で水の溜まった庭に捨てられ、上から障子が掛けられたのです。

この功績で中大兄皇子は皇太子となり鎌足と共に大化の改新を進めますが、中大兄皇子はその後2代は別の人物が天皇を務めた後に皇位に就きます。
これは、実の妹である間人皇女(皇極天皇の次の天皇である孝徳天皇の皇后)と近親相姦の関係があったためと言われていて、間人皇女が亡くなってやっと皇位に就く事が出来たのです。
それが、悪名高い天智天皇です。
鎌足は、「藤原」姓を与えられてその子孫たちが公家の最高権力を握り続けるのです。

余談ですが、一説では大化の改新を進めていた人物は蘇我入鹿で、その成功を恐れた中臣鎌足が中大兄皇子を巻き込んで入鹿を暗殺して、その功績を引き継いだ。という説もあります。


さて、相変わらず彦根に関係ない話を書いています。
確かにこの事件は彦根とは関係ありませんが、藤原鎌足を始祖とする藤原一族はこの先の歴史に大きく関わってくるのです。

まずは佐和山の名前の由来ですが、鎌足の息子である不比等は、“淡海公”という呼び名で呼ばれる歴史が示す通りに近江国太守の時期があり今の芹川町辺りに屋敷があったと言われていて“長者屋敷”と呼ばれていました。
この不比等が、長者屋敷から見た山の形が、父の鎌足が眠る明日香の「佐保山」に似ていた事から、この山を佐保山と命名し、それが時代を経て「佐和山」となったのです。

そして不比等の次男である藤原房前(藤原北家始祖)も近江国司を務め、720年に元明天皇の勅願で金の亀に乗った聖観世音菩薩像を本尊とする寺を建立しました。この寺が今の彦根城が建つ彦根山にあった彦根寺です。

もう一つ、房前-真盾(房前三男)-内麻呂(真盾三男)-冬嗣(内麻呂次男)と続いて繁栄を極めた藤原北家。
その藤原冬嗣の六代目が遠江守の三国共資で、共資が娘婿として迎えたのが井伊家の始祖となる井伊共保になるのです。


この事件で、藤原鎌足が世に出なければ壮大な彦根の歴史の殆どが違っていたと思うと、小さな縁でも注目してみたくなりませんか?

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